第27話 私はカモメの添乗員 陽子編1
名前を聞けば、誰もが一流と認める高級ホテル。エレベータの扉が開き、私は廊下に出た。
そこは、常に星三つを獲得する高級レストランのある25階だった。私は会社から、ある密命を受けて、ここへ来たのだ。
私の名は佐竹陽子。
カモメ旅行社、大阪本社勤務、内勤、手配係、勤続25年、独身。彼氏いない歴、ボーと数えて十年。
それは
「
社長の大声が狭い事務所内に響き渡った。
大勢の客を前に連絡事項を告げる添乗員の宿命からか、異常に声が大きい。
「はい」
同僚で営業の早乙女
社長室といってもパーテーションで区切ったわずか三畳ほどの空間だ。話は筒抜けである。
「小坂先生の後援会、あかんかったんかい!」
関西弁はストレートに心に刺さる。
「はあ、すみません」
「はあ、やないで。ここ五年間ずうっと、うまい事いってたのに、なんでや」
「事務局長が変わって、どうも、そりが合わなくて」
「君が合わへんいうて、どないすんねん。合わせ、合わせぇ。合わせマクリンコせえ!」
「あたしも、マクリンコしまくったんですけど!」
「マクリンコがたらん! もっともっとマクリンコやあ!」
マクリンコって何? 大阪に来て二十五年。たまにわからない言葉がある。
一回り年は離れているが、薫は一番仲のいい同僚だ。来週、休暇を取って一緒に旅行へ行く計画もある。この流れでは許可も下りないだろう。
私は、ふと閃いた。一か八か、
私は社長室のパーテーションをノックした。
「社長、失礼します」
「何や、佐竹さん。呼んでへんで、後にしてくれるか」
「小坂先生の後援会。ちょっとしたコネがあるといいますか、知り合いがいるんですが」
「知り合いて、誰や」
「政策秘書の西田哲也という人です」
「なんと! それはごっついコネやないか。もっと早よ言わなあかんがな」
「私も先週の土曜まで知らなかったんです。二十五年ぶりの同窓会がありまして、そこで初めて知りました。高校三年の同級生なんです」
「ほーお。政策秘書は旅行と直接関係ないけど、太い人脈やで」
「
二人はしばし、あっけにとられた表情をした。
あれ? 使い方まちがえたっけ?
「ははは。よし! 頼むでえ、マクリンコしまくってきてくれえ!」
「では、社長。こちらの書類、マクリンコお願いします!」
「何や、これ?」
「休暇願です。早乙女さんと研修を兼ねて旅行に行ってきます」
「研修を兼ねて? ええ心がけや。よっしゃ、よっしゃ。マクリンコや!」
社長は勢いよくハンコをついた。
「西田君は男子で一番仲が良かったんです。なんとかなると思います」
「おう! よっしゃ、よっしゃ。期待してるで佐竹さん。わあっははは」
私はもう一枚の書類もすばやく社長の前に置いた。
「こちらも、マクリンコで」
「おう! マクリンコやあ!」
社長は見もせずにハンコをついた。私はサッと書類を引き上げた。私と薫は一礼して社長室を出ようとした。
「あ、今の何やった?」
「隠れ家旅館、鬼に金棒の新規オープン前、視察招待券、使用許可願いです」
「ええ? それ、ワシが行きたかったやつや」
私は強気に出た。
「社長! どーんとマクリンコですよ!」
「おっ、おう? ふうー、まあ、勢いやがな」
社長は孫の手で背中をかきながら、もういいと手を振った。
実をいうと、同窓会で西田君と意気投合した私は、彼と会いたかったのだ。お互いの連絡先を交換して、また今度ということになったが、きっかけが欲しかった。そこへ、降ってわいたようなこの話。ピンチをチャンスに変えるというか、一石二鳥というか、渡りに船というか。
早速、メールしてお茶でもと思ったら、高級ホテルのレストランでディナーのお誘いだ。しかも、彼は今晩ここで宿泊している。ふふふ、事がうまく運ぶ時はこういうものだ。世界は私のために回っているのよ。このチャンス、逃してなるものか。秘策は、ある。ふふふ。へへへ。ふぇふぇふぇ。
「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか?」
入り口前で、イメージトレーニングしていた私は、我に返った。受付の女性が不思議そうに私を見ている。しまった、浮かれた間抜け面を見られたかもしれない。私は平静を装った。
「はい。西田哲也で七時に予約してます」
案内係はタブレットを見ながら確かめた。
「西田哲也様。はい、頂戴しております。少しお早いですが、お揃いでいらっしゃいますか?」
