エッセイ「普通に考えてみると(一)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(一)



                            百神井応身


一. グレーゾーン


 黒白・正邪・美醜・明暗・プラスマイナス等々、二律背反するものは数多い。

決着をつけねばならないものが無いとは言わないが、敢えてそれをしないことで、収まりがつくものが人間社会には沢山ある。

 いわゆる“グレ-ゾーン”というか、“ひとまず”というか“”とりあえず“というか

”さしあたり“というかの世界を認めることでそれは成り立つ。

そこは、考えてみれば宝の山なのだと言えるのではなかろうか。

 眦を決して主張することで争うのは、決して望ましい結果を現出できない。


 ことに世の夫婦というのを見ていると、絵にかいたような鴛鴦夫婦というのは、無いとは言わぬまでも殆どないに等しいように思えてならない。グレーゾーンで取り敢えず収まっているだけのことであって、少なからず問題を抱えていて普通なのではなかろうか。

 どちらかが我慢しているのだというが、我慢だけで続く筈もないのである。

 妻の側は「それは私が我慢しているからだ」というかも知れないが、そうだとは言いきれまい。

 何故かというと、男が限界を感じて家を出てしまったら、それで終わりという事の方がどうも多いように思えるからである。

 哺乳類は、雄が育児に関わるのは3パーセントだという。男は外に出ていてまず家庭内にはいないことが多い。それでも、子供が育つまでは、夫婦仲が冷えることは滅多にない。

 無意識のうちではあっても、仕事を分担しているのだという認識がある。即ち、相手の価値を認めることができているということになる。

 大抵の夫婦は、男が生活の糧を得る、女が家庭を守る、ということになっているのが一般的であろうが、その分担を二人で納得して始めたということではなく、何となくそうなったというに過ぎないのかも知れないが、そこには思いやりと労りあいがある。

 外に出れば、自分の思い通りに事が運ばないのは言うまでもないことで、理不尽ではあっても膝を屈して我慢することになるのは枚挙に暇あるまい。正義であるとか合理的であるとだけが判断基準となるわけではない世界に身を置けば、いわゆる弱者の立場となる者が我慢を強いられる。泣き言を言っていては物事は一つも決まらないから、何とか折り合いをつけて仕事になるというのが殆どであろう。

 その気分を顔に出したまま家に帰れば家族は心配する。なんとかやり過ごして、努めて明るい顔を取り戻して家に戻るのであるが、家族は解かってくれていると思うのが間違いの始まりである。そんなことは解ってくれる筈もない。

 一方奥さんの側も、一人で奮闘している。何もかも一人で切り盛りするのは大変なのである。そのうちに「私がこんなに一生懸命やっているのに誰もわかってくれない」という不満が芽生える。

 このようにして、お互いが互いのことを解ってくれないとしてしまうのだというが、本当に何も理解してないのだろうか?

 そんなことはあるまい。解っていてもそれを伝えることも感謝していることも、表現することに不器用なだけではないのか?ただ、時の経過は、違うものを作り出してしまう。

 不平や不満は実態より増大されて記憶されるからである。常に思っていて忘れないから、そこに箸の上げ下ろしまで一一気に食わない不快なものとして加わり、より強く脳内でリンクされることで、強固な怪物となって膨大なエリアを占めるようになる。

 記憶というのは繰り返されることで忘れがたいものとなり、それが瞬時に思い出すことができるから記憶なのである。

 それはそうである。どんなに好き合って一緒になったのだとしても、もともとは赤の他人である。自分が正義だとして相手をそれに反するものと見るようになったら、修復は難しくなる。

 ここからが問題である。

 日常の会話をするときに、穏やかな言葉を使っていられるうちはいいのだが、やがて段々に棘を含んだ言い回しに変わっていく。

「そんな言い方をしなくたっていいではないか」と相手が言っているうちは、相手が我慢してくれているので許容範囲であり、まだ何とかなる。

 優しい言い方は難しいとしても、毒を含まない言葉でゆっくり話すように心がける。

 これだけでも、世の中かなりうまくまわるようになる。

 早口を避けるのは、それはえてして切り口上になるからである。

 感情的な言葉のやり取りで腹の虫がおさまることはまずない。それを発した人に与えるダメージの方が大きい。

 この段階で気づくことができればよいのだが、感情にまかせて歯止めがきかなくなり、売り言葉に買い言葉の応酬になって、決定的に相手を傷つける言葉を口にしたとき、取り返しがつかなくなる。

 言葉には魂が籠っている。荒い波動の言葉を使っていると、荒い波動を持った不幸を自ら呼び寄せてしまうのである。残念ながら、それを選んだ責任は自分である。

 相手に完璧さを求めることができるほど、自分は完璧なのだろうか?

 程々のところで手を打つことで人間社会はなりたっているのである。

 ひとまずこんなところか、と一息入れて振り返ってみれば、いいことだって沢山あったのだと思い出すことができ、自分自身が救われるのではなかろうか。



二. あの人はいい人だ


 「あの人はいい人だ」というのは、どんな人なのだろう。

 善人のことばかりを「いい人」だと言うのではないようである。

 つきつめれば、それは「自分にとって良い人」ということであるから、人から聞いた「良い人」というのが、誰にとってもいい人だとは限らない。

 ただ、確かに言えるのは「いい人」と言われる人は、人の言うことを聞くのがうまい。

 言うことを聞くといっても、いいなりになるということではなく、話を聞いてくれるという意味です。相槌をうったり頷いたり真剣に聞いているということを相手にわからせる。

 自分のことばかりを言う人は嫌われ、人の話を6~7割は聞く人が好かれる。

 営業の達人は皆、聞き上手だという。



三.美しい言葉遣い


 日本語には地方によって訛と呼ばれるものがあって、そこで育つと後からではなかなか治せない発音というのがあるが、言葉遣いそのものは、直さなくても良いと思う。何とも言えず丁寧で温かく、柔らかい言い回しが多いのである。

 東京の下町にも、浅草の旦那衆が自然に会話の中で使っている言葉がある。本人たちは気づかずに使っているのかも知れないが、それも親しみを感じさせる。

 言葉の持つ波動というのは柔らかい方が良い。荒い言葉を使っていると、殺伐としてものを周りに引き寄せてしまう。


 大好きな女優さんの一人であったオードリー・ヘップバーンさんが亡くなったとき、エリザベス・テーラーさんが「神様は、また美しい天使をひとり手に入れた」と、突然コメントを求められて即座に答えたというが、流石一流の方は違うと感銘を受けた。美しい言葉遣いができるのは全人格的なものが出るのだと信じている。


 イギリスでは、使う言葉によって、出身階層まで知れてしまうのだという。

「マイフェアレディー」というのも、その言葉のニュアンスを題材にした素敵な映画でした。

 スペインの雨は、主に広野に降る。これをひたすら繰り返して練習する場面がありました。

 有名な言語学者「ヒギンズ教授」は「ピッカリング大佐」を相手に、「訛だらけの貧しい下町娘でも、教育次第では立派な上流階級のエレガントなレディーに仕立てる事が出来る」と持論を披露し、それによって二人が賭をすることになる。

