第20話 変異
それはあまりにも理不尽な相手だった。
彼は自分は弱いとは思っていない。強くなるために必死に努力した。第2学年で
まさに、順風満帆な学生生活だった。
そんな彼の前に現れたのがその理不尽の塊とも言える相手、ミリア・フォレスティだった。
正直、彼はアザークラスを見下していた。才能ある自分達こそが何においても優先されるべきだと考えていた。だからこそ、
だが、蓋を開けてみればどうだ。
自慢の
ならばと、次はリヴィアの提言からルルオーネ解毒剤で魔力を半減させ、さらに封魔鋼の軽甲冑装備の魔道騎士学部の生徒まで集めて万全の体制を取ったはずだった。
だと言うのに、その魔道騎士学部の男子生徒7人を魔道士学部所属の女生徒が1人、それもまさかの格闘技で圧倒するなど誰が考えるだろうか。
理不尽過ぎる。誰もがそう思っただろう。
そして、彼はこう望んだ。
力が欲しい、と。
あの理不尽の象徴とも言える女を倒せるほどの圧倒的な力を。
「ガアアアアアアアアア!」
突然ブライトンが咆哮を上げた。全身を震わせ、その場に膝をつく。目はまるで目に走る血管が全て切れたかのように真っ赤に染まり、口からは涎を垂れ流し荒い息を吐いている。
明らかにただ事ではない。
ミリアが医務官を呼ぼうとしたその時――
突然ブライトンの体から漆黒の煙のようなものが噴き出した。
もちろん、それはただの蒸気でもなければ霧でもない。なぜならば、その闇の霧が触れた場所がまるで朽ち果てるように崩れだしたのだから。
「バカな、瘴気だと!?」
声を上げたのは学園長室で闘技場の様子を覗いていたアルメニィ学園長だった。腰掛けていた椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がると、すぐに部屋を飛び出していった。
魔力というものには正のエネルギーと負のエネルギーを持つものが存在する。大気中に含まれる魔力はこの正のエネルギーと負のエネルギーがほぼ均等になるようにバランスが取られていると言われている。
しかし、何かしらの理由で魔力が負のエネルギーで振り切れてしまった場合、その魔力が含まれる大気は漆黒に変色し、あらゆるものを朽ちさせる瘴気へと変質してしまうのである。
そして、瘴気に関するもう1つの事実。
体から瘴気を放つのはこのエンティルスでは強力な魔獣のみとされていた。
その瘴気で全身を包み込んだブライトン。その姿には以前の面影が完全に無くなっていた。
上半身は大きく膨れ上がり、腕周りや胸元など元の数倍にまで盛り上がっている。頭上には天を衝く歪な2本の角。真っ赤に光る目の間にはイノシシのような鼻と鋭い牙が突き出していた。
両手にはギラリと光る刃のような爪が。両足先には蹄が。四肢を覆う黒い体毛。
その姿はもはや魔獣としか言えないものだった。
変質したブライトンを前にミリアは唖然としていた。未だ嘗て、こんな展開を考えた事のある人がいるだろうか。人間が魔獣になるなど。
原因として考えられるのはブライトンが飲んだ薄緑色の液体なのだが。
「人を魔獣に変える研究なんか正規の研究所では絶対に認可が下りないわ」
そんな事より、とミリアは思案する。現在ミリアは今後の方針を決めかねていた。
エクステリアでのベルモールからの依頼にはたまに魔獣絡みの案件もあったので、魔獣との戦闘経験は多少はある。王都ヴァナディに来る途中に遭遇したソードグリズリーも魔獣の一種だ。だが、流石にあれだけの瘴気を放つ魔獣は初めてだった。
「あわわわわ」
ふとミリアが気付いたのはブライトンの側で腰を抜かしている女生徒2人。ブライトンもそれに気付いたか、そのイノシシの顔を女生徒に向けた。「ひっ」と女生徒達の顔が引きつる。動けない2人に向かってブライトンは爪を振り上げた。
その瞬間、
「
ミリアから放たれた強烈な風の炸裂弾がブライトンの横っ面に炸裂した。直撃と同時に弾丸は弾け飛び周囲に強力な烈風と衝撃波を撒き散らす。
見上げるほどの巨体となったブライトンは衝撃で仰け反ったが、効果が見られたのはその程度。
「チッ、やっぱり中級の
とは言え、注意を引くには十分。ミリアは2人に呼びかける。
「そこの2人! 今の内にこっちに!」
「は、はい!」
呼ばれて女生徒2人は這々の体でミリアの方に駆けてくる。それを追うように魔獣ブライトンも足を踏み出した。
