第31話「二つの月の下で」
気付けば外はすっかり暗くなってしまった。庭を飛ぶ夜鳥やその他いろいろな生き物の鳴き声、そして夜風が窓から入ってくる。座っているのも飽きたらしい彼女は、ぼんやりと月明かりを見上げている。大月と重なる彼女の横顔は見とれるくらい綺麗でずっと眺めていたくなる。僅かな憂いが顔に差していることに気がつかなければ、実際にそうしていたかもしれない。
「何か気になることがある? さっきから、なんだかちょっと不安そうだよ」
眉尻を下げて無言で微笑む。私が心配になってきたころになって、ようやく彼女は答えた。
「クロエさんにご忠告すべきかどうかを迷っていました」
たっぷり勿体を付けた割には普通の答えだ。アトミールが言葉を濁すような話題ではない気がする。
「意外。正しいと思った意見はどんどん言う方だと思ってたよ」
「私の態度をよく把握しておられますね。もちろん、そうです。正当な意見具申を行わないことは義務の未履行にあたりますから。ですが――」
悲しそうに首を振る。
「いえ、お話しましょう。どうして私がためらったのか、聞けば理解いただけるはずです。フェリエスさんは――全面的に信頼するには危険な方なのではないでしょうか」
ようやく得心した。二人きりで話したいと彼女が言ったのは、この話題を考えていたからなんだ。
「理由を聞いてもいい?」
なんとなく察しは付いているけど。
「調査資料の中には、およそ人道的とは思えないような手段による情報収集が多数行われていたことを示す記述が多数含まれています。拷問、強迫、その他の謀略。前崩壊時代であれば、違法捜査であるとして間違いなく棄却されます。その中には、恐らくフェリエスさん自身が指示したり実行したものもあるでしょう。フェリエスさんの特性であるのか彼女の属する組織の文化であるのかについては判断を留保しますが、目的のためには手段を選ばない方でしょう。彼女自身の目的のためにクロエさんを陥れる必要があれば躊躇をしないのではないでしょうか」
今回のフェリは一見本性丸出しだったけれど実は違う。私以外の人、すなわちアトミールとティンさんの視線を相当強く意識していたはずだ。今回のフェリは、当初洗練された貴族としての表向きと、乱暴だけれど実直な本性という印象を二人に与えようとしていたように思う。アトミールがフェリエスの本当の顔を正確に把握したのが資料に眼を通してからだということは、偽装工作が上手くいっていたことを物語っている。
目を通してはいないけど、会議のときの流れからして、資料の中には相当過激な出来事も書かれていただろうということは想像していた。アトミールはそれを見てフェリの隠していた部分に気がついたわけだ。
「そういうことはあるかも、とは思うよ。でも、今は大丈夫だと思う。詳しく話すと長くなるけど、フェリにとって私は役に立つから」
フェリが一番恐れているのは、妥協を重ねた結果自分の理想を見失うこと。あんまり空気の読めない私は、フェリにとっては命綱みたいなものらしい。しかも、今はアトミールがいる。アトミールを伴った私というのは、昔以上に使いみちがあるだろう。だいいち、正体が知られるような内部資料を見せてくれる時点で、彼女はかなりの危険を冒している。私だけでなく、アトミールに対しても全面的な信頼を示してくれたと言っていい。そんな彼女を信頼することは決して理外でないだろう。
でも、こういう考え方は好きじゃない。私が彼女を信頼する本当の理由は、こっちだ。
「それより、フェリに裏切られることまで心配して生きたくないよ。大学で出会って……遊んだり、喧嘩したり、あるべき政治みたいな話で一晩中議論したりもした。もちろん裏切られたら悲しいし、戦うけどさ。でも、それはそのとき考えようって思ってるんだ」
アトミールが眉をひそめてこちらを見る。そうか、彼女の都合を考えてなかったな。
「あ、今のは私の考えだよ。アトミールがフェリを疑う分には構わないと思う。危ないと思ったら教えてくれたっていい。でも、私の考えは、こう。ありがとうね、心配してくれて」
ちょっと早口になってしまった。おもむろに腰を落とした彼女の顔が目の前で止まる。半分怒って、半分面白がっているような顔。
「お友達を疑う嫌な役回りは私に丸投げですか」
「……ごめん」
気を使っているようで、結局自分のことしか考えていない。私がいつもやってしまうやつだ。目線が床へと逃げる。
ぽん、と肩を叩かれる。こわごわ視線を戻すと、彼女の穏やかな笑顔があった。
「必ずしも既知の最適解を選ばれない。クロエさんはそれで良いんです。でも、そんなあなたをお守りすることが無理難題だということは忘れないでくださいね」
よくわからない。許して貰えたような許して貰えなかったような言葉を、からかうような口調で言われたから。
再び背筋を伸ばしたアトミールは小月へと視線を移し、そして背を向ける。こつ、こつと足音を立てて、彼女は扉の方へと歩む。伸びた影が扉に行き当たって立ち上がる。踵を返し、青白い光に照らされた彼女の
「力が必要です。アルスパリア〇五二に押し負けるような現状ではクロエさんを守り切れませんから」
彼女の口から力を求める言葉が飛び出すなんて。それも、私のために。
「そこまでしなくていい、なんて言わない方がいいんだろうね」
「私が誤っているというご指摘なら受け入れましょう。ですが、遠慮なら責任回避に他なりませんね」
手厳しい。
「だろうね。だから、言わないよ。あなたがそんな風に言い出すんだから、もちろん考えがあるんでしょ?」
「もちろんです。試してみる価値はあると思いますよ」
一際強い夜風が私の隣を駆け抜けて、彼女の髪を靡かせた。
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