第四幕 ミスミミミとピアス (1)
深夜のバスケットボールについては、深夜だから体育館には入れないというごく当たり前の理由で片がついた。菊はものすごく不満そうだったけれども。
あれから一週間、何事もなかったかのように過ごしている。
でも、やっぱり何もなかったようには過ごせない。神経質になっているのか、変な影が、視界をちらつく。その度に、一人でびくびくしていた。
朝、登校してきた透史は一つ深呼吸をすると、教室のドアに手をかけた。
ドアをあけるのを、躊躇する。
深夜のバスケットボール以来、ずっと、ドアをあけるのには、過分な勇気が必要だった。
ドアをあけて、きっと最初に目に入るのは、窓際のいつもと同じ黒い形。ミスの姿。
あれ以来、教室でミスの姿を見つける度になんとも言えない気分になる。
忘れた方がいい。自分でもそう思うから、忘れるように努力していた。
それでも夢にはあの謎のバスケットボールの試合が出てくるし、、学校では見られないミスの姿も忘れられない。意外と機敏だった……。
残りの二人も意味わかんなかったし。
忘れた方がいい。関わらない方がいい。
一方で、知りたいと思う自分がいる。ミスがなんなのか。あれは一体なんなのか。知りたくなっている。気になっている。
それは、菊に影響されているのか、ただの好奇心なのか、それとももっと別の何かなのか。興味を持っているのは不可解な現象についてなのか、ミスのことなのか。自分でもよくわからない。
でも、それも忘れた方がいい。関わらない方がいい。きっと。
もう何度も頭の中で考えた結論を今日もはじき出す。
もう一度深呼吸。
ゆっくりと、ドアをあけた。
窓際にはいつもと同じミスの姿。
そして、
「……え?」
教室中に黒い影がわいていた。
一瞬、足が止まる。
大小さまざまな大きさの黒い影。
なんだかわからない。でも、一つだけわかる。
あれは見えなくて、これは見えるけど……、これはあのバスケットボールの対戦相手と、似たような存在だ。
そのうちの一つが、つぃっとこちらを見たような気がした。
「ひっ」
足が一歩後ろに下がる。
「透史くん?」
背中から声をかけられる。
弾かれるように振り返ると、
「どうしたの?」
心配そうに眉をひそめた弥生がいた。
「弥生……」
そんな弥生の周りにも、黒い影。彼女を覆うように。
「ひっ」
おかしいおかしい。なんだこれ、気持ち悪い。
「石居くん」
名前を呼ばれて、右手を掴まれる。熱い掌。
振り返る。
「三隅、さん」
泣きそうになりながら、縋り付くようにその名前を呼ぶ。
いつの間に席を立っていたのか、ミスがそこに居た。
「来て」
そういうと、透史の手を引いて歩き出す。
「ちょっ、透史くんっ」
弥生の声。二人の後をついていくか迷ったような気配。
「ついてこないで」
ミスが呟く。弥生が視界の隅で不満そうに眉を吊り上げたのがわかった。
それには構わず、ミスは廊下をずんずん進む。
影が見える。
「三隅さんっ」
震える声で名前を呼ぶ。
これは一体、何なんだ。
屋上へと出る。もしかしたら何度かここでサボっていたのかもしれない。ミスは手馴れた様子で、普段は立ち入れないはずのここに入ってきた。ミスが振り返ると、
「何が見えているの?」
尋ねてきた。
「わからないっ。なんか、変な黒いものが……」
情けないぐらい声がふるえている。
「教えて。今、見えているもの、大きさ、場所」
「なにが」
「いいから答えて」
きつい口調で言われる。
「あ、あそこに」
屋上のフェンスの向こうを震える指で示す。フェンスには幾つか、女子の制服のリボンが揺れていた。屋上さん、なのだろうか?
「人ぐらいの大きさの影」
「続けて」
「あっちに、小さいボールぐらいの影。そこに同じぐらいの」
見えているものを答えていく。
ミスは透史の手の動きを追い、透史が指差す先を見ていく。
「それだけ」
「そう。全部影に見えているのね?」
頷く。ミスには影以外の何かに見えるのだろうか。
ミスが一つ、息を吐く。まるで安心したように。
「それなら大丈夫ね、正常だわ」
呟く。
「なっ」
正常? こっちはこんなに怖くて、薄気味悪い思いしているのに?
