バツイチアラサーの彼女が可愛くって…

阿部善

序章 俺と綾子が付き合うまで

上京

重たいキャリーバッグを前の段に載せ、俺はエスカレーターを下がる。地元である群馬県の太田から、遙々この赤羽駅まで、バスで熊谷まで行き、そこから高崎線に揺られて来たのだ。僕の目に映るこの駅は、まるで巨大なターミナル駅の如し。しかし、東京ではこの駅も際立って大きい方では無く、上には上が、しかも幾つもあると言うから驚きだ。俺はエスカレーターを降りたら、駅構内を歩く。この赤羽駅は、俺の旅路では通過点だ。目的地は、二つ先の板橋。ここから、埼京線に乗り換える事になっている。

「埼京線、埼京線…。あれ?どこだ?」

俺は迷子になってしまった。埼京線ホーム、それがどこにあるのか、完全に分からず、駅構内を行ったり来たりして時間だけが過ぎ去っていく。詰んだ、詰んだと思い、諦めかけていた。その時、俺の肩を、誰かが叩いた。

「やっぱり、純太兄ちゃん、ここにいた」

背後からは俺の名前を呼ぶ少女の声。俺は振り返った。そこには見慣れた少女の姿。

「さゆり!」

思わず声が出た。今日から居候する事になる、母方の叔父・上原昇の娘である上原さゆり、その人だった。親戚故に、俺は何度か会った事がある。とは言っても、最後に会ったのはもう五年も前。見ない内に、随分と雰囲気が変わっていた。小さな女の子だった彼女は、凜々しい少女へと変貌を遂げていた。だからと言って、本人だと分からなくなる事は無い。間違いなくさゆりだ。

「暫く見ない内に、大分雰囲気変わったな」

俺は思わず言った。「何、上から目線で」と、さゆりは冷たくあしらう。「ご、ごめん」と俺は謝る。「まあ、別に良いけど」とさゆりは言う。「所で、さゆり、何故ここまで来たんだ?」と俺は聞く。

「何故って、純太兄ちゃんを迎えに来る為だよ。余りにも来ないから、ママが心配して、迎えに行け、って」

さゆりは耳が痛くなるような言葉を吐いた。「悪い、本当に悪かった」と俺は謝る。「純太兄ちゃんは駅構内の標識とか、見ていたの?」とさゆりは言う。「いや、見ていなかった」と俺は返す。

「馬鹿じゃないの」

そう言って、俺に対し、黙ってついてこい、という暗黙のメッセージを発しながら歩いて行った。俺はさゆりの後を追う。何の嫌がらせか、さゆりは階段を上った。俺は重い、重いキャリーバッグを持ち上げて階段を歩く。本当に重くて、肩が痛くなる。

「さゆり、重い、重いって」

俺が訴えると、さゆりは「男だろ?女の私でも、それ位持てるよ」と、非常に冷たい態度。俺に対して、大分キレている事は伝わってくる。まあ、相当行きたくなかったのだろう。俺がさゆりの立場だったら、多分キレていたな。

俺はさゆりの導きに従い、埼京線ホームへ上がる。新宿行きが来る、というアナウンスが鳴った。電車が入線してくる。車両には「りんかい線」という文字が書かれていた。「これに乗るぞ」とさゆりが言う。「これ、本当に埼京線?」と俺は聞く。「はっ?」と呆れ顔のさゆり。「だって、車両にりんかい線と書いてあるじゃん」と俺は言う。さゆりは「良いから乗れ!」と怒り気味に言った。俺はさゆりと一緒に、「りんかい線」と書かれた車両に乗り込む。昼間だから、それ程混雑はしていないが、座る事はできなかった。

「さゆり、ごめんよ。東京は不慣れで…」

俺はさゆりに謝った。「早く慣れろよ」とさゆりは言う。「慣れるよう、努力するから」と僕は言う。「群馬出身の純太兄ちゃんにとって、東京は魔境のような場所のように思えるかも知れないけど、慣れればこれ程楽しい場所は、無いと思うんだ。だから、早く慣れて」と、さゆりは前向きな言葉をくれた。「分かったよ」と俺は返す。

