15.女騎士と女奴隷と電車

「あたしずっと思ってたことがあるんすよ」


 ちゃぶ台に顎を乗せて、スマホをいじくり回しながら渚が言った。

 なんだ、とぶっきらぼうに俺が訊くと。


「あたし達がこうして会うのって、基本あたしがセンパイんちに来る形ばっかりですよね」

「……ああ」

「なんかそれおかしくないっすか? 上げてもらってばっかりの身で言うのも何ですけど、家からここまでこうして何十分もかけて来るの結構キツイんすよ」

「……ああ」

「でしょぉ? たまには気分転換に、センパイがあたしんとこに来るとかしましょーよ。どう考えたって不公平っすよ」

「……ああ」


 パタン。と俺は読んでいたジャンプを閉じ、目の前の缶ジュースで喉を潤した。

 こっちを恨めしそうに見つめてくる渚に対して、俺は静かに答える。


「確かに、この数ヶ月間そんなんばっかだな」

「うんうん」

「まぁお前も女の子だし、移動時間が長いと何かと大変だよな」

「うんうん!」

「ただな、それに関して言っておきたいことが一つある」

「?」


 ふぅー、と俺は長い息を吐き、言った。



「今までこの家にお前を招待した覚えが一切ないということだ」



 それを聞いた渚はしばらく呆けた表情でいたが、すぐさま「ハァ?」と顔をしかめた。


「全く、センパイは話を逸らすのがうまいっすねぇ。わけわかんないこと言うのやめてもらえません?」


 なんでだろうなぁ。この上なくストレートに切り返したつもりなんだがなぁ。わけわかんねぇのはお前の方なんだけどなぁ。

 あ、そっかぁ。こいつは人の道から逸れてるから話通じねぇのかぁ。なるほどなぁ。


「つーわけで、センパイ今週の土曜日リファっちとクロちゃん連れてあたしンちに来てください」

「は!?」


 いきなり決められた週末の予定に俺は面食らった。

 冗談じゃない、何を勝手に……。

 早速抗議の声をあげようとしたのだが、それよりも前に反応したのが約二名。


「渚殿の家に行けるのか!?」

「生米さんちに行けるんですか!?」


 異世界人、リファとクローラ。ああもうこいつらは……。

 一気に二人の味方をつけた渚は得意気に語り始める。


「もちもち。一戸建てだから、広いし快適だよー。美味しいお菓子もおもしろいゲームもたくさんあるよ~」

「「わ~い!!」」


 完全に子どもを誘拐する不審者の口上そのものなんですが、それは大丈夫なんですかね。

 だがこれで形勢は俺が不利……渚んちに行くことはほぼ確定になりつつある。

 リファとクローラをまだ一人で遠出させるのはまだ無理がある。なので必然的に俺が同行せねばならない。そして極めつけに渚の家は国分寺という八王子からかなり遠いところにあるという。

 同居人二人が行きたがる分には勝手だが、俺は行きたくねぇんだよなぁ……。


「ってことで決定ということで。センパイは二人連れて土曜日の朝9:00に国分寺集合で」

「学校の一限より早ぇじゃねーかよ! やだよ!」

「ここまで話進めといて何ガタガタぬかしてんですか。往生際が悪いなぁもう」


 うん話進めたの君だからね? 君が勝手に銀河超特急で進めてんだからね?


「じゃ、じゃあこうしよう! テストで勝負だテスト!」

「テスト?」

「そう。そうだな……確かえっと……そうだ。毎週火曜の社会政治学! お前、前期に俺と一緒に履修してたよな! あれの授業内期末試験の結果で点数高かった方の言い分を聞くってことでどうだ!」

「はぁ……」


 勝った! 油断したな馬鹿め! 社会政治学は期末試験の中で最も評価がよかったやつ。こいつには負ける気がしない!