 イギリスでは、身分階級ごとに言葉が違っていて、どんなに隠しても話しているのを聞くだけで出身が判ってしまうといわれているから成り立った賭であった。


 この賭の「実験材料」に選ばれたのが、「コベント・ガーデン」の貧しい花売り娘「イライザ」でありました。

 彼女には激しい「コックニー訛」があったのであります。

 Hが発音できないから、ヘレン・ヒギンズ教授はエレン・イギンズとなってしまう。

 ロンドンの下町言葉「コックニー訛」は、「二重母音」が上手く発音できず「ei」と発音すべきところが「ai」となってしまう特徴を持っています。

 つまり「rain」を正しく「レイン」と発音出来ず、「ライン」と訛ってしまうのです。

 日本語で言えば、「鮨=すし」が「すす」、「江戸」が「井戸」と訛ってしまう様なモノでしょうか。


 マイフェアレディーの表題も、実は「Mayfair Lady」つまり「ロンドンの高級住宅街メイフェアに住む淑女」が「コックニー訛」によって訛って「マイ・フェア・レディ」になってしまったと言う、実に気のきいた洒落たタイトルなのでありました。

 オードリー・ヘップバーンは、忘れようもなく美しい女優さんでした。


 勿論、日本女性の美しさは言うまでもなく一歩も引けを取らないい。

 美容整形をしなくても化粧をしなくても、美人というのが揃っている。

 年頃に限らず年配になっても、内からにじみ出てくることで出来上がった顔は、いろんな経験を昇華し、その上で使われる言葉の優しさまで備えているから無敵である。


 どうでもいいが、ある国では美容整形をしすぎて、誰の顔も区別できないほどになっているらしい。彼らが大事だと思っている儒教では、「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始め也」という教えはどこへやら、上っ面の美に走る。真の美から乖離してしまってはどうにもならない。

 顔は、男女に限らず、全人格的なものが作り上げるものなのだから、内面を高めるために努力するのだと思うけれど、それにも増して普段使う言葉や立ち居振る舞いは、磨き上げられて「様=さま」になる。それが美しいものとなって周りに伝わるのである。



四. それ聞いた


 何かを話しかけられたとき、「それ前に聞いた」とか「それ知っている」と言下に遮って、後を聞かない人というのがいます。

 確かに同じことを何度も聞かされるのや、知っていることを教えてもらっても、煩わしいことであることは事実でありましょう。

 でも、これをいつも言っている人のところには、段々に新しい情報が入って来ないようになります。

「もう話したことがあるかも知れない」「どうせこんなことは知っているだろうから」と、周りの人は思うようになるからです。

 そうしているうちに、大事なことも知らされなくなってしまうのです。

 そうなったときに言う決まり言葉は、「それ聞いてない」とか「なんで報告しないんだ」という怒りを伴ったものになる。

 そんなことはないのです。自分が聞こうとしなかった結果なのです。

 何度も聞いたとしても、少しずつその話に関連する情報はつけ加わりもあって詳しくなるのだから、疎かにしないということが大切なのだと思う。


 もうひとつ大事なことがあります。

 年寄りが何度も同じ話をしてくるのを「それは前に聞いた」「何度も聞いた」というように対応していると、段々話しかけてくることが減って行き、話をすることがなくなって黙り込んでしまうようになります。

 それがボケにも繋がってしまう一因なのだという。   

 面倒くさがらず聞いてあげるのも大事なことのようです。大した手間ではありません。



五. 貪る


「自分の欲望を際限なく満たしたい」という思いと、それを基にした行動を合わせて「貪る」と言う。

 もっと欲しい、もっとしたいなどの「もっと」がいつまでも際限なく続く状態というのは、どんなに手に入れても満足することがないのだから止まるということを知らない。

 それは得てして他者との比較になり、少しでも周りの権力者より多くの金や名誉を手にして、自分の力の強大さを誇示しようとするから争いの基にもなる。

 それをしたら、いついかなる時も心が休まることはない。

 心とは即ち意識のこと。生きていれば「嫌だな」とか「辛いな」などと思うことが少なからずある。「苦しみ」の気持ちは、特に「思い通りにならない」時に感じることが多い。

「諦める=明らかに物事を見る」ことが必要になってくるのだが、何を明らかにするのかが解ってこなければ、苦しみと恨みが残る。

 原因が「自分の欲」なのであれば、難しくはあっても自分自身でどうにかすることができる。

 人間の「~したい」や「~になりたい」などの欲求そのものは、生きる原動力として大切なものであり得るが、それが必要以上の限りない欲望になれば、常に満足できない状態となる。

 すべての人が無限の欲望を持って「むさぼる」ことをしたら、結果的に誰もが穏やかな気持ちでいられなくなる。極論すれば、周りは全て敵ということと同義になる。

「自分だけが大事」という考え方は、逆説的には自分を苦しめることにもなっている。自分が自分を大事だと思うことは周りの全ての人たちも等しくそう思っている。

 こんな単純なことにもなかなか意識が向かないのだから、争いの種は尽きない。

 起きて半畳、寝て一畳とまでは言わないが、必要以上に求めるのは程々にした方がよさそうです。

 ロシアの童話に『金の魚』というのがある。

 昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、漁師であるお爺さんの網に小さな金の魚がかかりました。

 家に持って帰ろうとしたところ、魚は「何でも願いを叶えてやるから逃がして下さい」と頼んだ。無欲のお爺さんは、願い事を何一つすることなく、魚の頼みを聞きいれて海にその小さな金の肴を逃がしてやった。

 家に帰ってそのことをお婆さんに話すと、ただで魚を逃がしたお爺さんのことをひどく怒り、魚のところに戻ってパンをくれるように願いごとをしてこいと申しつけた。

 お爺さんは仕方なく海に行き、魚にパンを頼んで帰ってきた。

 すると、なんと家には本当にパンがあった。

 味をしめたお婆さんは、次には桶、綺麗な着物、更には新しい御殿と次々に要求を募らせ、お爺さんを魚の所に行かせた。

 お婆さんは女王になりたいと言いだし、ついには「神になりたい」とまで言い放つに至った。

 それをお爺さんが頼みに行くと、魚は黙ったまま暗い海の中に消えた。

 家に戻ってみると、御殿は消え失せて元の粗末な家になり、お婆さんは元のボロを着て座っていた。金の魚は二度と網にかかることはなかった。



六. 神様が導く先


 神様はいると信じているが、宗教というものについて研究したことがないから、宗教の唱える神のことではなく、ただ単純に考えてのことです。

 世界にはいろんな神様がいて、それぞれに信じられていることは十分解かる。

 人が信じていることにとやかく言ってみても始まらない。決して合意には至らない。

 その神様たちが理想とし、その神様の信者が信じる人の幸せというものはどういうものなのか、ということになるとどうも解らない。それらの神様たちの共通項というのはないのだろうか?

 もしそれがあるとしたら、それは山に喩えたら頂上ということになる。

 そうだとしたら、頂きを極めるためには、たった一つのルートしか存在しないということはない。

 他のルートで登ることは怪しからぬというのなら、その根拠というものがなくてはならないが、果たしてそれはあるのだろうか?

 それは争ってまで一つに統一しなければならないものなのだろうか?宗教戦争が未だに絶えないことを見ると、何とも救われない気になる。

 登る難しさに差はあるにしても、AルートでもBルートでもCルートでも、どの道を辿ってもよかろう。楽な道を選ばねばならぬということはない。


 仮令頂上まで行きつけなかったとしても、至ることのできた地点までにでも幸せはある。

 他のルートを全否定するという一神教の考え方というのは、争いごとを引き起こし、新たな不幸を産むのではないのか?

 素人だから、そう思うのだけのことかも知れないけれど・・・


 幸せを求める筈のものが、神様が違うことで敵同士となるというのが理解し難い。

 同じ神様を信じるのにも、宗派が違えば同様に争いになるというのも変な話しである。


 日本のように八百万の神様がいて、外国から伝来した神様も等しく取り入れて同化し、その良い所を認め合って神様として敬うというのが一番良いと思うのだが・・・

 教条的になりすぎて殺し合うことを、神様はお望みではあるまい。と考えるのが無宗教ということなのだろうか?