「板橋は良いよ。庶民の街で、だけど池袋にも、新宿にも、渋谷にも、大手町や秋葉原にまで楽々行ける。兄ちゃんの通う東京文学大学のある、神保町にも一本だよ」

さゆりは言う。俺は車内にある、JR東日本の路線図を見てみた。そこに神保町の駅名はどこにも無い。「無いよ」と俺は訴えた。「…都営三田線でね…。新板橋っていう、地下鉄の駅があるから…」とさゆりは言う。「悪い、考えが及ばなかった」と俺は返す。「もう…」とさゆり。「心配だ、こんな調子じゃ」と呆れ気味だ。「ほら、電車とか、人生で四回くらいしか乗った事無いんだ。地元では、大体車か自転車だし…」と俺は釈明する。「ちゃんと乗れないと、恥ずかしいからね」とさゆり。「ああ…」と俺は返した。

話している間にも、あっと言う間に板橋駅へ到着した。「さ、降りるよ」とさゆりは言う。俺はさゆりと共に降りる。エスカレーターがプラットホームにあって、俺とさゆりはそのエスカレーターで降りて、改札を出た。板橋駅は再開発工事の真っ最中のようで、至る所に仮囲いのような物が見られる。改札から出たら、今度は改札外のエスカレーターで地上へ上がる。二度手間だ。地上へ出て、駅前広場から、さゆりが案内し、歩く事二分経つか経たないか、微妙な時間。駅からはっきりと見えた大きなタワーマンションの、入口前まで来た。

「ここが私の住むマンションさ。大きいでしょ。しかも三十階。かなり上の方だよ」

さゆりは自慢気に言う。「おお、凄いな。さぞ眺めが良いのだろうなあ」と、俺が感嘆して言うと、さゆりは「いや、イマイチ」と急に卑下したような言葉を使う。「えっ、イマイチなの?」と俺が言うと、「本当に殺風景だよ」と言う。「分かった、期待しないでおくよ」と僕は返した。

さゆりはマンションへ入るや否や、オートロックの鍵を回し、自動ドアを開けた。そして、エレベーターに乗り込み、三十階のボタンを押す。運良く、他の住民は乗っていなかったので、スムーズに三十階にまで行けた。三十階の中の、三〇一号へと俺とさゆりは入った。入った途端、目の前にはさゆりの母がいた。「お帰り、さゆり。いらっしゃい、純太君」と出迎えてくれた。彼女は今時珍しい専業主婦だとは聞いている。そして、離婚歴があり、叔父とは再婚の関係であるとも。

「これから、これから、お世話になります!」

俺は緊張して、畏まった、と言えるかどうか分からないぎこちない挨拶をした。さゆりの母、名前は洋子と言うのだが、彼女は「良いんだよ、敬語使わないで、気軽に話して。四年間、家族になるんだから」と気さくに話す。「う、うん。分かった」と俺は返した。

「では、上がらせて貰います」

俺は靴を脱ぎ、キャリーバッグを持ち上げ、家(という表現が適切なのかは分からないが、これ以上に適当な表現が見当たらないから、以後こう表現しておく)へ上がった。さゆりが家の中を案内し、俺の部屋となるべき場所へ誘導した。俺の部屋には既にベッドと勉強机、それに服を仕舞う為の箪笥が揃っていたが、他の物は何も無かった。確か、洋子さんの連れ子である息子―名前は確か、翔太と言った―がいた筈だが、彼は京都の大学へ進学したと聞く。「もしかして、翔太君の部屋だった所?」と俺は聞いた。さゆりは「そうだよ」と即答する。「使って良いの?」と俺が聞くと、さゆりは「暫く、兄さんは京都にいるから大丈夫」と答えた。俺は「兄ちゃん」で、翔太は「兄さん」なのかと、この微妙なニュアンスの違いは何なのかと思いつつ、話を聞いていた。「盆や正月はどうするんだ?」と俺が聞けば、さゆりは「うちにはそんな習慣無いから、大丈夫」と返す。そうか、俺の生家は典型的な田舎の地主だが、この家は、言っちゃ悪いかも知れんが伝統も格式も無いものな、そんな習慣は持っていないか。

