第23話 リップガール誕生の秘密 完結

 「おのれえぇぇぇ! 消えてなくなりたいのか! ケンジ!」


 床一面に魔女の血がまき散らされる。生気に満ちていた魔女の顔は老いさらばえ、ミイラのように変化していく。彼女の目が金色に光り輝いた。

 バン! 魔女はやせ細り干からびた腕を伸ばして傘を広げた。突如、展示室に豪雨が吹き荒れる。

 飾られていた絵は、雨に打たれ、絵具がにじみ、壊されていく。そして、ケンジもまた絵具が溶けていくように、にじんでいった。


 「いやあ! ケンジさん!」


 シズルは床に這いつくばり、血の色に染まった雨水の中を恐怖におののきながら懸命に前進しようとしていた。

 腕をだらりと下げ、骸骨がいこつに薄皮を着せたような顔面で口を開けた魔女は徐々に目の光が弱まっていく。腹部から流れる血の勢いがなくなり、目の輝きは消失した。

 からめた腕を離したケンジは、うつぶせに崩れ落ちる魔女を見下ろす。魔女の亡骸はしだいに薄くなり血の海に溶けこんでいった。

 と、豪雨が止んだ。


 ケンジは、にじんだ顔をシズルに向ける。


 「……ありがとう……俺……君と出会えて、本当に幸せだった」


 感極まったシズルはケンジに飛びついて抱きしめようとしたが、自分がずぶ濡れだと気付き、震える両こぶしを握り締めて思いどどまった。


 「いつも、そうやって……相手を思いやって生きてきたね、シズル」


 ケンジの輪郭がぼやけてきた。


 「君を初めて見た時から、君の美しい魂を見てきた。この先も見守りたいと思っていたんだ……でも、魔女に渡すくらいなら……俺は消滅しても、構わない」

 「ケンジさん……あたし、あたし……」

 「俺……好きだったんだ……ずっと」


 シズルの目から涙があふれた。ケンジは溶けるように雨水の中に沈んでいく。


 「あたしも!……あたしも、あたしも、あたしも!……ケンジさんが、好き!」

 「ありがとう……最後に君の気持が聞けてうれしいよ……もっといっぱい話がしたかった……ずっと君を見ていたい……大切な人、きれいな魂……好き、ありがとう」


 どろどろに溶けたケンジは最後に笑みを浮かべ、原形をとどめず、水没した。


 「……うわぁぁぁ! いやあぁぁ!」


 シズルはケンジのいた場所を掘るように雨水をかき分ける。


 「初めて好きになった! 初めて好きって言われた! い……いやだあぁぁぁ!」


 シズルは号泣し、懸命に、むなしく、雨水をかき分け続けた。


 「……魔女の提案に従うかね?」


 魔力から解放された少年太助が、シズルにそっと声をかけた。


 「ひっ、ひっ」


 泣きじゃくりながらシズルは声の方を振り向いた。

 雨水が急速に引いていき、床には青い絵具と赤い絵具が分かれて大きな塊のようになっている。


 「この青い絵具は、ケンジの魂の卵だ」

 「ええ?!」


 シズルは、あわてて這うようにして青い絵具の前まで来た。


 「僕は、魂の画家だ。この青い絵具を使って、ケンジを描き直してやろう」

 「……本当ですか!」

 「悪意のある嘘は嫌いだと言ったはずだ」

 「ありがとうございます! お願い……どうか、お願いします!」

 「だが、一度消えた魂は元には戻らない」

 「……え?」

 「新しく描くケンジは今までの君を知らないという事だ」

 「……そんな」

 「そして、ここから出ていく時、君は全て忘れ去っているだろう。見てはいけないものをたくさん見てしまったからね。君がこの世で暮らしていくためには、忘れることが必須条件だ」

 「何を言ってるの! 忘れるわけないじゃない! そんな、悲しい事、いやよ!」


 少年太助は、少しためらいながら告げた。


 「こっちの赤い絵具、これはケンジが殺した魔女の魂の卵だ」

 「……何を言っているの?」

 「魔女も私の描いた作品だ。恐ろしく強い魂だった。その邪悪さは、ここで見てきた通りさ。この赤い絵具がある限り、僕はまた描いてしまうだろう、魔女を」

 「そんな……それじゃあ、ケンジさんのした事がみんな無駄になってしまう!」

 「魔女が欲しがっていたのはケンジじゃない。シズルさん、君だよ」

 「……あたし?……」

 「ケンジを忘れる事が出来ないのなら、不本意だが魔女の思惑に乗るしかない」


 少年太助は短剣を取出し、シズルに渡した。受け取った彼女は何が起ころうとしているのか飲み込めない。


 「方法は一つしかない。君の赤い血と、この赤い絵具を入れ替えることだ」


 シズルは、おぼろげに少年太助の言わんとするところが分かり始めた。


 「君の肉体は君の魂を失う。そして、魔女の魂を宿すことになる。魔女は君の若い肉体を欲しがっていたんだ。君は赤い絵具の魂の卵として生まれ変わり、僕の描いた絵の中に生きるだろう。美しい魂を宿す、美しい絵として」

 「……」


 シズルは短剣を見つめた。


 「命を削って描く僕は、今よりもっと幼くなってしまうだろう。だが、やり遂げる自信はある。絵の中で生きるケンジに会うには、君も絵の中で生きるしかない。どうする? 全て忘れ去ってここから出ていくかい? ……それとも……」


 彼女の持つ短剣に、真っ赤なルージュの唇が映っている。




 美術館の廊下。

 第三展示室の扉がゆっくりと開き、何事もなかったようにシズルが出てくる。足早に廊下を歩く彼女は、何かに気が付いたように振り返った。


 「おいで、ぼうや」


 二才の男の子が、おぼつかない足取りで駆け寄り、シズルにしがみつく。慈愛に満ちた表情を浮かべ、男の子の手を引いて歩き去る彼女の後ろ姿が、赤いヒールの靴音とともに消えていく。


 開き切った扉からは、薄暗い中、気高くも美しい絵が魂の輝きを放っていた。


 白馬に乗ったケンジと、後ろでしがみついているシズルの微笑ほほえみが、まばゆい。

 


              了

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