「いえ、まだ。あのう、お手洗いはどこですか?」
「化粧室は廊下をまっすぐお進みいただいて、つきあたりにございます」
「はあ、あの、今六時半ですよね」
彼女はタブレットをチラリと見た。
「左様でございます」
「分かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
私は、廊下を進んだ。
化粧室の自動ドアが開いた。
私は洗面台の大鏡の前に来て服を整えながら思った。
若いのに丁寧な接客係ね。さすが高級ホテル、三重丸ですな。
サービスの質をチェックするのは職業病みたいなもので、ほぼ無意識にしている。
鏡で自分の顔を見た私は思わず口に出していった。
「あーあ、年は取りたくないなあ。化粧のノリが悪い悪い」
私は化粧道具をバックから取出し、化粧直しを始めた。
その時だった。小川のせせらきの音が聞こえた。トイレの音けし装置が作動したのだ。
ちくしょう。いたのかよ。
誰もいないと思って口に出す心の発露を聞かれた時、羞恥度の計りは振り切れんばかりだ。
ドアが開く音がして、当然だが女が出てきた。一瞬私と目が合い、鏡の前に立った女は上品なブランドに身を包み、その優雅ないでたちが、私とのコントラストを描き出した。しかも若い。私は無言で化粧直しを続けたが、手を洗う彼女の口角が僅かに上がったのを見逃さなかった。
「今、笑った?」
私は睨みつけてやった。女は私を無視して無言で立ち去っていく。
ふん! 愛想がないというか、可愛げがないというか。
私は口臭が気になって、口に手を当てて息を吐いた。
「くさ」
でも大丈夫。私には口臭予防スプレーがある。
と思ってバッグの中をまさぐったがなかった。あせった私は何度もバックの中をまさぐった。でも、よく考えたらここは高級ホテル。歯磨きぐらいは置いてあるのが常識。お風呂に入って、歯磨きすればいいのよね。
ふふふふ。へへへへ。ふぇふぇふぇふぇ。
鏡に映った私は薄笑いを浮かべ、バッグからピンク色の袋を取り出した。去年の忘年会、ビンゴゲームで当てた景品だ。漢字で大きく『
営業の男子が添乗で海外に行った時に仕入れてきた代物で、大金持ちの玉の輿に乗る秘薬として、現地で話題沸騰なのだとか。その物ズバリ、惚れ薬である。
当たったのが私だったせいか、男どもは寄ってたかって秘薬の重要性をアピールしてきた。
やれ、来年は結婚だの。やれ、玉の輿だの。やれ、幸せは歩いてこないだの。
考えてみれば、人を見て景品を渡したのかもしれない。初めから私に渡すつもりだったのだろう。
しかし、今。それは現実のものとなりつつある。今使わずして、いつ使うというのか。軽薄でバカな奴らだが首尾よくいった
私は『
が、字が小さくて読めない。私はメガネを取り出そうとバックの中をまさぐった。メガネケースをつかんで開けようとした時、スマホの大きな着信音が化粧室に響き渡った。
「うわ!」
私は驚いてメガネケースを落とした。ケースを拾い上げようと、慌ててかがんだ拍子に、置いていたバックが体に当たってひっくり返り、中身が床に散乱した。
頭が真っ白になった私は、這いつくばって中身を拾い集め、床に落ちて鳴り続けるスマホをつかんだ。
と同時に自動ドアが開く。
顔を上げると年配で和服の女性が私を見つめている。私は彼女に会釈をして電話に出た。
「はい! 陽子です。うん、来てる」
西田君からだった。散乱した中身をかき集めていると、年配の女性はいくつか拾い上げ、洗面台に置いてくれた。私は、恐縮して頭を下げながら集め続けた。
「すみません。すみません。えっ、いやいや、ちょっと席はずしで、いや、じゃなくて」
私はお礼を顔で表現しようと彼女を見上げた。と、彼女は洗面台の一か所を凝視していた。その先にはあの『虜』があった。
「あー!」
叫んだ私は立ち上がり『虜』を体の後ろに隠した。年配の女性は目を丸くして驚いている。私は愛想笑いを浮かべながら何度も頭を下げた。
微笑んだ彼女は礼儀正しくお辞儀をして、トイレの中に消えた。
「いえいえ、何でもなくて、ちょっと物を落としちゃって」
私は中身をバックの中に押し込んで出口に向かう。
「いや、大丈夫、見つかった。うん、うん、そうなの。えっ、着いたの。レストランの前? すぐ行きます。近くよ、すぐそこなの」
自動ドアを開けたとたん、小川のせせらぎが聞こえた。
つづく
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