「あんたは来なくていいのよ!」
ミリアは自分の持つ純白の魔力を青く染め上げる。青い魔力は水と氷の力。
「
放つは水属性の中級
「……ダメか」
吹き荒れる氷の刃を含んだ乱舞の中を、まるで何事もないかのように歩いてくる。ミリアはそれを見ながら苦笑いを浮かべた。
「ベースがブライトンだから水属性魔法が効くかと思ったんだけどなぁ。全然効いてないとか、何気にショックだわ」
迫り来るブライトンを見ながらそうボヤく。
「やっぱりあの瘴気のせいだろうな」
そう、ブライトンに対しては決して魔法が効かないわけではない。問題は彼を取り巻く瘴気にあった。
瘴気は負のエネルギーが振り切った魔力を宿したものである事は前述の通り。つまり、瘴気とはそれだけで魔力障壁と同じ役割を果たすのである。
そして、今回の『
「……ダメね。今の私じゃ打つ手がない」
「あ、あの、私達はどうしたら?」
「一時撤退」
「ミリアさんのあの格闘技で何とかなりませんか?」
「あの瘴気の渦の中に突っ込めと? バカ言わないで」
あらゆるものを朽ちさせる瘴気の中に突っ込むなど自殺行為だ。無論、できない事もないが、正直遠慮したいところである。
(魔力障壁で体を覆えば瘴気の中にも入れるけど、アレは常に障壁張りっぱなしになるから凄く疲れるのよね。その上戦闘なんて、今の私には無理だわ)
パパならできそうだけど、とミリアは思う。ミリアと父デニスの実力差はまだそれだけあるのだ。
近づいてくるブライトンに牽制で氷の魔法を放ちながら、何とか脱出の機会を待つ。しかし、そんなミリアの耳に悲鳴のような声が聞こえてきた。
「そ、そんな! 舞台から出られないなんて、どうして!?」
声に弾かれるようにミリアはそちらに目を向ける。
先に脱出を図った女生徒達が、泣きわめくように
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
客席も半ばパニックになり掛けていた。実際に魔獣と向き合った生徒達はそう多くはなかったのだろうし、何より瘴気を放つほどの魔獣など見た事がない生徒の方が多いのではないだろうか。
「非戦闘員はすぐに避難を!
第2学年以上の魔獣との戦闘経験がある者は舞台へ向かいなさい!」
客席でメリージアが声を上げて指示を出す。
普段はややおどおどしたところがあるメリージアだが、彼女はこう見えても魔道法院の魔道士だ。こう言う荒事には慣れている。てきぱき指示を出し、戦闘員も集めていく。
「ブライトンはサラマンダークラス第2学年のクラスリーダーです。おそらく、あの魔獣も火の属性が強い可能性が高い。ウンディーネクラスに増援を頼んで!
えっと後は、ガルバン先生!」
逃げ惑う生徒達の真ん中でガルバンは呆然と舞台を、いや、魔獣と化したブライトンの成れの果てを見つめていた。
「なぜだ、ブライトン君……なぜ君が……」
「何をしているんですか、ガルバン先生! すぐにサラマンダークラスの生徒達に指示を出してください!」
「そ、そうだな」
メリージアに引っ張られるようにガルバンも闘技場の舞台に向かう。そこにはすでに第3学年の戦闘経験を持った生徒達が集まっていた。だが、全員中に入ろうとしない。戸惑う様子で右往左往するだけだった。
「どうしたのですか、こんな所で?」
「メリージア先生。実は舞台に入れないんです。結界に遮られて」
「何ですって?」
メリージアは生徒達を押しのけるように舞台の入り口までやってきた。そしてその赤く光る結界を見上げる。
「これは、助命の結界じゃない。人の出入りを封じる隔離の結界。誰がこんなものを!」
結界の奥には涙と鼻水を垂れ流しながら必死に結界を叩く女生徒達がいる。その奥には、注意を引くように間合いを取って戦うミリアの姿があった。繰り出される氷の刃。だが、それらは全て瘴気に阻まれて魔獣ブライトンには届かない。ミリアとて体力も精神力も無限じゃない。このままではいずれあの鋭い爪に掛かってしまうだろう。
何とかしないと、そう考えたその時、頼もしい声が後方から発せられた。
「そこを退きなさい。結界を破壊します!」
そこにいたのはダブダブの外套を纏った見た目幼女の学園長。アルメニィ・ルイスカリアだった。
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