七.縦のつながり


 近年、絆ということが見直されてきていて、良いことだと思います。

 絆という字は、糸偏に半分と書きます。語源は、布地の形成にあると言われています。

 縦糸と横糸の結びつきが緩ければ、丈夫な布地はできない。

 横のつながりとしての友達や同級生や同僚との付き合いは大事にするのだけれど、縦の繫がりである親子や先祖、上司や先輩ということになると、敬遠しているように見えてならないことが多い。

 縦から連綿としてつながってきている愛情や知恵には、もっと心を開いて近づいた方が良いのではなかろうか。

 もういない先祖のことを思ったってしょうがないと言うかも知れないが、それがそうでもない。今ある自分は、先祖や親があってのことだが、「生んでくれと頼んだわけではない」などと言うのは違うようなのです。

 この世に生まれてくるのは、どうやら「この両親の間に生まれさせて下さい」と、自分が頼んで生まれてきたのだと解っている人が沢山いるようなのです。

 何も教訓じみたことを言うつもりはないが、いずれにしても、親や先祖を大切にしている人は、周りから自然に信頼されるようです。



八. この世の苦悩は


 この世の中の苦悩は、原因が結果として現れるときの姿なのだという。

 因は、自分が物ごころついてからのものとは限らず、前世のものまで含むのだというから大変なのだが、形として現れれば必ず消えるものだともいう。

 表れれば消えるとはいうものの、目の前の苦悩は消えて終わりだと思えないところに人間の苦しみがある。

 消えると信じきれればよいのだが、すぐには消えてしまわない。そればかりか、その苦悩を改めて掴み直してしまい、また新たな苦しみの因としてしまうのが常です。

「これで終わり」と思えないときは、塩を一掴み豆まきの要領と同じく、外に向かって投げつけるというのも一つの方法であるという。

 苦しい時の神頼み。これってやってみると意外にスッキリする。



九. せっかくの気づきが


 気づきというのは、最初はとても小さい形でやってくる。

 些細なことのように思えても、すぐやってみるのが大事なことのようです。それはワラシベ長者のお話と同じで、とっかかりは簡単なことから始まるようです。


 もうひとつ大事なのが、後でやってみようと思っても、それでは効かないということ。

 気づかせの神様は「あ コイツやる気がないな」ということで、折角の気づきを忘れさせてしまうようです。

 神社参拝や墓参など、心霊の世界に近づくことをやってしばらくすると、突然心に囁いてくることがあるのに気付くことがあります。

 いずれにせよ何事にも、やったことの結果や効果がついてくるのが普通です。

「どこそこに行きなさい」とか「何々を食べなさい」とか、いたって簡単にできることであることが多いので、さして気にも留めず、そのまま過ぎてしまう。

 それが何を意味するのであるのかは、その時に解らないけれど、後になって解るので、大して負担になるようなことではないなら、とりあえず素直にそれを聞いてそのように実行していると、次々に段々大事なことを伝えてくることが多くなるようです。

 気づくのか、聞く気があるのかが試されているかのようです。

 最初のとっかかりはいつも小さいが、それをやるかどうかということが大きい。



十. 因果応報


 おどろおどろしいタイトルですが、今日は、少しお勉強です。

 因縁とか因果とは、よく口にされますが、業というのもよく言われます。

 しかし、意味がわかって使っている人は殆どいないのではないかと思われます。


 業とは、いうなれば「行為の結果生じた記憶のかたまり」ともいうべきもので、過去世から現在に至るまでの経験が、意識下無意識下に蓄えられたもの。

 圧倒的に無意識下のものが多いのですが、これら大量の業は、根底の意識に一つ残らず記憶されているのだと言われています。

 記憶の仕組みは、因縁によるものに他ならず、因(原因)・縁(環境)・果(結果)の連鎖に従って現象というのが起ります。

 因果というと、親の因果が子に報いなどのように、過去のあやまてる想念が苦悩となって現れることの方に多く使われますが、原因が環境を得て結果を齎すということであれば、善因による善果ということだって当然のことながら在るわけで、善縁に巡り会い縁を得て善果を得ることだってある筈です。ツキというのは、そんなあたりの現れかも知れません。

 善縁(良い環境)というのは、何もしないでいて触れることができるわけではなく、身を浄めたり感謝をしたりなどなど、我が身ひとつだけではないことに気づかなくてはならないと思うのであります。



十一.君子豹変


 君子とは、立派な人徳やすぐれた知識・教養を身につけた理想的な 人ということであろうが、君子危うきに近寄らずということの使い方として、危険なことを避けるときの臆病さの言い訳としていることが多いようです。


 君子というのは徳に欠けるような行いに加担するようなことや、明らかに危険とわかることには敢えて近づかないようにするということが、君子危うきに近寄らずということのそもそもの意味であると思います。


 しかし、最近は君子とも思えない人が平気で約束を破って豹変する事例の方が多いように思います。



十二.光と影


 そもそもが万物は、陰と陽、プラスとマイナスがセットで成り立っている。そんなことは頭では解っているのに、いろんな事象に出会うと、悩み事が起こる。


 ついていない、うまくいかない、悲しい、つらい・・・

 どうしてあの人は美しいのに私は醜いのだろう、どうしてあの人はお金持ちなのに私は貧しいのだろう・・・きりがなくそれらは自らを苛む。


 これって、他人と比べるからそう思うのかもしれない。自分にだっていいところは一杯あるし楽しいこと嬉しいことも沢山ある。

 そんな風に思い返してみても、なかなか納得できない。

 自らが努力することなく高望みするのは論外だとしても、努力に結果が見合わないことに悶々とするわけであります。

 目標を立てることはするが、そこに達していないから目標というのは成り立つし、~になりたいと思うのも、そこに至っていないからということでは一緒です。

 よく、完成した理想状態をイメージするのが良いというが、世の中そんなに簡単ではない。どちらかといえば、望みもしない嫌なことの方が先に起こりがちであります。

 こんなとき、こんな厭なことがあったのだから、これに匹敵するいいことが必ず有る筈だと信じて、一時的でもよいから、今トラワレている思いを解放してみるのが良いようです。

 トラワレから抜け出てみると軽やかです。

 うまく行っているときの状態というのは、トラワレというものがない。

 こんなときに悪想念を抱くのは絶対やめた方がいい。悪想念のエネルギーは強烈だから、それは自分にとって一番望ましくない時に最悪の結果として戻ってくる。

 意識しないでいるときというのは、意外に物事が順調に運んでいるというのは真理であるから、それに乗る工夫をしてみると、楽しく過ごせる。



十三.自分が決めた通りになる


 数人の仲間と一緒に、琵琶湖の外周275㎞の約半分を廻り、三井寺・石山寺・日吉大社・竹生島を訪ねた。

 ガイドさんにも恵まれ、暑い中ではあったが楽しい旅となった。

 問わず語りに彼が言うのに、10年ほど前に脳梗塞で倒れ3年余りの闘病生活をしたが、こうして元気になったという話を聞き、同行者全員が喝采した。

 医者は、奇跡だと言っているらしい。車椅子で一生過ごすことになるであろう予測に耐えられず妻も去ったのだとか。

 絶対立ち直るのだと意を決して辛いリハビリに励み、車椅子から両松葉杖、片方だけの松葉杖へと回復し、歩くことができるようになったときの嬉しさも話してくれた。

 身障者の証書も全て返納し、こうして働けることを感謝しているとも。


 神社巡りをしていたことからご利益の話題になったとき、私が友人知人の病気見舞いに行くときに重病患者に必ずいう言葉「人間は、自分が決めた通りのものになるのだから、絶対言ってはならない言葉がある。それは、俺はもう駄目だという言葉。口に出したら、それは自分が決めたのだから必ずそうなってしまう。口が裂けても言わないように」と見舞い代わりに励ますのだと話したのを聞いて、ガイドさんが「そうです」と自分の体験を話してくれたのでした。