「どうぞ、暫く休んでてね。純太君と、さゆりのご飯作るから」

洋子さんの声が聞こえた。「ありがとう」と、俺は返した。取り敢えず、キャリーバッグから充電器を取り出して、ベッドに寝転がりながら、ベッドに付いたコンセントに繋げてスマートフォンを充電しておこう。俺の親と、叔父夫婦との取り決めで、光熱費や家で出される食費は叔父持ちだが、基本的に仕送りは無し、という事になっている。それは定期券代や家で食べるもの以外の食費も含めての話だ。厳しいのか、易しいのか、判断がつかないが、そうなるとバイトが必須になってくる。良い求人は無いだろうか、早速調べよう。検索、検索…。

調べれば数多くのバイトの求人情報が見付かった。それは良いのだが、俺に出来そうなバイト、向いてそうなバイトが無いな…。やれやれ、暫くは「進学祝い」と称して貰った五万円を、切り崩しながら生活する事になるか。それしか無いのかな。しかし、いつまでも保たない。学校に行きながら、探してみる事にするか。

部屋の外では、洋子さんとさゆりが話をしていた。「ねえ、折角だから、食べに行こうよ」とさゆりが言う。洋子さんは「初めての私の料理だから…」と返す。「だけどさ、四年限定とはいえ、新しい家族を迎える訳だよ。それなら食べに行った方が…」とさゆり。だが、洋子さんは「それは夜でも良いでしょ。じゃあ、夜に四人で食べに行こうよ」と言って、さゆりをねじ伏せる。「はあ…」と、さゆりの不機嫌な声が聞こえた。さゆりが俺の部屋へ入ってくる。

「何があったの?」

俺はさゆりに聞く。さゆりは「いや、何でも…」と言うのだが、その後に続けて「覚悟しておけよ。絶対に、正直な感想を吐き出すなよ」と忠言した。「何の事?」と俺が聞けば、さゆりは「まあ、すぐに分かるさ。その意味が」と、何か恐ろしい事が起こる前兆かの如く言った。さて、何の事やら。俺にはさっぱりだ。

その後、さゆりは自分の部屋に戻り、暫く時間が経つと、リビングルームの方から「できたよ。さゆり、純太君、おいで」という洋子さんの声が聞こえた。俺は「はい、今行く」と言ってリビングルームへ行き、テーブルに着いた。その時、さゆりの言葉の意味を理解する事になったのだ。

(な、何だこれは…)

俺は心の中で呟いた。テーブルの上の料理は、余りにも恐ろしい外見をしているのである。率直に言って、不味そう。ご飯、味噌汁、肉野菜炒めと、至ってシンプル且つ定番の構成なのだが、明らかに場違いなカレー用の成型肉が使われており、「ビチョビチョ」という擬音語がぴったりな程水分が多く、しかも野菜はもやしだけと言うどう考えても美味しくない肉野菜炒めと、更に酷いのは味噌汁で、謎の海藻のようなもの、肉の屑のようなものが浮かんでいる。これは不味そう、いや、絶対に不味い。だが、洋子さんが満面に笑みを浮かべて「さあ、どうぞ、召し上がれ」と言うのだもの、正直に「不味い」何ぞ言えっこない。

「いただきます」

さゆり、洋子さんと共に、俺は食事に手を付けた。まずは味噌汁から…。不味い!これはとても不味い!浮かんでいた肉の屑のようなもの、これが何かようやく理解した。鰹節だ。変に凝って鰹節から出汁を取ろうとしたのかは分からないが、直接味噌汁の中にぶち込んでいる。具として、豆腐が入っているのは良いのだが、これは普通の豆腐では無い。高野豆腐だ。碌に戻さないままぶち込んでいるようだ。そして、謎の海藻の正体はとさかのりだった。果たしてこれは味噌汁に入れるものなのか?肉野菜炒めも、見た目と何ら違わずビチョビチョで、味付けもただ野菜炒めのタレを大量に入れただけの、バランスも何も無い単調なもの。しかしどっさりと盛られているから、これを大量に食べさせられるのは最早拷問のようなものだ。

