第9話~12話

       9


 ふぉん、と音がしそうな速さで、男自警団員が左アッパーを放った。ホレー(足を宙に遣らない側転)で躱したシルバは、コンパクトな上段蹴りを返す。

 男自警団員は小さく身体を沈めた。シルバの左足は、頭のすれすれを通過した。

 視野の端で、男自警団員の斜め後ろのラスターが、一歩大きく踏み込んだ。シルバは思わずラスターに視線を切る。

 間髪を入れずに、男自警団員は左フックをしてきた。シルバは素早く頭を引く。

 だが、拳は鼻の先を僅かに掠めた。反撃の半円蹴りは、後ろに跳ばれて空振りに終わる。

(さっきのラスターの足踏みはただの陽動だ。俺がパウンド〈マウント・ポジションからの殴打〉を恐れてるってわかってて、遊んでやがる。このままじゃ、攻め切れずにジリ貧だな。どうする?)

 シルバが焦燥を深めていると、男自警団員が摺足のステップで接近してきた。左ジャブが来るが、シルバはすっと右腕で去なした。

 右肘を振って頭を狙うも、男自警団員は退いて避けた。敵は二人とも、無理に攻めてくるつもりはなさそうだった。

 シルバが戦術を練っていると、左方からたたたっと駆ける音が耳に届いた。

「あたしのセンセーをいじめるなぁー!」

 怒りの声がしたかと思うと、群衆の間からジュリアが飛び出してきた。きゅっと口を引き結んだ、凛々しい顔をしている。

 男自警団員の三歩ほど手前で、ジュリアは頭から飛び込んだ。(んな遠くからかよ!)とシルバは目を剥く。

 男自警団員は、身体を捻った半端な回避をした。応戦して良いか迷っているようだった。攻撃は掠り、ずざーっとジュリアが地を滑っていく。

(好機!)

 切り替えたシルバは、男自警団員に近寄った。飛びベンサォン、飛びマルテーロゥと、大きく滑らかにハイ・キックの連撃を見舞う。

 男自警団員はどっと左に倒れ込んだ。鳩尾、側頭部と急所への連続攻撃を受けて、完全に意識は絶たれていた。

「どーだ! スーパー・ウルトラ最強タッグのコンビネーションのお味は! これに懲りたら、うちに帰っておねんねでもしてるんだね!」

 びしっとラスターを指差し、ジュリアは喚いた。表情こそきりっとしているが、怒っているのかふざけているのか、わからない口振りだった。

「ジュリアか、ありがとな。俺一人じゃ、どうにもならなかったところを、良いタイミングで割り込んでくれた。助かった」

 シルバが真摯に本心を口にすると、ジュリアは無邪気にはにかんだ。

「お礼なんて要らないよ。あたしとセンセーの仲でしょ? それよりもちゃっちゃと、あの性悪おじさんをとっちめちゃおう。二人で掛かりゃあ、イチコロだよ。ねっ、そうしよっ!」

 弾むような声音の提案に、シルバは厳しい顔を作る。

「いや、俺一人でやる。女子のお前が頭でも殴られたら、死ぬ可能性すらある。さっきは突然で止められなかったが、お前はここで退場だ」

 強く断定するが、ジュリアは受け流すように軽く微笑んだ。

「でもさ、上手くやれば、だいじょう……」

「何度も言わすな! 死ぬ! 死ぬんだ! お前の母親みたいに、永遠にこの世から消えるんだよ! 他はいくらでも、俺に背いてくれて構わん! 脈絡も意味も皆無な冗談も好きなだけ言え! けどここだけは、聞き分けてくれ!」

 ジュリアの肩を揺さぶって、シルバは思いきり叫んだ。押し潰すような語調に、真顔のジュリアは僅かに目を伏せた。

「わかったよ。センセーに任せる。でも、約束だから……」

「死なねえよ。俺は教師だ。出来の悪いクソガキの目の前で、いなくなったりはしない」

 哀願口調のジュリアに、シルバは刷り込むように囁いた。

「愛人二号との愛の囁きタイムはもう良いかぁ? 全く、どんだけ待たすんだっつの」

 間延びした語調のラスターは、心底、詰まらなさげだった。ジュリアは歩いて群衆に混じり、シルバはラスターに向き直った。


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 眼前のラスターは、構えた身体を前後に揺すっていた。眼光は鋭く、一分の隙も見当たらない