 

 自分が口にしたときに一番強烈な反応を起こす言葉というのは「ああ俺もう駄目だ」である。

 これだけは、必ず自分の思い通りの結果を招く。

 どういうわけか、大病を患い気弱になると、何年も音信不通だった友人から電話がかかってくることが多い。連絡があれば見舞いには行く。

「俺はお助け爺さんではないんだぞ」と言って、何か私に治癒エネルギーがあるやに思っているらしい友人に声をかける。見舞いの言葉は上記の通りである。

 約束を守った友人は第四ステージからでも一旦は立ち直って、その後何年かは穏やかに生きた人が多い。

 自分が決めることというのは、凄いものがあるのだと思えてならない。



十四.親の意見とナスビの花


 親の意見とナスビの花は、千に一つも無駄がないと言われるが、ナスだって栄養分がないと花は咲いても結実しない。実を結んでも大きくは育たない。

 親の意見における栄養って何なのだろう?

 自らの人格を高め信念をもって損得抜きで子を教え導くということは勿論であろうが、つまるところは責任をとるという姿勢なのだと思う。

 子が可愛くない親はいないし、子によかれと思ってやることが殆どなのであろうが、どこかで間違って、それを責められることはある。

 確かに無思慮と思えるものや、短絡的な暴力の行使であれば責められても仕方ないが、教育書の知識やらによるだけの人や、識者といわれる人がよってたかってとやかくいうことに引きずられ過ぎのような場面もよく見る。

 正義の味方?が、自分だってできもしないことを、次々無責任に言い立てていないだろうか。

 

 理論立てて一見正当性がありそうに思えることであっても、全部が全部それに当て嵌るようなものはない。個々に渡って判断しなくてはならないことは当然ある。

 何故なら、親は真剣だったのであり、責任を取るのである。

 教育論だって、極論すれば断片的で一過性の側面はあるのである。

 偉そうなことを言う識者の意見に違和感を覚えることは、誰にだってあるのではなかろうか。言うだけ番長であって、責任を取れる立場にはいない。


 自分で真剣に考えたのではなく他人の意見の受け売りをしている人はすぐに見破れる。

 淀みなく滔々と早口で喋る。人は考えながらだと、早口では喋れない。

 受け売りの主張というのは、まともな質問や改善案に対して譲歩することができず、教条的な正義を主張するだけのことが多い。

 相手の話をよく聞いて、折り合いをつけられることだって立派な教育である。

 なぜなら、相手にも正義はあるし、認めなければならない主張だってあるのである。

 ちょっと有名になった人の教育論があると妄信してしまって、それに反するものを頭から否定するのでは、真実には近づけない。

 一時の感情からではなく子のためを思ってしたことであれば、いずれその真意は理解されることが多いし、より現実的に活用できるものにさえなりうる。子自身がそれを理解して受け入れていることだってある。それを外から見て我慢だときめつけられるだろうか?

 よく聞いて全体像を捉えないで非難すると、角を矯めるだけになりかねない。

 それをする人は、大抵の場合責任をとることがない。

 先生もそうだが、まわりの顔色を窺っての行動が、子供に信念のなさと不勉強を見透かされているのかも知れない。

 そうは言っても、子は親だけで育てるものではないから、教育現場や子を保護し支援する組織に携わる人たちには、もっと権限を与えるべきであろう。そうしてこそ責任感も醸成される。

 子供たちが目標とする大人になっていないことを先ず愧ずべきであって、他人を責め立てることで目立とうとしているのは違うのだと思う。



十五.快い反応は得られない


 人との接し方において、自分の望むような結果をその場で得られることは稀です。

 不満に思ったり、それが高じて悪口を言ってしまうと、運は必ず逃げてしまうようです。

 放っておいても周りが気を使って、こちらの気分がよくなるような段階には、まだ自分が至っていないのだということです。

 それが解れば、自分の実力を蓄える時期なのだということがわかるし、嫌なことがあった後にはそれに倍する良いことがあるのだという期待も持てます。

 むしろ、まわりからちやほやされるようになった時の方が、自分を律することの難しさがありそうです。

 自分が認められたいというのは誰もが持っている欲望なのであろうが、自分が主張しなくても周りが寄ってくるくらいの人たちは、それまでに途轍もない努力をした人たちなのだと理解すると、自分が認められないことに対する不満からは抜け出すことができる。



十六.叶うという字


 人は、オギャーと息を吐いてこの世に生れ出て、最後はスーと息を吸って引き取ります。

 生ある間が恵まれた人もいれば、不遇のうちに終わる人もいて様々ですが、運不運の境目はどこにあるのでしょうか。

 呼吸というくらいですから、順番は吐く吸うということになりますが、何事にもゆっくり深い呼吸が大切だといわれます。

 吸うのは綺麗でエネルギーに満ちた空気が良いことは解りますし、吐くのは体に溜まった毒素を出すということではありますが、出すものの中に言葉というものがあります。

 口から+-を出すのが吐くということだとしたら、-を出さなければ叶うという字になる。

 口から良い言葉を出すことを言祝ぐ(ことほぐ)といいますが、運の良い人たちは、プラスの楽しいことを口から発していることが多いように見えます。

 類は類をもって集まる。良い運が寄って来る元なのではなかろうか。



十七.後ろへの配慮


 人通りの多い道を仲間と並んでノタノタ歩く。酷いのとなると携帯電話のメールをしながら歩くので、危なくてしょうがない。かなり麻痺したジン達なのかと思えばさにあらず。

 こんなヤカラを見るのは、ニチジョウチャメシゴト。お茶目じゃなくて茶飯事(さはんじ)。


 駅でもそうだが、券売機に並んでいて順番待ちしているうちに用意しておけばよいものを、自分の順番になってから料金表を見て、それからバッグの中をガサゴソ探して財布を取り出し、不器用な指で小銭を1枚ずつ取り出し・・・

 エエイ、腹が立つ。

 人様に迷惑をかけないように気を付けるのが、日本人の美徳なんじゃないのか!


 改札口でも、モタモタする幼い子供にキップを投入させ、子供の自立のためだとかホザク馬鹿親がいるが、空いているときならまだしも、混雑時はマナー優先だろうが!

 こんな親に育てられた子は、バランスとか判断力が欠落し、自分の都合でしか物ができない人に迷惑をかけて平気な大人になって、害毒を周辺にまき散らすに決まっている。

 彼らの口癖は、自分勝手な「権利」。「義務」の方はどうした!

