第15話 私たち、夫婦喧嘩します

 ピピピと鳴っている目覚まし時計をまさみは止めると勢いよく起き上がった。彼女は部屋を出て台所に立つと、味噌汁が入っている鍋に火をかけて、冷蔵庫からおかずを取り出してテーブルの上に置いた。冷凍していた白米を電子レンジに入れて解凍出来たところで晴人が起きてきた。

「おはよう」

「おはよう」

 晴人の髪には寝癖がついていて、腹をポリポリとかいている。

「朝から元気だな」

「当たり前じゃん。今日から仕事だからね」

 まさみは楽しげに鼻歌を歌っている。晴人は電子レンジから解凍出来た白米を熱がりながら二つ取り出してテーブルに置いた。

「ご飯も出来たし朝ごはんにしようか」

「そうだな」

 まさみは朝食を食べ終えると身支度を済ませ、昨日の夕食のおかずと白米を弁当箱に詰めると晴人の行ってらっしゃいという言葉を聞きながら家を出た。


 まさみは大学卒業後保険会社に就職して営業として働いている。ビジネスマナーや保険に関する研修が終わると、会社から用意されたリストを基に電話を掛けてアポイントを取るテレアポをするように言われた。新入社員はアポイントが取ることが最初の仕事であり、取れなければ一日中電話を掛けることになる。大体は体よく断られることがほとんどで、時には会社の名前を出した所で乱暴に電話を切られた。アポイントが取れないことに心が折れて会社を辞めてしまう同期も少なからずいた。まさみも毎日百件以上テレアポをしても中々アポイントが取れなかったが三ヶ月もすればコツを掴み始め、毎日百件電話しなくてもアポイントが取れるようになった。アポイントが取れた家庭や会社にまさみは訪問すると彼女の人懐っこさと素直さが受け入れられて、商談をいくつも纏めあげた。会社では入社して一年以内にある優秀な成績を収めると、オーダーメイドスーツを支給されるという制度があった。新入社員でオーダーメイドスーツを支給されたのは三人だけで、その中にまさみは入っていた。今は「チーフ」という肩書きが付いて後輩を指導する立場にもなり、仕事にやりがいを感じていた。まさみは職場復帰が楽しみでしかなかった。


 まさみが会社に着いて挨拶をするとまさみの部署の人間が一斉に立ち上がった。

「おかえりなさい! 」

 一番にまさみに駆け寄ったのは後輩の飯尾だった。

「ただいま。ごめんね。色々迷惑を掛けちゃって」

「本当ですよー。色々大変だったんですからね。戻ってきてくれて本当に良かったです」

 飯尾はまさみが初めて指導することになった後輩だった。飯尾は入社してすぐはテレアポが全く出来ず、むしろ勧誘されて商品を買わされる次第で、まさみは彼に手を焼いた。しかし今では部署の中でまさみの次に優秀な成績を収めている。飯尾は愛嬌のある態度とは裏腹にズケズケと物を言うところがあったが憎めず、まさみにとっては可愛い後輩の一人だった。

「高橋さんが本当に戻ってきてくれて良かった! 」

 部長の中田が二人に声を掛けてきた。

「いや戸山さんの方がいいのかな? 」

「いいえ。結婚しても旧姓の高橋でガンガンに働くつもりなのでよろしくお願いします! 」

 まさみが頭を下げると、上司や後輩たちが拍手をした。


 まさみは職場復帰して一ヶ月経とうとしていたが、中々調子が戻らなかった。休職中は家事や買い物をしていたが、満員電車に乗って通勤するだけでも体力を消費しているような気がしていた。それだけではなく仕事を忘れていることも多く、三ヶ月仕事していないだけでここまで忘れるのかとショックだった。毎日会社に行ってヘトヘトなのに、家に帰れば家事をしなければいけない。休日は晴人が気分転換に食事に行かないかと誘ってくれるが、まさみはベッドから起き上がることが出来なかった。


 まさみは会社のエレベーターに乗ると一人の男性がエレベーターに乗り込んできた。

「高橋、元気? 」

 柳はにやついた笑顔を浮かべている。

「柳さん……。お久しぶりです」

 まさみは機械的な笑みを浮かべた。柳はまさみの勤める支社の責任者であり、まさみが新入社員の時にビジネスマナーや保険の講師をしていた。柳は前時代的な考えを通り越した考えを持ち、その偏見を隠すこともせず露わにする柳のことがまさみは好きではなかった。まさみは柳と顔を合わせると、柳に体型の事やプライベートなことをしつこく聞かれることが何度もあったので、それとなく距離を置こうとしていた。それなのにこんなタイミングで会うなんてと、まさみは心の中でため息をついた。

「調子どうなのよー」

 柳がまさみの肩を揉んできたので、まさみは首筋に寒いものを感じた。

「お陰様で……」

 まさみはししおどしのようにぺこりと頭を下げた。

「でも結婚出来て良かったなぁ」

「ありがとうございます」

「結婚しても働くつもりなの? 」

「はい。一生懸命働かせてもらいます」

 私が男だったらこんなこと聞かない癖にとまさみは思った。

「女の子はいいよね。仕事辛くなったら仕事辞めて家事をしとけばいいんだから」

 柳は笑いながら言うと目的の階に着いたらしくエレベーターから出て行った。まさみの書類を持つ手が震えていた。

 いつもだったら割り切れるはずなのに、疲れた体に柳の言葉が重くのしかかった。それからの仕事はミスばっかりで、後輩の飯尾に残業を付き合わせてしまった。飯尾は今度ランチ奢ってくださいねといつものような軽口を叩いていたが、飯尾の気遣わせない気遣いがまさみには辛かった。


 なんとか仕事を終えて家に帰ると、まさみは荷物を置いて洗面台で手を洗っていると山盛りの洗濯物が目に入った。洗濯はまさみの担当だったがここしばらくは仕事に疲れて、洗濯をすることが出来ていなかった。

「こんなに溜まってるんだから代わりにやってくれればいいのに」

 まさみはぼそっと呟くと洗濯物を洗濯機に入れてスイッチを押した。

「おかえりー」

 まさみはリビングに向かうと晴人はソファの上でスマートフォンを弄りながら転がっていた。

「ただいま」

 まさみは麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、いつもの定位置に麦茶の入ったポットはなかった。

「晴人、麦茶はどこ? 」

「そこにある」

 テーブルに麦茶のポットがあり、まさみはポットを持ち上げたが麦茶がほとんど入っていなかった。まさみはポットをテーブルに置いたら思いの外、置いた音が大きかったらしく晴人は振り返った。

「びっくりした。どうした? 」

「別に」

 まさみは自分の声が冷ややかなことに驚いた。

「本当にどうした? 調子でも悪い? 」

「そんなんじゃないよ。ただポットに新しい麦茶を入れてくれてもいいのになって」

「別にいいじゃんそれくらい」

「そう思うんだったら入れてよ! 気づいた人が入れるべきなんじゃないの? それともこれも女の仕事なの? 」

 まさみは思わず声を荒らげた。

「ごめん。俺やるよ」

 晴人の申し訳なさそうな顔を見て、まさみは我に帰った。

「ごめん。頭冷やしてくる」

 まさみは先程置いた鞄を持つと玄関に向かった。晴人は何度もまさみの名前を呼んだが、彼女は晴人の声を無視して家を出た。

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