「何が正常だよっ! 気味が悪いっ!」
思わず叫んだ。こんなものが見えているなんて、異常でしかない。
「異常だ! 全部! なにもかも! ミスだって!」
どうしてこの状況でそんなに平然としていられるんだ。そんなの絶対おかしい。普通じゃない。
ミスの眉がぴくり、と動く。
「忘れろって言ったのは、そっちなのに!」
なのになんで今更。こんな数日経ってから。
「それは」
ミスがなにか言いかけるのを、
「聞きたくないっ!」
声を荒らげて遮った。
関わりたくない。怖い。気味が悪い。どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
掴まれたままだった手を振り払って、屋上から逃げ出そうと足をドアに向けると、
『はらへった』
いつの間にか、目の前に黒い影がいた。
『はらへった』
二度言われる。
しゃべる、のか。
「ひっ」
手を再び、ひっぱられる。後方によろけ、尻餅をつきそうになる。
屋上に見えていた他の影達も、こちらに向かってくる。
ミスが影と透史の間に体を滑り込ませると、
「喰らいなさい」
ちいさく呟いた。
途端、ミスの体から黒い影が現れる。
もう悲鳴は声にならなかった。喉の奥であがる。
ミスの手も振り払おうとする。怖い。影が怖い。
三隅美実が怖い。
でも、ミスは力強く透史の手を握っていて、離れない。
ミスから現れたその影が、他の影に向かう。
ぶつかる。
他の影が消えた。
そうしてミスから現れた影が、全ての影にぶつかり、消える。ミスの影のみが残る。
「戻りなさい」
影がミスの周りをまわる。それはどういうわけだか、不満そうに見えた。
「戻りなさい」
もう一度ミスが言うと、影が消えた。ミスの中に消えたように、見えた。
もう何が起きているのかわからない。
ミスが手を離した。
「気味が悪いのは仕方ないわ」
背中を向けたまま、ミスが呟く。
「化物だもの」
その声が、言葉が、何故だか泣いているようにも聞こえた。
「三隅、さん」
「…ピアス、あいてる?」
思わず名前を呼んだけれども、振り返ったミスはいつもと同じような無表情だった。
「ううん…」
意味はわからないながらも、首を横に振る。
「そう」
ミスは少し躊躇ってから、自分の耳からピアスを外した。
あいていたんだ。ほんの少し、意外な思いでそれを見る。
それを透史の手に握らせる。
「ごめんなさい。どうやらあなた……視えるようになってしまったみたい」
手に渡されたピアスは、シンプルな透明の石が一つついているものだった。
「何を言って……」
「視えていたのでしょう?」
有無を言わせぬ言葉に、小さく頷く。
「いわゆる霊感というやつはね、霊的現象を体験することで目覚めることがあるの。あなたはもう、三度も体験していた。視えるようになっても、おかしくはないわ」
「三度……?」
一回はわかる。この前のバスケットボールだ。あとは?
「ピアノ」
「あの、ピアノ、やっぱり本物?」
「ええ。コンクール前に亡くなった生徒の霊が憑いてた。あの時ピアノを弾いていたのは、わたしじゃなくて、わたしの体を使ったその霊」
菊はあの曲を難しいと言っていた。別の人が弾いていたから、あんなに流暢に弾けていたのか。
「それから、わたしについて裏道に入り込んだでしょう?」
ああ、そうだ。あの塀が続く不思議な世界。
「正常といったのは、幻覚なんかではない、という意味。不快に思わせたのならば、謝る」
いつになく、ミスは饒舌だった。
「視えているだけの人間は、狙われやすい。取り憑かれるって言葉、聞いたことがあるでしょう?」
そうして透史の手の中のピアスを指差す。
「それはお守り。持っていれば、完全に視えなくすることはできないけれども、さっきよりは存在を薄く感じることができると思う。それから、向こうからも君は見えない」
だからさっきみたいに狙われることもない、と続ける。
「とりあえず持っていて。すぐにちゃんとしたのを用意するから」
早口で一方的に言うと、透史の言葉を待たずに、ミスは屋上から出て行った。
呆然とその後ろ姿を見送り、手の中のピアスを見る。それを一度握ると、ズボンのポケットのとりあえず滑り込ませる。
それから顔を一度こする。いつの間にか泣いていた。教室に戻る前に一度、鏡を見た方がいい。どこか冷静な部分の自分がそう告げた。
のろのろと歩き、屋上を後にする。
廊下にはさっきと同じように黒い影が見えた。それでもその数はさきほどよりも激減して見え、なおかつ少し薄らいで見えた。
トイレに入り、顔を洗う。
ポケットの中のピアスを握る。
今起きたことを、じっくりと反芻する。何が起きたのか正直よくわからなかった。わからなかったけれども、きっと、助けられた。
そもそも、さっきのミスの説明じゃなにもわからなかったし。教室に戻ったら、ちゃんと話を聞いてみよう。
わからないままが、一番怖い。
そう思うと、一度自分に気合いをいれた。
気合を入れたものの、やっぱり重い足取りで教室に戻る。
「あ、戻って来た!」
弥生が駆け寄ってきた。
「さっきはどうしたの? 大丈夫? ミスとなにかあったの?」
「ミスと密会だったんだって?」
今井も声をかけてきた。他のクラスメイトも、興味深そうにこちらを見てくる。
「ちょっと。ミスは?」
尋ねると、弥生が唇を尖らせ、
「帰った」
「帰った?」
「鞄持って出て行ったから、多分、帰ったんだと思うよ。顔色悪かったし」
今井が引き取る。
「……帰った」
いや、帰らないで欲しいんだけど。
「透史くんは? 大丈夫?」
顔を覗き込んでくる弥生に、笑い返してみる。
「でも、ミスとなにを」
弥生の言葉をチャイムが遮った。
「あ、ほら、先生が来る」
追及の言葉から逃れたことに感謝しながらそう言うと、弥生は不満そうな顔をしながらも席についた。前の席の今井が、
「で、どうしたよ?」
尋ねてくるのも笑ってごまかす。
担任が教室にはいってくる。
「出席とるぞー、いないやつ返事しろー。お、三隅いないな」
「三隅さん来たけど帰りましたー」
「なんだそれ?」
ポケットの中のピアスを撫でる。
さっきはあんなに見えた黒い影も、今は教室の隅にいる小さなものしか見えない。
ちゃんとミスに話を聞こう、そう思った。わけがわからなくて怖い。わからなくて怖い。ならば、理解できれば怖くないのではないだろうか。
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