 メイジは遠くなりにけりです。



十八.折り合いをどこでつける


 命というのを前面に出されたら、それに対抗できる論というのは多分出てこない。

 電力を安定的とまではいかなくても、最小限確保するには一体どのようにするのが良いのだろうか。

 人は、何かを得るために何かと折り合いをつけて我慢する。どの位までが許容範囲となるかは人それぞれである。

 何もしないで好きなことだけやってはいられないから、生活のために体を使ったり、頭を使ったり、時間を使う。

 即ち働いて対価を得るということでは、ある意味の我慢をする。

 電気というものは、一体どれくらいの不足まで我慢することができるのだろうか。

 電気の利便性に慣れきっている人たちが、電気のない不便さがどのくらいのものか考えたことがあるか疑問に思える。

 一気に後進国なみの生活になることを厭わないというなら別であるが、自分はその恩恵に浴したままでいることを前提にして、不備ばかりを責めるような意見をTVでいう人たちを見ると何か一方的に見えて仕方がなかった。

 原発事故があった後の時期である。原発に頼らずに済めばそれに越したことはない。

 しかし、原発廃止を唱える人たちが電力不足に耐える姿勢を見せたことは周りには一人もいなかった。

 原発がなくては電力が不足すると供給側は言い、反対する人はそんなことはない、有るという。どちらが本当なのか根拠が示されないから皆目わからない。

 原発を廃止したら、そこで働いて生活の糧を得ている地方の方々のことはどうするというのだろうか。そのことに触れる人はいなかった。

 原発の危険性を前面にして、命ということを楯にされたら抗しようがないから、議論に加えることはタブーだったのかも知れない。


 命・利便性・経済・料金・地方及び国の発展性・安全性をどう担保するか・代替できる設備ができるまでの期間がどれ位必要かなどなど、視点は限りなく多かった。

 それらをどう考え、どう折り合いをつけるのがよいのかという総合的な意見を述べる人は表れなかった。事故のない原発を作るという意見は一笑に付された。

 原発に限らず基地問題等々、折り合いをつけねばならないことは山積している。 他人の責任任せにせず、普段から自分で考えていなくてはならないことは多い。



十九.頼みごとが下手だと


 自分の周りにいる人たちのことを、「気が利かない」と怒っている人がよくいます。

 こういう人たちは、大抵の場合本人の能力が高いかというと、そうとばかりは言えない。

 似たり寄ったりである。

 しかし、気を利かして欲しいと思っていることの大半は、本人からみてどうかということであって、他の人は違うことを考えていても不思議はない。

 人にはそれぞれ持って生まれた資質に沿って、得手不得手というのがあって、それはそれで社会のバランスが取れるようになっている。

 気が利かないと怒っている人は、実は頼み方が下手なことが多い。

「こうして欲しい」と丁寧に口にすれば、気持ちよくやってもらえることが殆どである。

 怒りの波動は、本人にとっても体を痛める結果を招き不幸だが、周りの人も寄り付かなくなってくるから、よいことではない。

 性格的な持ち味は生まれついてのものであり、それに優劣はないのだということにお互いが思いを致すことができないと、ぎくしゃくしたものが溜まりやすいから、配慮というのが大切になる。持って生き方を工夫するのは自分なのである。



二十.テレビコマーシャル


 テレビのコマーシャルは、番組を無料で提供してくれることを思えば、無くせとは言えない。

 しかし、CMの後にCMの前に放映していた部分を繰り返すのはイタダケナイ。

変にわざとらしく引っ張るのが鼻につくのも多い。

 それが嫌で、録画しておいてCMの部分を飛ばして見るという人が多くなっているとも聞くから、番組の構成を一考してみる必要があるのではないだろうか。

 コマーシャルの時間はトイレタイムだと決めている人も多い。

 折角いろいろ考えて作り出したコマーシャルが、殆ど見られていないとしたら、残念ではないか。

 ラジオの簡潔さが見直されて、TVではなくラジオにシフトしている人が増えてもいるらしい。



二十一.花一輪


 昭和30年代は、決して物質的には豊かでなかったけれど、心の豊かさは確かにあった。

 庇いあい助け合い、我がことのみでなくまわりを思いやることがたくまずしてでき、芯に優しさがあった。

 苛めはあったが陰湿なものはなかったし、先生や大人に力があった。先生に力がなくなってしまったのは、どうしてなのだろう?

 子供の権利ばかりが主張されすぎていないだろうか。

 戦後、否定したのか無視したのか目を逸らしてしまったのか知らぬが、永く培われてきた精神的文化が、いつの間にか損なわれてきているように思える。


 昨年2週間ほどかけて、留学先から帰国することになった倅がお世話になったところを訪ねて廻ったが、行く先々の知人や、生活の必要上できた八百屋・肉屋・花屋・チョコレート屋さんなどなど、いかに日本人である息子が信頼関係を持たれ大事にされていたかがわかった。

 彼が言うのに、「あの人はいい人だから会うといいよ」と紹介された相手は、実に日本人的な発想をする人たちばかりだったと。

 彼らが認めるいい人というのが、皆そうだったのだと。

 そうして交流が広がった。基本的に、日本人は外国人に好かれている。

 海外に出て、自分は日本人として生まれて良かったと迷わず言う。


 私は、公を伴わない権利主張や、言い負かす技術としか思えないディベートや、最近目にすることが多い責任逃れは、綺麗ごとをいうのではなく好きではない。

 経済的効率のみを追い求めれば、職人技や文化などが育たないとも思ってもいる。損得が判断のための第一順位では悲しすぎる。

 厳しい世界でやってきたけれど、誰に気づかれなくても、いつでも花一輪を心に秘めてきた。

 日本人というのは、誰でも自分の美学というのを持っているように感じる。



二十二.鈍感力


 駅の構内で、この暑いのにクマゼミの30倍はあろうかと思われる泣き声をあげて幼児がグズっていました。周りの迷惑なんのその、親はスマホに夢中で何の手立てをこうずることなくほったらかしでありました。

 やたら声の大きいのは、小さいときに親に構ってもらえなかった人に多いように私は思うのですが、これはあくまで私見です。

 構ってもらえなければ親の注意を引くのに、どんどんエスカレートして大声を出したり暴れたりするようになる。生存本能の発露である。

 それが周りにどんな迷惑をかけているのか教えられることも無く長ずれば、マナーなんていうのは意識の中に育つわけがない。

 ちっちゃい子だって、「はい、静かにしましょうね」とか「どうしたの?」とか丁寧に相手をしている親の子は、見るだに聞き分けというか理解力というかが優れているように見て取れる。

 子供だからって軽く見ちゃあいかんぜよ。よ~くわかってるようですぜ。



二十三.如かず


 イケズじゃなくってシカズでございます。


 アラブの諺に「男が川なら女は水たまり」ってのがありまして、みんなでああじゃないかこうじゃないかとやりましたが、意味の結論はでませんでした。

 諺っていえば、 “鵠”ってのは一体なんだってことなんだけど、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」なんてのもあるから、でかい鳥だってことは解る。

 大体が、漢字で書く鳥の名は難しい。

 子規がホトトギスで、啄木はキツツキ、閑古鳥が郭公だってのは、割と知っている人が多い。


 話しを戻して鵠(コク コウ グイ)。

 これは白鳥の古名ってことになってる。

 ついでのついで。鴻ってのは、鴻巣なんて地名もあるから知ってるようでいて、実は知らない人が多い。大雁、ヒシクイの別名なんだという。むかし漢文の時間に習った筈なのだけど覚えてなかった。


 ついでのついでのついで。じゃあ「水馬」ってのは何だ?

