描かれた影

 躍斗は重い足取りで現実世界のカフェに向かう。

 よく考えれば徹夜なのだ。疲れているのは当たり前だ。現世に戻って疲れが一気に噴き出したかのようだった。

 躍斗の影はその間、なんの変哲もない普通の影になっていた。本来の仕事をしているだけなのか、やはりフェイントを掛ければ引っかかるのか、どちらにせよ今試す元気は無い。

 影が躍斗に付いてきて同じ場所にいる事は分かっていた。そして付いて来るのは元に戻りたがっているという事。

 だが質量が関係するかどうかは分からないが、単に影の方が狭間に来て終わりという事も考えられた。

 だから電車の力を利用した。

 影は躍斗の思惑通り、電車に捕まって躍斗の体を引っ張り出した。

 躍斗には走る電車を掴む事はできないが、影ならその常識を超えられるかもと期待したのだ。

 成功の根拠は無い。一か八かだったがうまくいったようだ。

 躍斗は姿を消し、キュオと落ち合う約束をしたカフェに入る。まだ開いたばかりでほとんど人はいない。

 鏡越しに見えるキュオは奥の席に座っていた。

 躍斗の姿を確認して背後を振り返る。

 キュオの世界に……狭間にいないのに鏡に映っている事で、躍斗が狭間から出たのだと理解して涙を浮かべる。

「よかった」

 そうキュオの口が動いた気がした。

 よろよろと鏡に近づいた所で、鏡の中にレイコの姿が映っているのが見えた。

 躍斗はキュオの背後を指差す。だが、キュオは悲しそうな笑みを浮かべるだけだった。

 躍斗は鏡に張り付くようにして叩いたが、キュオが逃げ出す様子は無い。

 気付いていないはずは無い。レイコは傍にいれば分かるのだ。あの目は諦めている。躍斗が外へ出た事でもう満足してしまったのだ。

 ダメだ! キュオを外へ出してやると約束したじゃないか! 外にいる自分にならキュオを助け出せるかもしれないのに、と伝えようとするがキュオは動かない。

 鏡越しに訴えてもダメだ、と躍斗は落ち着いてキュオの隣に当たる席に座る。

 前にやったようにテーブルに手を置き、目を閉じた。

 キュオなら分かってくれるはずだ。同じように手を握ってくれる。

 狭間は別の場所ではない。同じ空間、こことはズレているだけの同じ場所だ。

 姿を消す事の最大をやれば、狭間に近づけるはずなんだ。

 躍斗は心を落ち着けて姿を消し、その力を高める。ぼんやりと空間に溶けるように意識が薄くなっていく。幸い脳も体も疲弊して、それはさほど難しい事ではなかった。

 そして手に温かく、柔らかな感触を感じた。

 躍斗はその手を握って一気に引き抜く。

「きゃっ!」

 勢い余って倒れた躍斗の上に人の体重が圧し掛かった。

「あ……あれ? 躍斗? なんか大きくなった?」

 躍斗は体を起こして上に乗った女の子を見る。

 それはふわふわの髪に丸い顔の、大きすぎてダボタボの服を着た、十二、三才くらいの小さな女の子だった。



「一体どうなってんのよ~」

 体からずり落ちそうな服を押さえながら歩くキュオを見る。

 狭間から救い出す事には成功したが、キュオの体は小学生並みになってしまった。

 電磁波の穴から抜き出さなかったからか、躍斗の力が足りなかったからなのかは分からない。

 まあ少なくとも命は救ったのだから約束は果たした。しかしこれからどうすればいいのだろう、と考える。

「キュオの家はあるのか?」

 迷子になった女の子に話しかけるように聞いてみるが、キュオは首を振る。

 狭間に落ちた者は世界からその存在を抹消される。そして本人も次第に記憶を失っていくのだ。

 キュオの仲間には、鏡越しに残してきた家族を見ていたが、自分が居なくなっても何事なく日常を送っている家族を見て絶望した者もいたのだそうだ。

 キュオも元の家や家族の事も、どのくらい狭間に居たのかも覚えていない。過去の記憶ではなく、家族や友人の事だけが穴が開いたように抜け落ちていると言う。

「とりあえずウチに来るか?」

 キュオは前を見たまま頷く。体が小さくなった事に少なからず落胆しているようだ。

 体半分だけ狭間に残してきたのかな……などと考え、

「大丈夫だ。そのうち治す方法も分かるかもしれないだろ」