「どう?お味は?」

洋子さんが俺に感想を伺う。「不味い」何て、正直に言える訳が無いもの、精一杯のお世辞を込めて「斬新な味だね」と言う。そうすると、洋子さんは嬉しい顔をして「ありがとう」と言い、更に席を発ってIHの上に置いてあるフライパンを持って、野菜炒めを頼んでいないのにガンガン俺の皿に追加していく。

「さあ、一杯食べて。遠慮はいらないから」

洋子さんは言う。いや、いりません、やめてください。これ以上、食べたくないです。そう言いたいけれども、出来ないから、黙って食べるしかない。結局、完食せざるを得なかった。完食した時には、すっかり気分が悪くなっていた。俺は自分の部屋に戻って寝転がる。さゆりが来て、「私の言った事、理解できた?」と言った。「理解できたよ。料理が、不味すぎる…」と俺は言う。「あんなに料理下手なのに、自信満々だから参っちゃうんだよね、ママは。不味いって言うと怒るから、言わないようにしているけど」と、さゆりは愚痴を言う。「だから食べに行こう、って言っていた訳?」と俺が聞くと、さゆりは「そうだよ」と答えた。

「でも、これで免疫付けられたんじゃないの?ママの料理をこれから朝夕毎日食べさせられる事になるから、覚悟して」

さゆりは言う。「さゆりは、洋子さんの料理を回避しようとした事はある?」と俺は聞く。「えっとね、友達と一緒に外食したり、或いは自主勉強で図書館に行くから外で食べるって事で回避してるけど、小遣いの制約もあるし、ちょくちょく行く訳にもいかないから…。うちの高校、バイト禁止なんだよね」とさゆりは答える。「それは辛いな」と俺。「だけど、弁当は持たせないで、学食を食べさせる方針なんだよね。毎月、小遣いとは別に学食代を持たせられている。それでどれだけ救われているか…」と、本当にどうしようも無い愚痴をさゆりは言っていた。

「純太兄ちゃんはバイトやるんでしょ。どんなのをやるつもりなの?」

さゆりは聞く。「それが、まだ決めていない」と俺は答えた。「東京だと群馬と比べると格段に時給高いと思うけど、キツいバイトもあるから気を付けて」とさゆりは言う。「百も承知」と俺。「楽しい生活送れる事を祈るから。じゃあ」と言って、さゆりは自分の部屋へ戻った。

さてと、飯も食べた事だし、作業をするか。キャリーバッグの中身を、箪笥に仕舞ったり、机に置いたりする作業。キャリーバッグの中には膨大な数の服が入っている。高校の時の、一週間のアメリカ修学旅行で買った大きなキャリーバッグですら、パンパンになる程の詰め込み具合だ。夏服も、冬服も揃っていて、一々、箪笥の中に夏用と冬用に分けて仕舞っていく。部屋にはクローゼットもあるので、その中にコート類を干しておく。後は、本だ。僅かなスペースを見付けては詰めておいた本の数々。例えば、芥川龍之介の文庫本とか、岩波文庫の古典とか。高校時代にブックオフで毎週の様に買っていた本だ。部屋に本棚らしき物は無い。勉強机に一応、スペースがあるから置いておけるけど、俺のペースで本を買っていたら、すぐに一杯になってしまうな。バイトで金を貯めたら、本棚を買おう。それと、バイトで金が貯まったら買いたい物…。パソコンだな。スマホでもレポート等を書けない事は無いけど、やっぱりパソコンの方がやりやすいだろう。よし、本棚とパソコン…。買いたい物は山積みだ。