 鳥の話しをしていたけど、これは鳥じゃぁありません。まあ空は飛ぶけどネ。

 最近みかけなくなりましたが、答は水溜りに来る昆虫「アメンボ」です。



二十四.濃さ違い


 おじいさんたちが集まったとき、小さなペットボトルをとりだしてチビチビ飲んでる人が居たから(若者ならそれはなんでもない風景だが)、「どうしたんですか?」と聞くと、「いや、喉が渇いてしょうがないから、そこで水を買ってきた。」という。


 すると、そばにいた人が「彼は水っていってるけど違うよ。ありゃ焼酎割りだよ」

 更に次の人が「いや、そりゃ焼酎の水割りだよ」

 極め付けが「いや、そりゃ焼酎そのものだよ」ということになって、一同大笑いになりました。

 普段の行いがものをいいます。身をつつしみませふネ。



二十五.許せないけど許す


 厭なことがあると、それに囚われて気分が晴れないことが、けっこう後まで続くもの。

 悩み事は、自分の精神性や体を想像以上に傷つけます。

 そんなとき、「こんな厭なことがあったんだから、後にきっともっと良いことが起こる」と思い方を変えるのが良いといわれます。

 そう思うと、事実本当に良いことが起こるものです。

 くよくよ引きずるようなことをしていると、どんどん悪くなることが多いから気をつけた方がよさそうです。

 他人から厭なことをされたり、酷い仕打ちを受けると、「こいつは絶対許せない」と思うのが普通です。

 しかしながらそう思っていると、自分の心が伸びやか晴れやかにはなれないばかりか、いつまでも苦しみます。

 行いも、我ながら嫌になるようなこともしがちになりますが、人を呪わば穴二つと言われる通り、自分にとっても決して良い結果は齎されない。


 許してしまう方が楽なのです。

 そんなことをいったって「許せない」と思うのが人情ですが、「許せないけど許す」と無理でも小声で言ってみるのです。心が解放されます。

 なんてったって、許す側の方が器が大きいのです。


 それとは別に嫌な予感がする、というのがあります。

 この場合は見る聞くなしにその場を急いで離れることです。体を動かすことで気分が変わるということもありますが、嫌な予感がするというのは太古の昔、猛獣の襲撃から身を躱し、命を守った知恵からの記憶がそうさせるのだと言われます。



二十六.言われるままでは


 報道されるニュースって、そのまま信じていいものなのだろうか?

 女占い師の所在がわからなくなった・・・?

 各局で大勢が朝から晩まで追い回していて、どこに行ったか分からないという。

 貼りつかれている方は迷惑な話だろうが、それを別にしても、誰一人行く先を突き止めていないというのも不思議な話である。

 普通に考えれば、わかっていても発表するわけにいかない局の事情があるということになる。


 秘密の党首会談をやったというのも、変といえば変。

 ばれるようなのでは秘密でも何でもないから、ニュースとして流すための思惑とタイミングを計算して、どちらかのサイド或いは両方が情報操作したのだということになる。

 報道も、なんらかの演出かフィルター操作をしているのではないか、ともいえる。

 東日本大震災の記念番組も、筋書きを作って被災者にQ&Aしているような場面があって、違和感というか配慮がないんじゃないかと思えた。

 ニュースというものに、なにかのコメントが加わっているときは、自分でもちょっと考えてみないと、ミスリードされる可能性がありそうに思える。



二十七.脳の持つ癖


 脳低温療法を生み出した脳外科医の林成之先生が仰います。

 家庭・学校・会社を誕生させたのは、「生きたい」「知りたい」「貢献したい」という脳の本能なのだと。

 人間の脳の本能は、自己保存と一貫性を保つクセを人に持たせるから、保身と事なかれ主義に結びつきやすい。必要ゆえに備わる本能だけれども、クセの働きが機能不全を起こしている可能性も大きい。

 一方人には、何事をも可能にせずにはおかない潜在意識というものが誰にも備わっているのだというけれど、変りたくないという意識がそこに至る道を閉ざしてしまっているらしい。

 じっとして動かないでいると、悩み事というのはどんどん深まるものらしい。

 何かに打ち込んでいるときや忙しくしているときに、それらは入り込む隙間がないということもあるが、解決策やそのヒントとなる閃きは、動いているときに浮かんでくることが多いのだといわれる。

 散歩や軽い運動もよいが一心不乱にやっているときに気づきがあったということもよく聞きます。

 今まで見えなかったものが見えてくる。

 やると良いとわかっても、やらない理由を見つける名人でいては、なにも変わらない。

 なぜそうするのか、そのときには解らなくても、やった後でわかることが多いのです。



二十八.価値のあるビリ


 生涯を初等教育に捧げた東井義雄氏が「一番より尊いビリだってある」と仰っている。

 氏は師範学校でマラソン部に属し、4年間ビリを独占したのだそうだが、「俺はビリから逃れることはできなくても、日本一のビリにはなれる筈だ。ビリが恥ずかしいことではない。怠けることの方が恥ずかしい。」と言っていたのだとか。

 ビリであることで卑屈になったり、心まで貧しくならなければ、困っている人や弱い人の気持ちが理解できる。全てのことにビリであることはないから、一番の分野でビリの味が解かる動きができる。

 不遇のときは、力を蓄えている時期だと信じる方が強く生きられる。

 そういわれれば、下積み経験をした人の方が強いと感じることがある。順風満帆で何事も通せればよいが、そうでないことの方が多いから、世の中バランスが取れているのかも知れない。



二十九.人間様が気を遣う


 昔は、どこにでも沢山いた雀を、最近見かけることが少なくなったと気づいておられる方も多いと思います。

 庭によく来ていた雀が、隣の家を建て替えている工事に合わせて来なくなっていました。

 工事が終了したので、以前の餌台に小鳥の餌を買ってきて入れておいたのに、何日も何日も訪れてくることなく過ぎていたのですが、遠くで雀の鳴き声がしたので、まず駐車場に餌を撒くことから始めました。

 何日か過ぎると、餌台に群れをなして集まってくるようになりましたが、ちょっとでも人が動く気配がすると、一斉に逃げ去ります。

 ご飯を炊いた後お釜を洗った時に出るご飯粒をいつも与えていた家内は、どこで見分けるのか、あれは前から来ていた雀だと、何匹かを指さします。

 餌がないと、窓に体当たりして催促するくせに、餌を食べに来ている間は人間様が息を潜めている有様です。


 そうは言っても、小鳥に餌をやるのを大っぴらにはできない。それが知れると何とか団体が目くじらを立ててやって来かねない。

 まあ、飼うほどではなく、ほんの少し残り物をやるだけだから、ご勘弁願っている。



三十.世論調査


 メディアの発表する世論調査というのが、よくわからない。

 設問の仕方で、結論は全く違うものになるように思える。

 何かの意向が働いて、意見を思惑通りに誘導しようとしているように思えることも多い。

 世の中は動いているのだから、最初に言っていたことと逆の行動になることがあるのは当然だとして、政治家もマスコミも、意見を変えるときは何らかの納得できる説明が必要なのではないのか。

 消費税の増税も原発も、なんか言うことがころころ変わる。

 全てをオープンにしてというのは無理かもしれないが、可能な限り事実を思惑なしに公表して、一人一人が感情的ではない選択をできるような仕組みというのはできないのだろうか。

 特に良く解らないのが、政治家に関するアンケートである。

 政治家に何を求めるのか、ということに合意はないのではなかろうか。極端に言えば、国と国民の為になることを結果として出してくれればいい。

 質問項目にあるのかどうか知らないが、結果表に人柄が信用できないというパーセンテージが出ていることを見ると、それに類する質問があったのであろう。

 品行方正な善人であっても、政治家には向いていない人だっているだろうに・・・



三十一.仲良くするということは


 近隣諸国と仲良くすることに反対はしないが、仲良くしようと言っている人の意見には、相手の押し付けてくる価値観をそのまま受け入れることを容認することと同義であるように思えることが多い。