 勝利を確信して俺は心の中で高笑いした。


「俺は100点満点中88点! さぁお前はどうだ!」

「あたしはその日自主休講して試験を受けていない。よって勝負は無効」

「何!? 試験を受けていないなら点数ゼロではないのか!?」

「ハイ、ということでセンパイの負け。当日は時間厳守でよろしくぅ」

「なんでや!?」

「往生際が悪いぞマスター」

「悪いですご主人様」


 くそ、異世界人二人まで援護射撃してきたよ。多数決ってこの世で一番クソな制度だと思うわ俺。実力至上主義もっと流行らせコラ。

 そんなこんなで俺の楽しい週末が、黒く塗りつぶされていくのであった。



○自動改札



 で、当日。

 俺はリファとクローラを連れて、いつものバスに乗り込んでいた。


「でんしゃ?」

「そう。バスだけじゃなく、今日は電車を使ってあいつんちに行く」

「バスのご親戚みたいなものでしょうか?」

「そんなもんだ。何度か八王子駅前に連れてったろ。あそこって実はただの繁華街じゃなくて、電車の停留所みたいなものなんだ」

「え、あれがですか!?」


 クローラは意外そうな声を出した。


「でも、あそこにばすやくるま以外の乗り物は見当たりませんでしたが……」

「まぁ電車の場所まで連れて行かなかったからな。そもそも『駅』が何なのかすら教えてないし」

「そう言えば気にはなっていたが、結局訊きそびれたままだったな。なるほど、でんしゃの止まる場所だったのか」

「それで、どうして今日に限ってそれをお使いになるのです? 生米さんのおうちは『ばす』では行けないようなところにあるのでしょうか?」

「こういう市営バスだと、移動範囲がそこまで広くないんだよ。今乗ってるやつは現に八王子駅前までしかいかないしな」

「だが、でんしゃならそれができる、と?」

「そ」


 それを聞いた二人は、一体電車がどういうものなのかと想像して頭を悩ませる。

 バスよりも遠くまで行ける乗り物、としか教えられずに思い浮かべるのは果たしてどんなものなのやら。

 そんでもって車内で揺られること数十分。やってまいりました八王子駅前。

 駅前のバス停で降車し、今まで未踏の地であった駅の内部まで行く。

 まずは券売機で切符を買う。Suicaでいいかと思ったが、買い方を覚えておくほうが重要だと思ったので、あえてこちらを選択した。


「こ、このキカイ達は……」

「コンバータのようにも見えますが……」


 ずらりとならぶ券売機を見渡しておたつく異世界人二人。彼女らの横で財布を出しながら、俺は軽く説明する。


「これは券売機。切符って言って、電車に乗るための許可証みたいなものを買う場所だ」

「ばすでいう乗車券と同じものでしょうか? あれは乗る時にただで貰っていますが……」

「でも、降りるときには金を払うだろ? これはその逆で、あらかじめ金を払って券を買い、それから乗るってわけだ」

「前金制か……でもなぜそんな違いが?」

「バスって支払い時は一人ずつやってくだろ。でも電車ってそれよりも多くの人を乗せるから、それだとあまりにも多くの時間がかかる。だからここで先に個人で済ませておくってわけ」

「降りる時には何もしないのか」

「うん。これといって何かする必要はないね」

「し、しかしマスター」


 俺の説明にリファが軽く手を上げて質問してきた。


「私もバスのことは少しは勉強したのだが……あの『きっぷ』というのは、各々がどこからどこまで乗っていたかの証明、つまり乗車した距離を把握するものだろう? そしてその距離に応じて金額が変わる。最初からこの券を買うというのはおかしいというか……」

「というと?」

「つまり、電車の券はどこまで乗るというのをあらかじめ決めて買うわけだろう? そして降りる時には支払い等の手続きがない……これでは」

「ごまかしがきく……と?」


 こくり、と女騎士は頷いた。

 なかなか初見にしてはいい目のつけどころだ。騎士の仕事に治安維持も含まれているのであれば、キセル乗車なんて軽犯罪を危惧するのも自然なことなのかもな。


「その辺についても心配いらない。ちゃんとそういうのを防止するシステムが存在する」

「それは一体?」


 俺はニヤリと笑って券売機の後方にあるモノを指差した。

 彼女達もつられて指先の延長線上に視線を移す。するとそこには……。


「? あそこにもキカイが沢山ありますね」

「そうだな……人が行ったり来たりしているが……」

「あれは自動改札機だ」

「「じどうかいさつき?」」

「噛み砕いて言えば、あそこでバスの降車時の処理と同じようなことをする。券をチェックして、通っていいのかダメなのかを判別するんだ」

「そんなこともキカイがやってくれるのか!」


 リファが目を輝かせながら軽く拍手をした。


「なるほど。つまりあのキカイに判定を受け、選ばれし者だけが電車に乗る権利を有すると……ふむ、なかなか面白い」

「ご主人様、逆に選ばれなかった方はどうなるのです?」


 クローラの問いに、俺はどう説明してよいか迷ったが……。


――ピンポーン。がちゃんっ!!


 と、いう音が突如改札口の方から響いた。

 何だと思ってみてみると、一人のリーマンが閉じたフラップドアに足止めを食らっていた。

 きっとチャージ金額不足かなんかだろう。不謹慎だが、いい例が見られたな。


「ほら、ああやって扉が閉まって、通行止めになる」

「おお。そしてゆくゆくは警備隊に連れられて処罰されるというわけだな!」


 別にそこまでされはせんけど……。

 とにかく、一通り乗車券のことについて覚えた所で早速買ってみよう。


「まずは上の路線図を見て行きたい場所を――」

「ま、マスター? これは……なんだ? 糸がこんがらがってる絵か?」

「これは電車用の地図みたいなもんだ。あの糸みたいなやつにそって進んでいく。途中にある文字は駅名な。赤い印が着いてるだろ。あれが今いる駅である八王子。そして、目的地が……六つ隣りにある国分寺な」

「停留所六つ分しか移動しないのか……随分近場ではないか」


 果たしてそうかな。と俺は声には出さずにそう返事をした。


「ご主人様、えきめい? の下にある数字は……?」

「ああ、あれは運賃だよ」

「うんち?」


 死ね。


「今いる場所を起点として、そこまで行くための料金。対応した金額を券売機で支払えば、その券が出て来る」

「券=払った金ということか」

「そ。だからくれぐれもなくすなよ。バスだったら運転手に謝ればなんとかなるけど、こっちは洒落にならん」

「む。わかった」


 ということで、二人共たどたどしく券を購入。そしてしっかりと切符を握りしめて改札口へ向かう。ちなみに俺は通学用に使ってるSuicaがあるので、それを使用。

 さて、いよいよ改札口の選別を受けるわけだが……。どうもその手のシチュは異世界人には緊張するものらしく、ビクビクとしっぱなしであった。そんな関所じゃないんだし、切符であれば入場で弾かれることなんかありえないんだけど。


「わ、私から行こう」


 先陣切ったのはリファ女史。

 さぁ、彼女は果たして自動改札機の許可を得ることができるのでしょうか!?

