夏の唇

三文居士

夏の唇

 薄紅色の唇に、つかんだ林檎をぴたりと触れさせそっとこちらを振り向いた。彼女のその仕草を見たとき、僕は初めて異性を感じた。ほかに人のいない居間で、視線は彼女に占められた。窓から入る陽光が輝くのを感じた。彼女は中学生で、当時の僕は小学生。夏の日のこと。


 僕の兄は生まれつき身体が弱かった。学校をよく欠席し、その度に家へと届け物を持ってきてくれたのは、水島君という誠実な、近所に住む兄の友人だった。しかしその日は、彼もまた具合が悪く、代わりに家へと来たのが、彼女——高野さんだった。

 高野さんが家に尋ねてきたとき、応対したのは母だった。兄の幾たびの欠席にも関わらず、届け物を渡してくれるのはいつも水島君や男子の級友だったため、兄のために女子がやってきたと聞いたとき、母は目を丸くして、同時に大変嬉しがった。そして、この珍しい訪問客に出された菓子代わりが、あの時の林檎だった。

 少年少女の時分の年齢と言うのは、重要な意味を持つもので、歳がひとつ違うだけでも、何か大きな相違があるような気がするものだ。実際、大多数の先輩たちは肉体的にも精神的にも、ずっと大人に近づいているように見えたし、彼女もその例に漏れることはなかった。つまり、一目見たときから、彼女は僕にとってお姉さんだった。

 年上の彼女が微笑み、声をかけてくれた時、僕は赤面し、簡単な挨拶を返すのに精一杯で、すぐに部屋へと退散してしまった。


 高野さんはそれから何度か家に来るようになった。その度に、僕らは挨拶を交わし、言葉を交わし、談笑した。僕は彼女のことを知るようになった。文芸部で、本を読むのが好きなこと。運動が嫌いなこと。声はきれいだが、歌は苦手ということ。犬よりも猫が好きで、僕の家にいたポーという名の黒猫(名づけたのは兄だったが、由来は覚えていない)をいたく気に入っているということ。

 彼女が家を訪れる用件は兄のことだったけれど、僕は彼女と話せることが嬉しかった。兄が体調不良と聞くと、あろうことか真っ先に彼女のことを考えてしまう日もあった。

 いつしか、僕は彼女への好意をしっかりと心に認めるようになった。そしてまた、彼女も僕に対して同種の気持ちをもっているであろうと思われた。僕は、彼女のことをもっと知りたかったけれど、思春期の少年時代、当然そんな好奇心はおくびにも出せず、ただ悶々と日々は過ぎていった。


 一年、二年と過ぎた時、僕は中学生になっていた。七月の暑い日だった。部活を終えて家に帰ると、玄関でポーが僕を迎えてくれた。そして、その傍らには彼女の靴を見つけた。内心の喜びを抑え、自室へと向かう途中、話し声が聞こえた。それは兄の部屋からだった。愚かにも僕は、無意識的に、その様子を探ってしまった。

 扉の隙間から目にしたのは、彼女が兄と楽しげに話す姿だった。何か特別なことをしていた訳ではない。だが、僕には彼女が普段とは別人に見えた。ほんのくだらないことで、真底楽しそうに笑う。たったそれだけだったが、いや、それだけだったからこそ、僕と接している時とはその存在の根本から異なるような、違う女性であることに気づいてしまった。僕は自分の愚鈍さをようやく悟った。扉の向こうでは二人の明るい声が聞こえ、僕の足元ではポーが不思議そうにこちらを見ていた。その狭間で、僕だけが奈落に落ちたような、そんな気分だった。

 何日かした後、兄から、高野さんと付き合うことになったと聞いた。僕は、兄を祝福した。兄は僕の胸中を知らぬため大いに喜んだ。僕は孤独を感じながら、高野さんのことは忘れようと思った。彼女の髪も、笑顔も、そして、あの唇も。


 僕は大学進学と共にやっとの思いで家を離れ、東京へ出た。しばらくは新しい世界の喧噪のなかで、刺激のある日々を送っていた。その刺激にも慣れてくると、逃れるように、酒に溺れるようになった。僕の感覚は麻痺していった。何度目かの夏季休暇が訪れた時、ほうほうの体で故郷へと戻った。家族は優しく迎えてくれて、老猫となったポーもまだまだ健在だった。

 その晩、夕食の席では焼き魚が出された。久しぶりの団らんで、僕は家に帰って来たことを実感した。話の折に、食卓に見慣れぬ容器があったのに気づいた。母に聞くと、岩塩だと返ってきた。焼き魚との相性がいいのだとか。そして、「高野さんにもらったのよ」とも。彼女の名を聞いた僕は、少しうろたえた。母は続けて「そう言えば、高野さんも高野さんじゃなくなるのねぇ……」と感慨深そうに言った。兄が顔を少しだけ赤くした。ああ、遂にこの日が来たか、そう思いながら、僕はわかっていたことだったが、形式的に母に理由を尋ねた。すると、「結婚するのよ」、と。僕はまた、兄を祝福した。


 食事を終えたあと、まだ話し足りないと言うような家族を尻目に、すぐに自室へと戻った。戻ると独り、床に座り込んだ。座り込むと、彼女との思い出が走馬灯のようにぐるぐると、鮮明に浮かんできた。忘れたくても決して忘れられない、僕の初恋だった。

 自然に視界が揺らぎ、一条の水が頬を伝うのに気づいた。流れたそれは、僕の唇に触れた。唇を舐めると、夕食の残り香か、少し塩気が残っていた。傍らにはポーだけが寄り添い、僕の孤独を癒してくれていた。

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夏の唇 三文居士 @gorio

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