 領土問題しかり歴史認識しかりで、双方の主張が事実に照らしてみて公平なのかなどうかということを、マスコミもコメンテーターも説明することは少ない。

 どちらかと言えば、捏造であろうがどうだろうが一方的に譲歩することが仲良くする道だとしたいように見える。

 仲良くするということは、折り合いをつけるということであるとしたら、論点をきちんと並べて比較しなければなるまい。

 何かあると、外国でこういう騒ぎになっていると報道するばかりでは、日本のみがひたすら我慢せよと言っているのに等しく、偏っているように思える。

 国旗を燃やしたり足蹴にしたりというのに対しても、きちんと申し入れできているかどうか甚だ心もとない。

 お互いを尊重しあえるためには、限度を超えてはならないことがあるのではないのか。



三十二.変な用語


 先生とか殿様とか、目上の人が気に入っているものを、~のお気に入りと言うのなら解る。

 しかし、自分が好きな食べ物とか着るものなどを、私のお気に入りというふうに“お”を付けて言うのは、一般的になってはいるが何となく違和感を感じてしまう。

 細かなことを言うようだが、変は変。


 TVを見ていたら、「無病息災を記念しました」との放送された。なんのこっちゃ?

 アナウンサーの読み間違いで祈念しました、というのが番組の内容からの解釈です。

 こういうのは枚挙に暇がないほど多い。

 その他では、ことに政治家の用語で気になるのが「お訴えをする」という表現。

「訴える」という動詞の連体形で名詞形にしたのが「訴え」ということの筈。なんでわざわざ「訴え“を”する」というように“を”を挟むのだろう?しかも“お”までつけて。

  “お”をつけるのも、一見丁寧のように見えて何となくいかがわしさを感じさせられてならない。

「名詞+する」で動詞になるものは、+のところに“を”を入れないで使って欲しい。

言葉には、魂やエネルギーがあるのだから・・・


 食後にコーヒーを注文してしばらくすると、ウエイトレスが「こちらコーヒーになります」と言ってテーブルに持ってきた。

 改めて確認をするまでもなく、紛れもなくコーヒーそのもの。

 どうして「コーヒーです」といわないんだろう?

「~になります」という表現で物が出されることが多いが、これからソレに変わるのであれば~になりますということであるが、ソレそのものであれば「です」で良い。


 隣の席で食事をしていたカップルの一人が「これ、美味しいかも。」と言っているのが聞こえてきました。

 美味しいか不味いかは、自分の判断であるから「かも~」というのは、明らかに変ではないか? どうして自分の判断をわざわざ曖昧に表現するのだろう?

 小さなことかもしれないが、自分の判断すら曖昧にするクセがこんなところから始まっているとしたら、自分の意見を堂々と発表できる人に育つことはこの先無いように思える。



三十三.鵜呑みして


 マスコミの報道は、どうも中国よりや韓国寄りに傾き、日本を批判するような記事の書き方になっているように思えて仕方ない。

 例えば領土問題であるが、歴史と国際法からみて、我が国の固有の領土なのだということを主張するより先に、先の大戦や経済がらみの話に論点をすり替えて持っていきたいのではないかと思えてしまう。

「日中記者交換協定」なるものがあって、中国に不利なことは書けないということなのかも知れないが、領土問題とそれらは別の問題であることは、論理上分けて議論するべきであろう。

 ネット上での記事を読むと出てくる、マスゴミと揶揄して書かれるような偏向報道は避けるべきだと思うのである。

 領土を主張することが何故、右傾化だと括られるのか理解に苦しむ。

 国を守るのは、極めて当然なことであり、そのために譲れない信念を無くしたら、国の形態を維持できまい。

 マスコミの報道は怖いのである。自分で調べてみるだけでも、事実関係はいくらでも出てくるのだから、鵜呑みにだけはしたくない。



三十四.つらつらかんがみるに


 男子三日アワザレバ(アワズンバ)刮目シテミヨ、という。

 頭では解かっているつもりでも、実際にそうできているかというと、なかなかそうはいっておりません。

 志を持った男子は、三日あれば大きく成長している。

 先日親しい友人と話していた時のことなのですが、同期の皆さんが暫くぶりで会ったときに素晴らしい器に成長しているなと思わされることが多いのは当然として、小さな頃から知っている友人の子供のことを、心安立てに○○君なんて呼んでいたことに気が付きました。気がついてみれば彼等はもう立派な大人であり、人格者なのだということに今更ながら気づいたのです。小さいころから知っている小父さんだということで、呼ばれ方が違和感をもってはいないにしても、年月が経てば我々を凌駕する一廉の人格者に育っている。

 こちらの見る目に厚い鱗が張り付いていたのだと思わざるをえない。

 いかに年少者といえども、もう呼び方を改めなければならないのだと、遅まきながら心得違いを覚えてた次第です。

 これからは、どちらさまのお子様も、必ず○○さんと呼ぶことに致します。

 親が偉そうなことを言っていたって、子は遥かにそれを超えたところに行っている可能性のほうが高そうです。



三十五.どう言ったらいいか


 先日の夕刻、駅のホームに登ったところ「後続の車輌に故障が発生したので間隔調整のため電車は運転を見合わせております」との放送が繰り返されていた。

しかしながら、いつかな動く気配がない。

 ご存じの方が多いと思うが、時間の目安になる案内放送がないのは、待つ身にとって非常に疲れる。

 乗客が溜まって混雑してくると余計に蒸し暑くて、そこに長時間留まると命にサワリが出るのではないかとすら覚える。

 仕方がないから遠回りにはなるが、バスに乗って帰ることに算段した次第です。

 バスには、若い母親仲間3~4人がそれぞれに4~5歳くらいの子供をつれて乗り込んできました。これがすこぶる賑やかい。

「おかあさ~ん、アイスクリーム食べてもい~い?」と中の一人が聞いたのに対し、「静かにしないとタベレないよ」とその母親が答えた。

「わ~い、食べられる食べられる」と、相変わらずその子は大騒ぎだったが、言葉遣いは母親よりその小さな子の方が正しい。

 しかし、公共の場では静かにしなさいということについては、母親が正しい。

 まあなんです。どっちもうまくいかすのは大変なんです。



三十六.掴みなおしてしまう


 なんとなくうまくいかない。気持ちも滅入る。イラダツ・恨みに思う・幸せに思えない。

 これらは、マイナスイメージを自らが自分の中にプログラミングした結果だという。

 意識してマイナスイメージを自分に取り込むなどということは滅多になくて、無意識のうちにやってしまうらしい。

 これが現世のことだけではなくて過去世でやったことをまとめて、業とかカルマというらしいが、自分の前に現象として現れればそれは時機を得て消えるものなのだという。

「現れれば必ず消え去る」とはいえ、なかなかそう思えなくて、新たに掴み直してしまうから、いつまで経っても消えない業ということになる。

 目の前に起こった嫌なことは「感謝し許して」放念するのがよいのだとか。

 何故なら、生身のエネルギーが一番強いからそれができるのだというが、なかなかそれはうまくできない。できるくらいなら、悟りを開ける。

 ただ、トラワレというのは、確かに自分が掴んで離さないものだ、ということは解る。

 「掴んでいいのは現金だけよ」と冗談にのせることで、笑って拘りを捨てることはできそうである。



三十七.努力の結果がともなわない


 努力の結果がどうなるのかというと、自分が期待した程には報われないことが多い。

 こんなに一所懸命頑張っているのに「認めてもらえない」「望む結果に結びつかない」と不満を言ったり嘆いたり不貞腐れたり反抗的な動きをしたりするのは、よく見かけることです。