 恐る恐る切符を投入口に差し込むと……。

 がちょん! と音がして一瞬にしてそれは改札機の中へ吸い込まれていった。


「ぴぃ!」


 思わずビビって飛び退いたリファ。だがそれ以降特に何も怒らないことを不審に思ったのか、俺らの方を振り返って助言を乞うた。


「そのまま通りな。出てきた切符は忘れずにとっとけ」

「なぬ? これで終わりか!? 案外単純だな……えっと、切符は……あ、あんなとこに」


 ほっと一息ついた女騎士は素早く改札を通り抜け、切られた切符を取り、入場成功。


「通ったぞー!!!」


 両腕を上げて叫ぶ女騎士。まるでどこからか歓声が聞こえてきそうな喜びようだなオイ。

 お次はクローラなわけだが、リファの様子を見てからなのか、若干緊張は和らいだ様子。


「リファさんにできたなら……私にだって……」

「お前ホントはリファのこと見下してるだろ」


 俺のツッコミは華麗にスルーし、ついでに改札もスルーしにかかるクローラ女史。

 深呼吸して、切符を投入。

 切符を切る音にも臆せず、そのまま目を閉じてぴょん! と両足で向こう岸まで跳躍した。

 最後まで何も起きなかったことを確認すると、深く安堵の息を吐く。


「ご主人様……クローラは、やりました……」

「お、おう。よく頑張った」


 取り立てて褒めることでもないけど、本人はとてつもない偉業を成し遂げた気分っぽいので合わせておいた。

 さて、俺もいくか。

 ポケットからSuicaを取り出して、いざタッチ・アンド・ゴー。


 ドガシャン!!!!


 フラップドア、閉鎖。

 ピンポーン、という無慈悲なアラートが鳴り響く。

 改札機のディスプレイを見てみると、「チャージ残高不足」の文字。Suicaを始めとする電子マネー利用者にしか適用されないエラー。

 迂闊だった……こんなところで引っかかるとは……。

 いや、待てそれより!

 俺は重大なことに気付いて、駅内部にいる異世界人二人を見た。


「マスター……」

「ご主人様……」


 やはりというかなんというか、彼女らは心底哀れんだ瞳を俺に向けていた。

 くそやめろ見るな!そんな目で俺を見るな! 

 だが俺の心中など察することなく、察しようともせず、二人は俺に背中を向けた。


「行くぞクローラ。マスターは選ばれなかったのだ……」

「はい……。ご主人様……あなたの死は無駄にはしません。ちゃんとご主人様の分までお菓子食べてきますから」

「いやちょっと待て! 違う! これは違うんだ! これはチャージ不足っつって、金が無いっていうだけで……いや金はあるけど、この券の中にないってだけで本当は通れるんだけど、ちょ、待てクローラ、リファ! 待てってのーーー!!」



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○ホーム


「え、駅というのは随分と入り組んでいるのだな」

「です……まるで迷宮みたいですね」


 なんとか三人とも入場し、次はいよいよ電車に乗るぞというタイミングで二人は言いだした。

 駅で迷うというのは別に現代人でも珍しい話じゃない。俺だって前に新宿とか池袋とか行った時はホントわけわかんなかったからな。

 とはいえ、八王子駅はホームは6番線までしか無く、そう迷うほどのレベルじゃない。それに一応最寄り駅なわけだし、ここでしっかりと構図は覚えておかないとな。


「えっと、俺達が利用するのは中央線だ」

「ちゅうおう、せん?」

「電車ってのはいくつか種類がある。それによって行く場所が違うんだ。さっきの路線図で、線に色が着いてたろ」

「そういえばそうだな……ということは乗る電車を間違えると、違うところに行ってしまうということか」

「そーゆーこと。あと注意するのは進行方向。バスと同じく、電車ってのは双方向に走ってるから、逆のに乗ると目的地とは遠ざかっちゃうんだ。だからそこんとこは気をつけて」