 と言うもキュオは納得いかないように口をへの字に曲げる。躍斗としては、これはこれで可愛いと思うのだが。

 それよりもこれからだ。また影の男達が襲ってきたり、躍斗自身の影が敵になったりするのだろうか。

 狭間を抜ける時の感覚は覚えている。また狭間に落とされても、今度は影の助けなしに抜けられるかもしれない。試す気にはならないが。

 キュオも狭間に行ってからもう一度引き出せば元に戻るのだろうか。でももっと小さくなる可能性もあるかもしれないな。

 考えながら家に向かって歩き出すと、人や車がちらほらと見え出す。

 キュオには姿を消すという感覚は分からないらしいので手を繋いだ。

 躍斗の持っている物も同じに周囲から見えなくなるのだから、これでキュオの姿も消えるはずだと考えた。

 このちょっとおかしな格好の女の子を連れ歩くのはかなり怪しいだろうし、キュオが一人で歩いていても事件の匂いがしてしまう。

 そうしていると、少し大きめのエンジン音が聞こえて何気に振り返る。

 スポーツカーというやつだろうか。赤い、いかにも高級そうな車だ。それが結構なスピードで走ってくる。

 まだ人通りの少ない道で速度を試そうとしているのか。結構無茶な運転をする……と見ているとその車が突然スリップした。

 タイヤが滑り、車線から外れ、歩道に乗り上げる。

 そしてその軸線上には躍斗達がいた。

 躍斗は歩道に立てられた支柱を薙ぎ倒しながらゆっくりと向かってくる車を、キュオを抱えて避ける。

 赤い車は店舗に突っ込む前に止まったが、高級車が台無しだ。運転手が外に出て地面に手を付いて嘆く。

 誰も躍斗達を気にしない所を見ると姿は見えていない。運転手は影の男のような世界の刺客というわけではないようだ。

 偶然か? しかし能力がなければ死んでいたかもしれないと訝しむ。

 何が起きたのか分からずきょとんとしているキュオを抱えたまま、早足にその場を去った。


 家に戻って二階にある躍斗の部屋にキュオを通す。

 幸いキュオが小さい事もあって、こっそり女を連れ込んでいるという抵抗もない。

「へえ。思ったより片付いてるんだね」

 と躍斗のベッドに座って早くも寛いでいる。

 親が勝手に入って来る事は無いのでここにいればいい。そう言い残して階下に降りると母親と鉢合わせた。昨夜は無断外泊したわけだが……、

「あら? ……えーと。躍斗? ……どうしたのかしら」

 躍斗は家から一歩も出ない事はあっても無断外泊した事は無い。さすがに怒られるかと覚悟していたのだが、何だか様子が変だ。

 キュオが言っていたように、家族は息子の存在を忘れかけていたのだろうか。

 戸惑いながらも、母はそのまま勤めに出てしまったので勝手に台所を漁る。

「何もないな」

 キュオにも何か食べさせてやりたかったのだが。仕方ない、買い物に出るか、と軽く身支度をした。

 キュオを一人残していく事になるが、姿の消せないキュオを連れ回すよりは家に置いておいた方が安心だ。

 家を出て、いつものように街を歩く。だが狭間にいる時と違い人の往来がある。

 躍斗は本来人混みが嫌いだが、本当に誰もいない町並みよりは安心できる。

 少し懐かしい物でも見るように歩いていると、不意に地面の影が濃くなった。

 咄嗟に上を見ると巨大な落下物。頭に当たる直前に時間を遅め、かろうじて避ける。

 大きな音と共に地面に砂埃を上げて落ちたのは建設用の資材。いわゆる鉄骨という奴だ。

 現場に怒声が飛び交う。

 人が居たら大事おおごとだと騒いでいるが、実際そうなる所だった。突然の事だったので何も感じなかったが、時間が経つにつれて動揺が大きくなっていった。

 姿を消す事のリスクなのだろうか。

 人に見えなければ行動の自由が広がるが、同時に注意を払ってもらえる事もない。

 確かに道理なのだが、工事現場の事故そのものをあまりお目にかかる機会も無い。

 車の事故といい、偶然にしては重なりすぎている。

 商店街に差し掛かると先日のチーマーが街を張り込んでいるのが見えた。

 まだ自分を探しているのか。こいつらは皆大体同じ格好をしているのでよく分かる。

 自分達に恥をかかせた者に落とし前をつけようという腹か。見つかるはずは無いのにご苦労な事だ、と苦笑しながらその横を堂々と通り過ぎて馴染みのカフェに向かう。