一通り作業を終えたら、俺はスマートフォンを使って、ゲームやSNSをして、時間を潰していった。そして時間は経つ。夕方になり、玄関が開く音が聞こえる。「ただいま」という声。俺は玄関まで迎えに行った。

「これからお世話になります。叔父さん」

俺は玄関の叔父に挨拶をした。「おお、純太君、こちらこそよろしく」と叔父は言った。叔父は靴を脱いで家に上がる。丁度、リビングルームを通りかかり、自分の部屋へと行く途中に、洋子さんが「あのさ、純太君を連れて食べに行かない?」と叔父に持ち掛けた。「良いね」と叔父は快諾。「でも、もう少し待ってくれ。まだ準備ができていない」と叔父は言う。「分かってる」と洋子さんは言う。この後、俺は少し待たされた。特に話とかは、しなかった。

暫くして、叔父が「準備ができたぞ、行こう」と言い出す。「はい」と俺は答える。俺、さゆり、叔父、洋子さん。四人で家から出て、エレベーターを降り、マンションの外へ出た。

「純太君、どういう系統の店が良い?」

洋子さんが俺に聞いてくる。「ちょっと待って、考えていなかったの?」と俺は困惑してしまう。「大体で良いから、どんな感じの店に行きたいか君に決めて欲しい」と叔父が言う。「それは家で聞いて欲しかった…」と俺。「ごめんね、考えに至らなかった」と洋子さん。「遠慮はしなくて良いからね、今日は特別。高い物でも大丈夫」と叔父が言う。

「イタリアンが良いかな」

俺は言う。「イタリアンか、『あそこ』に行こう」叔父が言う。「ああ『あそこ』か!」とさゆり。俺には何を言っているのかさっぱり分からないが、地元の人間には馴染みの店なのだろう。俺は三人の後を追って行く。埼京線の踏切を渡った向こうを少し歩く。そこは滝野川と呼ばれる地区。実はここ、板橋区では無く北区らしいのだが、俺には至極どうでも良い話だ。狭い路地を抜けて、板橋駅の滝野川口を通り過ぎていった所に、その店はあった。ここらでは有名なイタリアンのレストランらしい。店内に入り、四人の席に案内される。叔父と洋子さんが隣同士に座り、向かい合って俺とさゆりが隣同士で座る感じだ。

「さあ、好きな物を頼んでくれ。大盛りでも、何でも構わないぞ」

叔父が言う。「では、お言葉に甘えて」と、俺は大盛りのカルボナーラ、スープと飲み物のセットで飲み物はアイスコーヒーを頼んだ。隣のさゆりは大盛りのアラビアータ、スープと飲み物のセットでコーラ、更にカルパッチョ、ガーリックトーストを注文。滅茶苦茶大食いじゃねーか。こんな大食いで、よくあのスレンダーな身体を保っていられる。叔父はボンゴレとホットコーヒー、洋子さんはたらこ和風と紅茶を注文。この歳になると胃袋は小さくなるのだろう。さゆりは幾ら何でも大食い過ぎるが。そして、取り分けて食べる為のシーザーサラダも注文した。注文すれば、休む間もなく、手始めにスープ、サラダ、パスタと運び込まれてくる。

「純太君はさあ、大学で何を学びたいのだっけ」

洋子さんが俺に聞いてくる。俺は「芥川龍之介だね」と答えた。「芥川龍之介の、何が好きで?」と聞いてくる。「漠然と好きなんだけど、理由が自分でもよく分からない。だけど、その漠然と好き、の中身を解き明かせたなら良いな、と思って」と俺は答えた。「面白い事を言うねえ」と洋子さんは言う。

「あのさ、純太兄ちゃんの大学のある神保町は本の街として有名なんだけどさ」

さゆりが言う。俺は「それ位は知っているよ。古本屋が沢山あるって」と返す。それに対しさゆりは「古本屋以外にも大きな新刊の書店があるのは知ってる?」と聞き返す。「聞いた事はある」と俺は返す。「あそこに三日月堂書店というのがあって、とても品揃えが良いよ」とさゆりは言う。「何で知ってるの?」と俺は聞く。「友達の舞ちゃんと、よく行ってる。アキバへ行くついでに」とさゆりは言った。