「む。わかった。えっと、行き先はこくぶんじ、だったな……だけど、わかったところでどこに向かえばいいのか……」

「リファさん、あれじゃないですか、あれ」


 そこでクローラがとあるものを指差してリファに伝えた。


「ほら、あそこに『東京・新宿・三鷹・国分寺方面』って書いてありますよ!」

「おお! あんなところに案内板があったのか!」

「よく見つけたなクローラ。あれを見れば、迷わずに済むだろ」

「そうだな……いやはや、ちゃんとそういうところにまで配慮が行き届いているとは……恐れ入る」


 てなことがあったけど、無事ホームにまでたどり着いた俺ら。

 まだ電車は来てないらしく、別のホームにもその姿は見当たらない。閑散とした駅構内が広がるだけだ。


「まだ、でんしゃは来ないようですね」

「うん。でもあと数分でくるよ。少し待ってよう」

「はいご主人様」

「リファもそれまではおとなしく……って」


 見てみると、リファは俺の言葉なんかそっちのけで、ホームの下にある線路をじっと見つめていた。


「落ちるなよ?」

「わっ、マスター? 心配するな。ただあれが何かちょっと気になって……」

「線路だよ。あそこの上を列車が走るんだ」

「あの上を? 普通に道路を走るんじゃないのか?」


 もっともな疑問だ。さて、どうやって説明したもんか。


「確かにバスは道路の上を走る。でもそうすると他の車とかと一緒の道を行くわけだから、混雑してたりするとそれだけ移動時間が変動する。でも電車は、線路っていう専用の道を道路上に作ってるから影響を一切受けないんだ」

「ほーん……でも、これだけ大きな停留所を作る割には、電車も大したことなさそうだな」

「は? なんで?」

「見てみろ。この線路とやら。幅が狭すぎる。私が横に寝そべったらはみ出てしまいそうなほどだ」

「言われてみればそうですね……。ばすよりは大きいものかと思っていたのですが」


 クローラも同じような感想を漏らす。 

 確かにレールの幅は狭いけど、それだけで判断するのは些か軽率ではないかねぇ。 


「それに、推測するにあの細いフチの上に乗って走るのだろう? とてもじゃないが、安定している作りとは思えんな」

「クローラもそう思います」

「そしてこの『えき』の規模……バスよりも多くの人間を乗せられるようだが……よほど体躯がしっかりしてないと、支えきれないのではないか?」

「クローラもそう思います」

「はっきり言って、まだバスのほうが平たい地面に太い車輪で走る分頑丈だと思うぞ」

「ワイトもそう思います」


 誰だお前。


「お前ら……そんな風に電車舐めてっと、実物見た時に目ン玉飛び出んぞ?」

「そんなことないぞ。バスにはとっくに慣れてきた私達だ。ちょっとやそっとのことじゃそう簡単に驚きはしない」


――まもなく、2番線に、快速、東京行きが参ります。危ないですから、黄色い線の内側にお入りください。


 そうこうしているうちに、電車がやってきた。

 そして、ホームにその御身を晒す。


「ほぎゃああああああああああああ何だこの化物はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ですぅぅぅ~!! あ、ちょ、待って目ン玉飛び出た」


 フラグ回収乙。



○ケータイマナー


「お、驚いた……あれほどのものとは……」

「だーから言ったろっつーに」


 ギャーギャー騒ぐ二人を黙らせて、なんとか車内へ乗り込んだ俺ら一行。

 周囲からすげぇ視線のガトリングショットを食らうので、適当に車両を移動してようやく落ち着いた。

 ……のだが。


「しかし……すごい速さだな」

「ですです。バスなんか比較にならないほどですね!」

「それに、『線路』のおかげでバスのように混雑に遭遇することもないと……うむ、やはりでんしゃで正解だったな」


 流れる景色を、窓に張り付くようにして眺める二人組。

 子どもならまだしも、二十歳近い大人がこんなことやってりゃまた乗客から変な目で見られるのは必然……。どこに逃げても一緒だったか。


「とにかく二人とも落ち着けよ。ひとまず席座っとけ」


 なんとか空いてた座席に座らせて、腰を落ち着ける。まったく、電車乗るだけでこんな疲れる経験は初めてだよ。

 リファもクローラも、まだそわそわしているみたいで心ここにあらずといった感じだ。


「あれ? バスみたいに降車ボタンはないのか、マスター」

「ないよ。見りゃわかると思うけど、電車ってバスよりも利用者が多いから、通過条件である『停留所に一人も待ってる客も降りる客もいない』なんて事態はほぼ皆無だ」

「なるほど、つまり各停が確定、と」


 死ね。


「だから代わりに、各駅停車だけじゃなく、利用者の少ない幾つかの駅をすっ飛ばす車両も存在する。急ぐ奴とかはそういうのをうまく使い分けてるんだよ」

「そうか……いやはや、バスもでんしゃも移動手段という意味では同じだが……調べれば調べるほど面白い違いが出てくるな」


 脚を組んでリファはウキウキした表情を浮かべる。電車の魅力をここぞとばかりに堪能しているようだった。

 そんな時、電子音声による車内アナウンスが鳴り響いた。


――本日もJR中央線をご利用くださいまして、誠にありがとうございます。


「マスター、これは?」

「まぁ客へのお知らせみたいなもんだ。一応聞いとけ」

「む。わかった」


 リファもクローラも、じっと耳を済ませて注意深くアナウンスに集中する。


――お客様に申し上げます。優先席付近では、携帯電話の電源をお切りください。またそれ以外の場所ではマナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください。お客様のご協力を、お願い致します。