(知らない間に、嫌な間合いを取るようになりやがった。でかい態度は実力に裏打ちされてるってわけか)

 警戒するシルバは、左側頭を目掛けて右足を振り上げた。上半身を引いて逃れたラスターは、即座に突進してくる。

 読んでいたシルバはバランスを保ち、上げたままの膝を機敏に畳んだ。

 鈍い音とともに、踵が右側頭にぶつかった。しかしラスターは頭を少し揺らしただけで、タックルを持続する。

 シルバは目を見張った。とっさに足を下ろして、左膝を前に遣る。

 膝がラスターの頭と衝突した。

 完全に競り負けたシルバは、後ろに倒れた。マウント狙いのラスターと手や足でやり合い、なんとか横に転がって逃れる。

 ごほっとシルバは咳き込んだ。若干、頭がふらつく感じもあった。

 立ち上がったラスターは口角を上げ、嫌らしく笑った。

「当てが外れてびっくり仰天って面だな。あんなへなちょこキックでやられるほど柔じゃねえよ。俺はあの方の下で、ひたすら死ぬ思いで鍛えてたんだ。お前がいちゃいちゃ、ガキどもと遊んでる間になぁ」

 首を回しながらのラスターの言葉は、脅すような調子だった。

(レスリング選手だけあって、首の強度が並外れてやがる。マウントを取られたら一発アウトだし、思わぬ難敵の登場か)

 覚悟を固めたシルバは、身長ほどの歩幅で右足を前に出した。一回転し、ぐんっと左足をラスターの顔へと突き込む。

 ラスターはまたしても、頭を後ろに遣って回避した。

 すぐに姿勢を戻したシルバは、両手を斜め下に出した。ラスターの左膝をぐっと持ち全力で引っ張る。

 ラスターは目に驚愕を浮かべたまま、地面に落ちていった。シルバは即座にラスターに飛び乗った。呻き声に構わず、折った膝を両横に置く。

 シルバは躊躇なく、ガン、ガン。握り拳で、ラスターの顔面を殴打し始めた。ラスターは顔を歪めながら、ブリッジで逃れようとする。

 だが、必死のシルバはどうにか押さえ込む。体重差の小ささも幸いしていた。

「……シルバ、てめえ。まさかのパウンドかよ。カポエィラ使いの誇りはどうした」

 掠れた声が耳に届いた。シルバは殴打を止めずに、冷たく言葉を吐き出す。

「お前を転かした技はアハスタォンって名の、正真正銘、カポエィラの技術だ。まあ確かに、パウンドはカポエィラにはねえな。

 だが俺は、ジュリアたちのためならどんな手だって使うんだよ。プライドでもなんでも捨ててな。よーく頭に叩き込んどけ」

 言葉を切ったシルバは、連打を継続した。しばらくして、ラスターはがくりと首を折った。

 演技を疑うシルバだったが、やがてラスターから身体を離した。


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(気絶させちまったか。俺の出生について聞けなかったな。まあこれから先、どうにでもなるか)

 小さな後悔を感じながら、シルバは立ち上がった。

 ジュリアが晴れやかな表情で駆け寄ってきた。シルバに向ける瞳は強く輝いている。

「やった! 完全、カンペキ、大勝利! 止めのパンチは、かなーりえげつなかったけど! あと最後の決め台詞! 超うるっと来た! お墓まで持ってっちゃうんで、そこんとこよろしく!」

「……今すぐ忘れてくれ」

 元気一杯で親指を立てるジュリアに、シルバは小さく懇願した。

 にこにこし続けていたジュリアだったが、何かに気付いたようにはっとした。

「って、それより、リィファちゃんだよね。あたしは見てなかったんだけど、何で倒れて……」

「動くな」

 ジュリアの困惑の言葉に、重々しい声が割り込んできた。

 二人が振り向くと、厳格な佇まいの壮年の自警団員が群衆とシルバたちとの間に立っていた。

(夜勤警護を引き受ける時に会ったな。自警団団長、だったか)

 直後、群衆の間から自警団員が続々と出てきた。あっという間に、シルバたちを囲む円が形成される。

「自警任務の妨害は、収監に当たる罪科だ。正当な理由がなければ連行するが、弁明の言はあるか」

 微動だにしない団長は、粛々とした語調で問うてきた。他の自警団員は整然としている。

「先ほどの樹木の飛来事件で、ラスターは飛躍した論理を以て、犯人をリィファと決めつけました。自分が咎めたところ、二人の自警団員とともに襲い掛かってきたため、自己防衛の手段を採りました。以上が顛末です」

 シルバが淡々と事実を告げると、団長は僅かに目を細めて黙り込んだ。

(俺の主張を吟味してやがる。「あの方」とか口にしてやがったが、さっきの騒動はラスター一派の独断専行で、団長は無関係なのか?)