「さゆりはな、オタクなんだよ。な」

叔父がやけに上機嫌な感じで言う。「うん」と、さゆりも一切否定をしない。「舞ちゃんは漫画家を目指しているんだ。絵が物凄く上手い」とさゆりは語る。「へぇ」と俺は頷く。「今、どんな漫画を描こうか、構想を練っているらしいよ」とさゆり。「高校生でも、漫画家になれるのか?」と俺が聞くと、さゆりは「なったケースは結構あるよ」と返した。

「まあ、兎に角、三日月堂書店、あそこは良い場所だから行ってみて」

さゆりは言う。「だけどさ、アマゾンで買えば良くない?」と、俺は身も蓋もない事を言ってしまった。だが、さゆりは「行ってみれば、書店の良さが分かると思う」と冷静な返しをした。「おお、それじゃあ、行ってみるかな」と俺は言う。「確か、東京文学大学のすぐ近くだったと思うから」とさゆりは言った。

「まあ、暇ができたら行こうか」

俺は言う。「是非とも行ってみて」とさゆりは言う。明後日から大学生活が始まるのだが、暫くはガイダンスとか、そう言うものばかりで、講義は無い。大体、講義が始まったくらいのタイミング、そこで行こうか。俺はそう思った。

とても美味しいイタリアンに舌鼓を打ち、全ての料理を食べ終えた所で、俺は叔父一家の三人と共に帰る事になった。レジで会計している金額がえげつなかったのだが、俺には何ら関係の無い話だった。何せ、払うのは叔父だから。家に戻ったら、その直後に、俺のスマートフォンに電話が掛かってきた。母からだ。俺は電話に応答する。

「もしもし」

俺は言う。「もしもし、純太」と母。「何?」と俺は返す。

「そっちの生活には、もう慣れた?」

一日目で慣れたも何も無いだろ。「ちょっと、母さん、まだ一日目だよ」と、俺が正論を言うと、母は「慣れてないの?」と言ってきた。「だから、一日目で慣れるも慣れないも無いでしょ。まだまだこれからなんだから」と俺は言う。「だから、慣れたか慣れてないかって聞いている訳」と母。話が全然通じていない。「慣れてないよ」と俺は言う。「早く慣れなよ」と母。うるせえな、全く。放っておいてくれ。

「さゆりちゃんとは仲良くなれた?」

母が言う。さゆりは母の姪に当たる存在だから、気になるのだろうな。「まあ、なれたな。最初の方は、ちょっと怒らせちゃったけど」と俺は言う。「怒らせちゃったって、どんな風に?」と母。「赤羽駅で迷子になったりとか…」と俺は言った。「もしかして、迷子になって、赤羽駅に迎えに来て貰ったの?」と母は言う。「まあ、そう言う事…」と俺。「馬鹿じゃないの。さゆりちゃんに謝りなよ」と半ばキレ気味に母は言う。「もう謝った」と俺は返す。「まあ、大丈夫ね」と母が言う。

「ちゃんとバイトしなよ。取り敢えず教科書と今月分の定期は祝い金から買えば良いけど、それ以後は鐚一文出さないよ」

母が俺にキツく言う。「分かっている。ちゃんとバイト見付けるから」と俺は言う。

「はい、分かった。友達できると良いね。後、彼女も」

母が言う。「はーいよ、分かった。はいはい」と、面倒臭くて早く母との通話を終わらせたい俺は言う。「じゃあ、頑張れよ」と母が最後に激励なのか何なのか分からない言葉を発し、通話は終わった。通話を終えた俺は、大学から配布された資料を確認し、改めてスケジュールを頭に入れた。明後日にガイダンスだ。その後、履修登録やら教科書販売やら、諸々の行事が行われる。俺の大学生活が、正しく始まろうとしていたのだ。

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