「……けーたいでんわって……リファさんの持ってるスマホのことですよね?」

「これだな……。通話は遠慮しろというところだけ聞き取れたが……」


 自分のポケットからiPhoneを取り出してリファが言った。

 まぁ優先席とかマナーモードとかはさして重要な事でもないからいいか。


「バスもそうだけど、電車の中ってのは静かにしとかなきゃいけないってマナーがあるんだよ。こういう狭いとこで、電話で話したりしてたら周囲の人も迷惑だ。だからお前もスマホ持ってるんであれば、そのへんには気をつけてな」

「なるほど。マナー……暗黙のルールみたいなものだな。私は別に構わんが、マスター?」

「ん? なんだ」

「あれは……」


 訝しげな目をしてリファは車両内の一角を指差して示した。

 つられて俺が視線を動かすと……。


「そーだよ! マジマジ、イヤホントなんもないって~! ちょっとミカとアオイと女子会してただけだって~! ラブホ女子会って知らないの~? もー、タクヤったらぁー」


 すぐ近くで渚以上に厚い化粧と、ボンテージ風の衣装に身を包んだコテコテのギャルが、スマホ片手にキャイキャイと通話中でしたとさ。通話相手はどうやら彼氏らしい。いろいろあって疲れていたからか、言われるまで気が付かんかった。

 しっかし、せっかく電車のマナーを教え込むいい機会だと思ってたのに、余計なことをしてくれる……。


「めちゃくちゃ違反してますね……どうしますリファさん。一言何か注意しておくべきでしょうか?」

「ふっ、バカも休み休み言え」


 クローラの提案を、リファは鼻を鳴らして一蹴した。

 試しに俺が理由を聞いてみると、


「わからんのか? あの女史の表情。マスターはどう思う」

「ケバい」

「そうじゃなくてだな……見るからに顔を赤くして嬉しそうではないか。女性がこういう顔でいる時は決まっている」

「何?」

「恋をしている時、ですね」


 クローラが代わりに回答した。彼女自身もなんだか嬉しそうである。

 まぁ彼氏っぽい相手と会話してるのだから、当たっちゃいるけどさ。


「きっとあの電話で、懇意の相手と話しているのだろう。乙女の恋の深さはバカにならんぞ、それこそでんしゃのマナーなんぞ気にしてられんくらいにな」

「ですです。そんな理由で相手を拒否してしまえば、愛の程度が知れるというものです」


 とか言って、独自の理論を展開する。

 どうやらワイヤードでも、色恋沙汰は女子垂涎モノの話題らしい。騎士や奴隷でもそんなことに夢中になれる余裕があるとは、恋愛に関しては割りと自由なんだな。


「『ああ、愛しのゴローよ、わたくしはあなたに一生ついていきますわ』」

「『私もあなたを愛しています……たとえどのようなことがあろうとも、あなたという女性を生涯愛すことを誓いましょう』」


 なんか二人して即興劇(ヒロイン役:リファ。ゴロー役:クローラ)までおっぱじめやがったよ。誰だよゴローって。やめろよ、電車で通話よりよほど恥ずかしいわ。

 だが完全に酔いしれてるせいか、それが終わる気配は微塵もない。


「『ゴロー。どうして最近あなたは冷たいの? いつ会ってもツレない態度ばかり……』」

「『見てしまったのです……あなたが昨夜見知らぬ男性と歩いている所を』」

「『なんですって!?』」


 あ、なんか昼ドラ化してきた。


「『違いますわ。それは誤解です。わたくしはあなただけを一生愛すと誓ったはずですわ!』」

「『本当ですか? 私はあなたを信じることが出来ません……』」

「『ゴロー。あなただってわたくしだけを生涯愛すと言ったはず……あの言葉は嘘だったのですか』」


 いつまで続くんだよ。頼むからやめれ、マジで。

 と、思ってたが。本当にそれはすぐに終わることになる。


「あーもう! いい加減にしてよ!!」


 やめさせたのは、他ならぬさっきまで電話で話してた女だった。

 険しい顔つきでこちらを睨んできている。どうやら通話を邪魔されたのが気に障ったらしい。でもオメーに怒る権利ないんけどなぁ。

 キョトンとしている異世界人二人に女はびしっと指差して金切り声で抗議してきた。


「うちはゴローが本命じゃないから!」


 ……は?

 頭にはてなを浮かべる俺ら三人に対して、彼女は脇目も振らずにべらべらくっちゃべる。


「そりゃゴローとは確かにタクヤに内緒で何度か会ってるしこないだも一緒にラブホ行ったけど、あたしの本命はタクヤだから! その証拠にゴローとのエッチん時はキス禁止にしてるしちゃんと毎回ゴムつけさせてるし! 勝手なこと言わないでよ!」