 キュオはここによく来ていたが、ここのコーヒーは直接飲んだ事は無いはずだ。

 狭間では食料に困る事は無いが料理は全部自分でやるしかない。

 コンビニにいくらでもあるのだから、無理に一所ひとところに留まる危険を冒す必要は無かったろう。

 だからここのコーヒーをテイクアウトしてやるか。

 一度揉めた場所にノコノコ現れるはずは無いと思ったのか、ここにはチーマーは居ない。

 手早く注文してカウンター席で待つ。

 カウンターに肘を置いて何気に辺りを見回しながら、そう言えば狭間で壁を通り抜けられた事を思い出した。

 今なら銀行の金庫室にも入れるだろうか、と思って試してみたがうまくいかない。

 危機では無いから発動しないのか? しかしコツは分かっている。それがうまくいっていない。

 要は現実世界は狭間よりも強力なプロテクトが掛かっている。今はまだ無理だがそのうちできるようになるかもしれないな。

 などと考えにふけっていると、コーヒーメーカーがガタガタと不穏な音を立てて揺れ始めた。

 店員が慌てて様子を見に来るが既に機械はありえないくらい振動している。危ない! と別の店員が制した直後、機械は弾け飛んだ。

 辺り一面コーヒーが飛び散り、ややスプラッタな絵になるが、機械の前面にあたるパーツが真っ直ぐに躍斗の方へと飛んでくる。

 それを難なくかわしたが、やはり間違いないようだ、と確信する。

 今のは人の手によるものではない。

 事故は躍斗を狙って起きている。

 どうやら世界に嫌われてしまったらしい。常識を超えた力を持った躍斗を世界はよく思わないのだろう。

 だから影の男達を抹殺に寄こした。だがそれも失敗、それに人の多い所では襲えない。

 しかし事故を起こして躍斗を消そうとするのなら、もっと大事故を起こすなどやりようがあるはずだ。

 そうならないのは、世界といえど本来ないはずの事故を無理矢理起こす事はできないのだろう。

 日常で起こるはずの事故を、場所なりタイミングなりを少しズラして誘導している。

 あるいはあまり力を使うなという警告なのかもしれない。

 この危険は生涯付きまとうのだろうか。力を使わなければ収まると言われても、使わなければその前に死ぬ。

 もう遅いのかもしれない。これからどうなるんだろう? と若干憂鬱になる。


 商品を受け取って外へ出るとチーマー達が険悪なムードで何やら言い合っている。

 早い話が「まだ見つからないのか」「役立たず」といったような事だ。

 話の感じからすると自分達のチームだけでなく、多くの者達を使って捜索しているようだ。

 彼らにしてみれば自分達をコケにした者を放置するなど面子が許さないのだろう。

 普段敵対しているチームだってよそ者が幅を利かせるのは面白くない。

 目障りな釘を打つ為に一時的に団結したようだが、このままいつまでも見つからないと「本当にそんな奴はいるのか?」という話になりかねない。

 このまま見つからない事は彼らにとって都合が悪いのだろう。

 だが自分には関係ないと躍斗は気にせず歩き出す。

 徒党を組んで自分達の基準から外れている物を排除する。

 学校の連中も、街にいる連中もそれは変わらない。ただ規模が違うだけだ。

 それは会社になっても、国になっても根本は変わらないのだろう。

 いつもの日常だ、と躍斗は澄まし顔で大通りに出た。

 道の端に作業車が停まっていて工事をしている。マンホールの蓋を開けてホースを入れ何やら作業中のようだ。

 その作業車が突然ガタガタと揺れ出した。

 作業員が大慌てで「危険です! 離れてください!」と叫び、爆発音と共に作業車の横に付いた蓋のような鉄板が弾け飛ぶ。

 基準からはみ出した者に目をつけての嫌がらせ。

「世界ほどの大きな存在が、よもや中高生のやる事と根本が変わらないなどと言うのではあるまいな」

 躍斗は頭に向かって飛んできた鉄の塊を、暖簾のれんでも潜るように頭を下げて避けた。


「がっかりさせるなよ、世界」


 躍斗は足を止める事無く歩き続けた。

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