 団長から目を逸らさないまま、シルバは思考を巡らしていた。三秒ほどしてから、団長はおもむろに口を開いた。

「詳しく話を聞きたい。詰め所まで来てもらえるか。応じるかは任意だが」

 団長の平静な言葉に、(まともに話を聞いてくれそうだな)と、シルバは少し安堵した。

 だが返答をしないうちに、シルバの視界の隅にいくつもの小さな黒点が入ってきた。嫌な予感とともに、シルバは黒点群を注視し始めた。

 怪訝な顔をした団長は、シルバと同じ方向に目を遣った。

 二人に釣られて、他の者も空を見上げた。ざわめきの声が、しだいに辺りを包んでいく。

 黒点群はだんだんと大きくなっていき、シュウッと大気を切り裂く音さえし始めた。群衆の何人かは慌てた様子で、どこかへと走り去っていく。

 一つの黒い物体が、超高速で視野を横切った。次の瞬間、コロッセウムの直下で耳を劈く爆音が轟いた。

 コロッセウムの一部ががらがらと崩れ、大多数の群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 シルバは落下地点に目を凝らす。土煙が舞う中、全身が黒の人間らしき者が悠々とした所作で歩いてきた。


       12


 十歩ほど歩いた黒服は、ぴたりと立ち止まった。

 仲間が着陸しているのか、あらゆる方角から盛大な衝突音が断続的に聞こえてきていた。

(いつもの奴らか。だが敷地内の出現も複数での襲撃も、俺が知る限りじゃあ初だぞ。黒って色といい、妙な事件の直後ってタイミングといい、不穏極まりねえ。無事に済みゃあ良いんだが)

 シルバが静かに考えていると、一人の男の自警団員が目の前を走っていった。まだ幼さの残る顔は、見るからに使命に燃えていた。

 二歩分ほど間を空けて、自警団員は跳躍。ほぼ身体を真横にして、飛び蹴りを放った。

 黒服はすうっと自警団員に向き直った。ぱしっ。飛来する両脚をいとも容易く捕まえる。

 自警団員が地面で頭を打った直後、黒服の身体が横回転を始めた。すぐに自警団員の水平状態になり、信じられないほどの速度で回され始めた。

 動作は、形だけならジャイアント・スイングである。だが自然と起こるはずの細かな足踏みはなく、足の動きは変にゆったりとしていた。現実感を欠いた光景に、シルバは瞠目する。

 五回転の後に、自警団員は投げられた。いや発射された。コロッセウムの壁に激突し、どんと地面に無抵抗に落ちた。

 気を失って横たわる自警団員の全身に、ぱらぱらと壁の破片が落下する。

(んな馬鹿な! どんな膂力をしてやがる!)

 シルバが狼狽していると、ぐるんと黒服が高速で首を回した。目が合ったように感じた途端、黒服が疾走開始。背中も肘も一直線の奇妙なフォームで、ぐんぐん近づいてくる。

 シルバの目の前で黒服は急停止した。真後ろに拳を振り被り、捻りも何もない直線のパンチを撃ってくる。

 シルバは動転しつつも、左下に沈んで避けた。通過の瞬間、ぶぉんという音とともに風が側頭部を撫でる。

 勢いを殺さず、シルバは左に半回転。後方に両手を突くと同時に、右足を全力でぶん回す。身体の捻りを用いた、渾身のシバータだった。

 鞭のような蹴りが、黒服の首に命中した。しかし黒服の身体は全く揺らがない。

(!? ラスター以上の屈強――)

 シルバの思考は、腹への爪先蹴りによって断たれた。ほぼ真上に飛ばされて、受け身も取れずに地面上を跳ねる。

 俯せのシルバは、即座に顔を上げた。黒服の靴底が眼前に迫っていた。

 頭を踏み潰す軌道の右足を、シルバは後方に避けた。腹の鈍痛をむりやりに無視して、よろよろと立つ。

 だがそこで、シルバは愕然とする羽目になる。

 黒服の真後ろ、怒りと決意を瞳に宿すジュリアが、音を立てずに接近してきていた。

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