 ……。

 空気が死んだ。

 黙るしかない。車内の人間全員、黙る以外のアクションが思いつかない。

 ただ一人、それ以外の反応を示したのが約一名。


「ゴローとって……どういうことだよ」


 通話口の向こうの相手 (タクヤさん)。

 周りが静かになったせいで、はっきりと声が聞き取れた。

 誰もが「やべぇ」と思った。しかし人一倍やべぇと思ったのは………さーっ、と顔が青ざめていくその女だった。


「やっぱりアイツと付き合ってたんだな! 前から怪しいと思ってたけど、一緒にラブホまで……!」

「ち、ちがっ! 違うのタクヤ! ゴローとはそんなんじゃ……」

「くそ、俺を騙しやがったな! もう許せるぞオイ! いいし! 俺だってお前なんかキープ扱いだし! 本命はカオリだし! テメーなんかもういらねーわ。じゃな」

「ちょ、待ってどーゆーこと? カオリって何よ! ねぇタクヤ!?」


 女の必至の言い訳もあえなく失敗。通話口からは無慈悲な不通音が響くのみであった。

 まごうことなく破局の瞬間である。あーららこらら、やっちまったなぁ。


「『こうしてゴローと誓った愛は儚く散ったのであった……』」

「『めでたしめでたし……』」


 続行してんじゃねぇよ。


「~ッッッ! 散ったのはタクヤだよこのバカぁ~!!」


 ツッコむとこそこかい。ていうか向こうも向こうで結構ひどいこと言ってなかったか?

 女は半ベソで別の車両へと走って逃走していった。他の乗客はそれを黙って見送るしかなかった。

 まぁ、なんだ……その……とりあえず。

 俺らは全員顔を見合わせると、思ってることを同時に口にした。


「「「ざまぁ」」」



○優先席



――豊田ー。豊田です。ご乗車ありがとうございます。


 しばらくして、八王子の次の駅である豊田駅に到着。そこそこ人も増え、立つ乗客も出てきた。

 別にこの時間では珍しい事態じゃないが、一つだけ無視できない出来事が起きた。


「ふぅ~、やれやれ」


 リュックを背負ったおばあさんが俺達の席の近くまでやってきた。

 リュックはそこまで大きくはなかったが、おばあさんの小さな体格のせいか、相当重そうである。肩で息をして、ここまでやってくるのに体力をかなり使っていたことは一目瞭然であった。

