第29話 私はカモメの添乗員 陽子編(完結)
西田君は、すれ違いざまにホール係の顔を見て席についた。
「何を話してたの? ボーイさん笑ってたよ?」
「え? 何だろ、わかんない」
「しかし、ここにいるってよく分かったなあ」
「先生から何て?」
私は、シレッと聞いた。
「電話切れちゃってたよ。携帯に折り返したんだけど、電源入ってないしさあ。まあ、あの人はいつもそうだけどね。ごめんね、スープ冷めちゃうよ。さ、食べよう。いただきまーす」
彼はスープを飲み始めた。
「ん、新しい味だな。何ていうか、うーん、少し苦みがあるかな」
「そお? 私は好き、おいしいわあ」
入れすぎたか。何しろ、てんこ盛りだもの。さあ飲め、もっと飲め、全部飲め!
「おいしい、毎日こんな食事してるの?」
「はは、だといいね」
スープを飲むため、前かがみになった彼の後から、年配女性のロックオンされた視線を私は浴びた。
うっ、まさか、見られていたか?
私は席の位置をずらして年配女性からの視線を外した。
「ほんと、おいしいわぁ。おいしーい」
おいしいを連発した私は早送りのようにスープを飲む。それを見ていた西田君もつられるように飲み干した。
「先週は楽しかったなあ。久しぶりに心の底から笑ったよ」
「ほんとね、昔を思い出したわ」
「陽子とは中学、高校と一緒なのに、話したのは高校三年生からだよね」
「初めてクラスが一緒になったしね」
西田君はグラスのワインを一気飲みして、私を見つめた。
「こんなかわいい子がそばにいたなんて、衝撃だったよ」
おっ、早くも効きはじめたか?
私はほくそ笑んだ。
「よく言うよ、眼中になかったくせに」
「失礼いたします」
ホール係は歩み寄り、空のスープ皿を下げた。
「オマールエビのムース、お菓子仕立てでございます」
彼は料理をテーブルに置いた。西田君のグラスが空なのを確認してボトルからワインを注ぎ、一礼して去って行く。
西田君はネクタイを少し緩めて、軽く頭を振った。目は少し充血している。
「ふー、へんだな。異常にのどが渇く」
彼はグラスに入った水を勢いよくのどに流し込んだ。
「ところで、私に連絡って何だったの? 私のお願い事は聞いてもらえたわけだし、あなたの為だったら何でもするわ」
ええそうよ、何でもするわ、あんな事や、こんな事も。ふ、ふ、ふひひひひ。
私はワインをグビリと飲んだ。
「ああ、その事だけど実はちょっと訳ありでね。先生が旅館のプレオープンに招待されててね。君に秘書として小坂先生と同部屋で泊まるって事で一緒に行ってもらえないかと思ってさ。俺が運転手兼用で行くんだけど男性秘書が同部屋なのは世間体が悪いっていうか」
アリバイ工作に加担させようって事? フェイク? 週刊誌で読んだことあるわ。議員と秘書の熱愛?
「そういう関係なの」
私はそっぽを向いた。彼は前のめりになって声を潜めた。
「ちがうよ、内緒だぜ。その日、ある人が一人で来るんだけど、その人が小坂先生とちょっとね」
ほっほう、逢引きか。私も前のめりで小声になった。
「なるほど、そのちょっとの人って、誰?」
「実名は言えないけど、有名人さ。顔見れば分かるよ。ヒントはツバメちゃん」
「何それ、ああー、若いんだ。ふーん、それっていつなの?」
「来週の水曜日、一泊二日なんだ。お礼はするよ」
「ええ? それってまさか若井グループの鬼に金棒の事じゃない?」
「何で分かるの?」
「来週の水曜日に、うちも招待されてて、後援会の担当者といっしょに行くことになってるのよ」
「偶然だなあ、確かに旅行会社だからあるよね。でもそれなら話は早い。ペア招待なの知ってるでしょ、先生とその人で部屋が二つあるんだよ。先生と君が同部屋で、俺とその人が同部屋ということで絵を書いちゃおうぜ」
「それって、実際は」
「入れ替わっちゃうのさ」
ふははははは。なんと! 初めから相手はその気だったのだ。
私は天井を見上げた。目は三日月を横に寝かせたようになっているにちがいない。
「えー、そんな、どーしよう」
「俺さ、高校時代から気になってたんだ、陽子の事」
私は横三日月の目のままで彼を見た。
「何よう、いきなりい」
上気した顔で彼の鼻息は荒く、目は血走っていた。
「同窓会で変わってない君を見て思いついたんだ、というか、一石二鳥で、ね」
彼の思惑と私の思惑は、目的を一挙両得で達成しようとするところまで、完全に一致した。しかも、予想を超えて、とんとん拍子に物事が進んでいくではないか。
うう、このままダボハゼのように喰らいついていいものか? 軽い女だと見られはしないだろうか?
「何にもしないって、約束するなら、いいけど」
「陽子を前にして? 自信ないなあ」
「いやーん、こわーい」
「今日、練習する? 今晩ここでさあ、何もしないでいられるかさあ」
「うーん、どうしようかなあ、ほんとに何もしない?」
「よし、じゃあ、にらめっこで決めようぜ」
「どういう事?」
彼は、ワインをがぶ飲みした。
「にらめっこで君が負けたら、今晩俺と一夜を共にするのさ」
「勝手に決めちゃって、ずるーい」
いい提案だと思った。彼の誘いは願ったりかなったりだが、二つ返事は見透かされているようで躊躇してしまう。この状況では、負い目は理由に成り得るからだ。
そうよ、しかたがなかったのよ。ああ、しかたなく彼の毒牙にかかってしまった私なのよ。
彼はワインクーラーからボトルを引っこ抜き、なんと、ラッパ飲みをするという暴挙に出た。
何してるのこの人、尋常じゃないわ。狂ったの?
「指切り、約束だ。君とあんな事や、こんな事するんだ!」
支離滅裂だ。
怖い、どーしよう。『虜』が効きすぎたんだわ。
引きつった私の顔に彼は肩で息をしながら小指を突き出した。にらめっこだの、指切りだの、完全に幼児性退行だ。
「さあ! さあ! さあ!」
彼は叫びながら席を立って小指を突出し、私に迫ってきた。付近の席がざわつき始めた。
ああ、ごめんなさい、私が小細工をしたために頭がおかしくなったのだわ、何もしなくてもうまくいってたはずなのに、営業の男どもの口車に乗ったがために、取り返しがつかない事に、ごめんなさい、西田君。
「うっ!」
彼の黒目はでんぐり返り、白目になった。テーブルクロスを手でつかんだ彼は、そのまま床に崩れ去り、食器の割れる音がレストランに響き渡った。
「キャー!」
私は顔を手で覆った。手をのけると、付近の客たちが席を立って人だかりができていた。
恐る恐る倒れた西田君を見ると、ズル
かつらが取れて禿げ上がった彼の頭が光って見えた。
歯も髪の毛も、偽装だった。その有様を見た私の頭の中であのフレーズが聞こえてくる。
にらめっこ、しましょ、笑ろたら、負けよ、あっぷっぷ。
クスッとした私は、負けたのだなと思った。
了
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