たわいもない世界
宇近太助
第1話 はなさんか爺の勧誘 アメリカ合衆国にて
アメリカ合衆国の西海岸に暮らすマイケル・スミス氏が、庭先の花に水のシャワーをかけている。
そこへ、自転車に乗った老人が通りがかり、マイケルに声をかけた。
「やあ、マイケル。いい天気だねえ、気分はどうだい?」
「年金暮らしのじいさんは呑気だなあ。退屈で死にそうだよ、最悪だね」
「はあっははは。相変わらず口がわるいね、年金暮らしはお互い様さ。まあ、楽しもうじゃないか、じゃあな」
老人は自転車で走り去った。
マイケルは退役軍人だ。寄る年波には勝てず、三年前に海兵隊を除隊している。勤続三十年という超ベテラン軍人である彼は、たたき上げで大佐にまで上り詰めた屈強な男だ。
マイケルはシャワーを止め、ホースを巻き上げて花の水やりを終えた。
玄関先にあるポストからいくつかの郵便物を取出し、確認をしながら歩いて家の中に入ろうとした時、彼は足を止めて絵葉書を眺めた。
それは、富士山の絵葉書で日本語で書いてある。一瞬眉をしかめた後、苦笑いをして肩をすくめた彼は、家の中に消えた。
リビングのソファに腰を下ろしたマイケルは、テレビのリモコンスイッチを入れた。ニュース専門チャンネルのキャスターが早口でまくしたてている。
ソファの背もたれに身をあずけた彼は、あらためて絵葉書を眺めた。
彼は日本語が読めない。にもかかわらず日本語で文字が書いてある。じっと眺めてみたが、意味が分かるはずもない。差出人も日本語だ。
「日本に知り合いはいない、なにかの間違いだろう」
彼は、絵葉書をテーブルに投げ出し、ソファを後にして台所に向かおうとした。
と、テレビのニュースキャスターがいった。
「読まへんのかーい?」
マイケルはテレビを凝視して固まった。
「意味、調べへんのかーい?」
キャスターは、両手を横に広げて、ワオっという表情でマイケルを見ている。
マイケルはとっさに身を沈め、ソファの陰に隠れたかと思うと、腹ばいになってライフルを構えた。銃口はテレビに向く。
キャスターは再び早口でニュースを伝えていた。
と、しわがれた声が聞こえた。
「やめとき、テレビに罪はないがな」
マイケルは四方に銃口を向けて、目を走らせる。どこにも、誰もいない。
彼の顔面は冷や汗でぐっしょりと濡れている。床にしずくが落ちた。
と、ライフルがもぎ取られ、かなたに放り投げられた。マイケルは飛び込み前転をして避難し、テーブルを盾にして身構える。彼は息を整え、集中した。
ズシリ、彼は右腕に重みを感じた。腕に視線を落として彼が見たものは、小さなぬいぐるみのように、腕にしっかりとしがみつく、白髪頭で五分刈りの、日本人の爺さんだった。
「うおおお!」
マイケルは叫びながら腕を振り回して、振り落とそうとした。爺さんは両腕と両足をロックして離れない。彼は自分の腕ごと、それを床に何度も叩き付けた。爺さんは目をつぶってしがみついている。マイケルは左腕で引きはがそうと渾身の力を込めた。爺さんは歯を食いしばってしがみついている。彼は力を緩めた。爺さんも息をつく。
マイケルは叫んだ。
「離せえ! はなさんか! ジジイ!」
食らいついたら離さない、彼こそが、はなさんか爺、伝説の男だ。
「いーや! はなさん♡」
爺が笑った。前歯は一本しかない。
了
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