 これは、このまま立たせておく訳にはいかないな。

 すると、俺と同じことを思ったのか、リファが言った。


「ご老体。よかったら、座ってくれ」


 席を立って、そこに座るよう促されたおばあさんは意外そうな顔をした。


「おや、いいのかい?」

「ああ。そのような重い荷物を持っていては疲れるだろう。遠慮はするな」


 どん、と胸を叩いてリファは得意気に言う。

 おばあさんは一礼し、リュックを下ろして空いた席に座った。


「ありがとうお嬢ちゃん、助かったよ。優先席でもないのに譲ってもらって悪いけど」

「ゆーせんせき?」


 おばあさんの謎の言葉にリファは首を傾げた。


「優先席、知らないのかい? あぁ、もしかして外人さんかい。そりゃ失礼したね。優先席っていうのは、あたしみたいな老いぼれや妊婦さんが優先して座れる席のことだよ」


 と言って、おばあさんは車両の端を指差した。そこには周りとは違った色の吊革や座席、そしてガラスに張ってある「優先席」の文字が目を引く。


「あんなものが……」

「まぁあそこだったらこっちから『譲ってくれへんやろか』って言うとこなんだけどねぇ」


 リファはしばらく優先席を見て目を細めていたが、やがて静かに首を横に降った。


「関係ない。目の前にそなたのような困ってる方がいたから譲ったまで。別にあのエリアでなければ、そういった者に配慮しなくて良いというものでもないだろう」


 それを聞いておばあさんは「あらまぁ」と驚いたように口を抑えた。


「お嬢さん、若いのにしっかりしてて偉いねぇ」

「年配者には敬意を払え。ワイヤード騎士団の掟の一つ。年を召した者はそれだけ長くこの国に貢献してきたということだ。若輩者の私達がきっちり支えないとな」

「あらあら、それは心強いねぇ」


 おばあさんがくすくす笑っていると、その隣のクローラが申し出た。


「おばあさん、荷物重そうなら、持っててあげますね」

「あら、こっちのお嬢ちゃんもありがとう。いやー、長生きもしてみるもんだねぇ、こんな優しい人たちに会ったのは何年ぶりかなぁ」

「いえいえそんな……私は奴隷として当たり前のことをしたまでですよ」

「うむ。困ってる者を助けるのも騎士団の掟だ」


 騎士団とか奴隷とかは深くツッコまれなかった。そんなことが気にならない程、彼女達の行動が車内を暖かい空気に包んだという解釈は都合が良すぎか。

 でも、こうした人の優しさを目にするのも、最近の電車では珍しいよな。おばあさんもクローラもリファも、いいことをしたりされたりで随分機嫌が良さそう。


 それではここで一曲歌います。

 聞いてください。


「席を立って荷物持ってあげたの全部俺」



○痴漢


 おばあさんが次の次の駅である立川で降車した後。電車はますます混雑してきた。


「なんだかすごく混んできたな。バスでもここまでひどいことはなかったぞ」

「休日だからかな。まぁ仕方ないさ。座ってればそんな苦でもないだろ」

「そうだな」


 そのままガタゴトと揺られていると、ふとリファがまた何かを発見したようだ。目を細め、その何かを凝視している。 

 今度はなんだ、と思って彼女の視線の向く先を見てみると……。

 正直、電話女やおばあさんなんかより数倍もヤバい光景があった。

 電車のドアの前に立つ女子高生くらいの女の子、そしてその背後に立つ中年のおっさん。


「マスター、見えるか?」

「ああ……」


 立ちふさがる人々の隙間からはっきり見える。そのおっさんの手は……女子高生のスカートの中に突っ込まれていた。

 荒い息を吐きながら、ゆっくりと手を動かしてまさぐっている。

 反対に女子高生の方は怖くて何も言い出せないのか、ぐっと堪えているだけ。その目尻には涙も浮かんでいる。完全に泣き寝入りを強いられている状態だ。

 隣のクローラも気付いたらしく、小声で俺に相談してくる。


「ご主人様。あれは……」

「痴漢だ。れっきとした婦女暴行だよ」

「ええ……そんなことを公衆の面前で……」

「こういう混雑したところじゃ意外とバレにくいんだ。それを利用してああいうのに走る外道もいる」

「でも、女性の方は、何故助けを求めないのでしょう……」

「言えないんだよ……。声を上げても……周りが助けてくれるとは限らない、逆に冤罪をふっかけたと思われるのが怖いからって……」

「狂ってるな」


 リファが舌打ちして小さく言った。おっしゃるとおりだ。痴漢冤罪の問題もあるが、被害者の方を叩く風潮はハッキリ言ってイカれてる。

 騎士ともなると、そのへんのことは是が非でも許せないらしい。しばらく経っても状況が変わらないのを見かねたのか、とうとうリファは立ち上がった。


「おいそこのお前!」


 乗客達を押しのけ、女騎士はその痴漢野郎のもとまで突き進んだ。

 呼びかけられたおっさんはビクッと肩を震わせて挙動不審になる。


「な、なんだお前……」

「とぼけるな、今そこの女にしたこと……しかとこの目で見たぞ」

「ひっ、俺は何も……」

「白々しい。騎士の目はごまかせんぞ……」


 腰に下げた100均ソードの柄に手をかけて、リファは唸るように言う。

 だがおっさんは見苦しくも食い下がった。


「なんだよ騎士って……お前頭どうかしてんじゃないのか」

「嫌がる女を手篭めにしようとするような輩に言われるとは心外だな」

「ぐっ」


 悪者相手にはポンコツな彼女も凛々しく見える。かっこいい。

 だが悪者も悪者らしく、意地でも観念しようとはしなかった。


「う、うるせぇ! だいたいコイツがこんな短いスカート履いてるのが悪いんだよ! 誘うような格好して、いざこっちが乗ったら悪者扱いって、理不尽だろ!」


 テメーのその言動こそ理不尽そのものだよ。 

 ま、これで言質は取れた。あとは拘束してしょっぴくだけだな。

 と思ったが、流石に女としてその言い訳は我慢ならなかったのか、リファの怒りは頂点に達したようだ。


「ふざけるなぁ!!」


 おっさんの胸倉を掴み上げ、激昂するリファ。

 まずい、これ以上やるとこっちに非が向いてくる。止めないと……。


「おいリファ。もういい。あとは次の駅でこいつを下ろせばいい」


 だが女騎士は聞く耳を持たず。


「よくもぬけぬけとそんなことが言えるな! 貴様それでも人間か!」

「知るか! 男には適度な性欲発散が必要なんだよ! 俺みてぇな彼女もいねぇ奴にはこうするしかねぇんだよ。お前なんかに俺の気持ちがわかってたまるか!」

「性欲発散だとぉ……?」


 俺はこめかみを押さえた。

 想像を超えるクソ野郎だった。まったく、火に油を注ぐようなこと言いやがって……。

 この手のバカを黙らせるにはいっそのこと一発ぶん殴ったほうがいいかもしれないな。

 よし、俺が許す。リファ、やれ。


「性欲発散なら、ここに適任がいるだろうがぁ!!」


 ……はい?

 今、何と言った?

 誰もが唖然とする中、リファは俺達の方に戻ってくると、クローラの腕を掴んで無理矢理立たせた。


「ホラ! ワイヤードの正真正銘の奴隷だ!」

「ちょ、リファさん?」


 クローラは大きく目を見開いてリファを見るが、彼女は構わず呆けた顔のおっさんに向かって続ける。


「生意気だが、それなりに従順だし、そういった経験もある! こういうときにこそ奴隷を使わんでどうする!? 貴様も買う余裕が無いほど貧乏というわけではなかろう!」

「ど、どれい?」

「そうだ。何をするにも自由だし、貴様に抵抗することもない。性欲を発散させるのは勝手だが、やる人種は選べ!」

「す、好きにして……いいのか?」

「ああ、残念ながらこいつは今はマスターの所有物だから勝手なことはできんが、彼の許しがあれば一時的に貸し与えることも可能だ。さぁマスター! 今すぐに許可を出してこの男にクローラを抱か――」


 瞬間。

 彼女の脳天に俺の天からの一撃が炸裂し、女騎士は無様に地に沈んだ。


 確かにバカを黙らせるには一発ぶん殴るしかなかった。



 ○


「うぅ、まだ痛い……」


 たんこぶのできた頭を抑えながらリファは涙目で言った。


「当然のバチだ。ちったぁ反省しろボケナス」

「うぅ、よかれと思ってやったのに」

「リファさん。許可が出ようが出まいが、クローラはご主人様以外の男性に抱かれる気はないですよ」


 少しムッとした表情で、クローラはリファに言う。ちょっと、いやかなりご機嫌斜めなようだ。当然だが。

 ちなみに今俺達は立川駅の隣の国立駅のホームにいる。

 そこで痴漢のおっさんを突き出し、出動してきた警察と少し話をして今に至る。

 おかげでだいぶ時間を食った。まったく、たかが20分やそこらの移動で、なんでこんな立て続けにイベントが起きるんだか。 


「だが、今日は電車に乗って一つ気付いたことがある」


 突然リファが冷静にそんなことを言い出した。


「でんしゃその物の技術にも大変驚かされたが、私は特に車内での風景に感銘を受けた」

「風景?」

「ああ」


 彼女は小さく頷いた。


「電車の中は、さながら一つの社会のようだなって」

「……ほう」

「あの閉鎖的な空間で、僅かな時間の間に、喧騒や助け合い、犯罪が起きる。そこにしかないルールがある。ただの乗り物の中で、ここまで人との関係を感じられるとは思ってもみなかった」


 その言い分は的を射ていると言っていいだろう。

 バスなんかじゃとても感じられない問題の多さ、そして配慮の大切さ。電車という一つの大きな機械の中で、こんなにも多くの社会性が詰まっているというのは、よくよく考えればすごいことだよな。


「先程マスターも言っていたが、でんしゃを舐めてかかると恐ろしい。今回は身をもって知ったよ」

「その点に関してはクローラも同感です。馬車みたいに、ただ乗ってればいいだけのものとは全然違いますね」

「……そっか」


 俺は目を閉じて大きく首肯した。

 正直そういうところまで考察してくるとは思っていなかったが、これもいい勉強の機会になったとみていいだろう。結果オーライだ。


「ま、わかったならそれでいいんだ。今度電車に乗る時は、その辺意識しておくようにな」

「うむ!」

「はい!」


 二人は元気よく返事をして、一件落着。

 あとはもう一度電車が来るのを待って、国分寺に向かうだけだ。


 ――まもなく、三番線に、快速、東京行きが、参ります。危ないですから、黄色い線の内側にお下がりください。


 おっと、電車が来たぞ。あと二駅乗れば国分寺だ。ゴールは近い。


 ……はずだった。


 しかし。俺の目の端にあるものが映った。


「あ、なんだよ、なんだよ。嘘だろ! あぁ、十年貯めた俺の積立金……全部、なくなったのか……あぁ、どうしよう……俺、明日からどうすれば……」


 見るからに切羽詰ってそうな、スーツ姿の三十歳くらいの男性。

 スマホを見ながらガタガタと震えている。


「あ、あぁ……もうダメだ……FXなんてやるんじゃなかった……畜生……俺の人生おしまいだ……」


 やばい。

 これはヤバイ。

 今までのが可愛く思えてくるくらいヤバイ。

 ゴォォォォ、と音がして、ホームに電車が進入してくる。

 そして、目の前を電車が通り過ぎるというタイミングで、案の定その男は動き出した。


「ちくしょぉぉぉぉ! こんな人生こっちから辞めてやるよぉぉぉぉぉ!」


 ホップ・ステップ・ジャンプで、ホームから飛び出し、線路にダイブ。

 その目と鼻の先には――、猛スピードで迫る電車が。


 結果。



 ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ!!!!

 ゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキ!!!!

 ブチャブチャブチャブチャブチャブチャブチャブチャ!!!!

 ぶっしゃああああああああああああああああああ!!!


 骨が砕ける音と、肉が潰れる音が同時に響く。

 続けざまに液体が散布される音がして、電車のボディが鮮血に染まる。それだけにとどまらず、砕け散った血と肉塊と内臓は周囲の人間にまで飛散した。

 そして、その場の直近にいた俺達はその被害をモロに受けた。

 三人の体の前面に赤色のスプレーが盛大にぶっかけられ、頭には生暖かい半固形の物体が降り注ぐ。

 ぽかんとして開けていた口の中には柔らかく新鮮な生肉がデリバリー。


 極めつけに。


 ボチャン、と赤い水たまりの中に落ちてきたのは……ちぎれた人間の片腕。


 それを俺もリファもクローラも一言も声を発さずに見ていた。

 周囲がその惨状に気がついてあちこちで悲鳴が上がっても、俺達は微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。


「……マスター」

「ご主人様……」


 口から血と肉を吐き出しながら、二人が言葉を紡いだ。

 俺は冷静に口を拭き、頭にかかった臓物を払う。


「二人共、よく覚えとけ。これも電車で覚えておくべき問題の一つだ」



 中央線の代名詞

 人 身 事 故

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