 というより、自分自身に当てはまることでもあります。

 他人は、自分よりもっと努力をしているのだ、というふうにはなかなか考えられない。

 でも、努力は人に見えないところでさらっとやるのが良いようです。

 ギラギラした自我が見えてしまうと、どうも結果は割引されてしまうようです。

 認められなかったり、結果に結びつかなかったりした努力は、神様のところに貯金したというように考えると、あとがずっと良くなる。

 結果の顕れるのにはタイムラグがつきものだと思って、鷹揚に構える。

 私は宗教家ではありませんが、後生というか転生というようなことは、どうも有ることのように思えます。今生が駄目なら来世では・・・と考えれば、腹は立たない。



三十八.日本の親父たち


 戦後の親父たちは良く頑張った。

 家族を養い地域を支え、国の将来と子孫の繁栄のために脇目も振らず、身を粉にして働いた。皆等しく貧しかった。

 趣味に時間も費用もかける余裕もなかった人たちが大半なのではないだろうか。

 年金生活に入ると、仕事以外に能がないと馬鹿にされ、邪魔者扱いされ、それでも稼ぎが少なくなってしまったことへの引け目からか、大人しくしている人が多い。

 子を育てるのは当たり前、家族を養うのは当たり前ということで、要求されること全てには対応できなかったことに責任を感じて、自らを不甲斐なかったと思い込んでしまっているのかも知れないが・・・

 しかしそれでも、何もない所から始めて、戦後の親父たちは、自らのことを顧みずよく頑張ったのだと思う。彼らは何も語らないが、焼け野原の中から立ち上がったのである。

 食べることすらままならなかった時代を乗り越えてのだということに感謝するしかない。



三十九.本音がわかる


 左がかったTVキャスターがよくいう枕詞みたいなのがある。最後に付け加えるから枕詞ではないが・・・

 「しかし、だからといって」という締めくくりの言葉。


 「しかし、だからといって」の言葉の後に続くのが、彼の本音と捉えると解りやすい。

 何らかの成果があったことに対して、異論を唱えたいときに使われる。

 彼の個人的意見であることに変わりはないのだから、正義の使者のようなドヤ顔をするのはどうもいただけない。

 持っていきたい結論ありきの主張に胡散臭さを感じてしまうのである。その奥に偏る原因の最たるものがあって、それを隠そうとしているように見えてしまうのである。



四十.おのおのがた


 斧に慄いて(おののいて)己が信念を曲げてはなりませぬ。

 ワシントンのお父さんは「桜の樹を切ったのは私です」と正直に申し出たので息子を許した、というお話がありますが、ドキドキするような刃を持つ斧を手にしている息子に、それ以上強く言えなかった、という話もあるのです。


 偉い先生方がものの本などに、家庭内に会話がないからそうなるんだなどとのたまっていますが、そうなんだろうか?

 この間、ある家の主婦が言っていたのでなるほどと思ったのが、「早く自立させないでなまじ一緒に住んでいると碌なことがなくて、子供の為にならない。事件も起こることにもなる」別段その家の子供が手に負えない、ということではない。どちらかと言えば、良い子である。

 それだけに、我が子を信じて世に送り出さないと、どこかに依頼心の方が強く育ってしまうのだというのであった。

 他人のメシには骨がある。なんていわれて育った我々は、早くから世間の荒波に揉まれたから、おのがことのみでなく折り合いをうまくつける術を身につけたのかも知れません。主張も我慢も程よい。

 今の親は限りなく子に譲歩するから、結果的に日本の外交のようになっちゃっているduckじゃなかったカモ。


 この間、聴きに行ったリサイタルで歌ったドイツ在住のテノール歌手は、怒っていた。

「ちかごろの日本はなってない。日本には素晴らしい文化があるんだから、なんでそれに気づいて大事にしないのか。もっとみんな怒れ」と。

 「枯れ葉」を歌う前のお喋りでそう言った。日本では、枯れ葉というのは趣きを含んだ言葉だが、やつらは死んだ葉っぱという意味にしかとらないんだとか・・・

 “もののあわれ”だとか“おもいやる”なんてことは理解できない。

 な~きな~き~ヨガモがわ~たる~夜は・・・


 別段怒らなくてもいいが、日本人が卑下することが無くてもよいことは多い。

 偉い先生が言っていることが正しいとは限らないのである。



四十一.カメムシ


 かめはめはーかめはめはーかめはめかめはめはー。


 日が落ちてあたりが暗くなった時間に窓をあけたところ、ブ~ンブ~ンと羽音も高くかなり大きめな虫が部屋に飛び込んできて、電灯の周りを右回りにうるさく飛び続けました。

 落して正体をたしかめると、これが桑の実(ツナミとかドドメと呼ばれる)にたかるカメムシでございました。

 飛んでいるのを初めて見たのもそうですが、その羽音がうるさいのにも驚きました。

 都会にもカメムシなんて~のがいるんですね~。

 なんですと?「ネリマは都会か?」ですと?「そうなのっ!」

 トウキョウト トッキョとかきょくなのっ!


 カメムシは、うっかり触ろうものならとても嫌な臭いがします。それでついた別名は“ヘクサムシ”。

「ヘクサムシのご年始」という表現があります。ヘクサムシは甲羅が角張っていて、まるで裃を纏ったように見える。鯱張って様にならない格好をして外に出るとそういわれる。



四十二.ぐるっとまわって


 鵜の目・鷹の目・魚の目・タラの芽

 あ~がり目 さ~がり目 ぐるっとまわってね~この目


 猫の目が出てくるまでの前置きが長い。なんで猫の目かっていうと、先日、山梨の山を歩いていた時の道脇で「猫の目草」を見つけたからです。

 猫の目草っていうのは、夜光るんだとか。ほんとかどうかは知りません。

 私は、春に三日の晴れなしといわれるのと一緒で、気分だけは猫の目のようにコロコロ変わるけど。


 あっそうそう、文頭に書いた「鵜」っていえば、この鳥が川魚を根こそぎ食べてしまうっていうんで、所によっては鉄砲で撃ってもいいということになってるらしい。



四十三.さんえん


 割れた眼鏡は見えんから3円だという古道具屋の話しでもありませんし、三河遠江の三遠という地理歴史の話しでもありません。

 馬に因んだお話しです。

 日光東照宮の神馬をつなぐ神厩舎の長押には、皆様ご存じのミザル・イワザル・キカザルの三猿が彫られてあることで有名でございます。

 で、なんで猿なのかというと、馬の守り神は猿ということになっているからなんだそうです。

 午年の皆様は、申年の人を大切にするときっとよいことがあるのだといわれます。普段護っていてくれることに感謝するのにつながるからだとか。

 ところで、日本では三エンということになっていますが、他国では四エンとなっているようです。水で薄めた酒で酔えんから4円なんてことではござりませぬ。

 論語に曰く、非礼勿視 勿聴 勿言 勿動(礼にあらざるものをみるなかれ きくなかれ いうなかれ おこなうなかれ)なんていうのがあるから、それが影響しているのか結構多くの国に猿の彫り物や置物があるらしい。



四十四.スタンド・オン・ハンズ


 手で立てるなんていう変な訳をしそうになりますが、手で立つ、即ち逆立ち。


 よく忘れ物をする友人がいる。

 年だからしょうがないとばかり言ってはいられません。

「そろそろ“酒断ち”宣言でもして、しばらくは身を慎んだほうがよいぞよ。」との、神様からのお達しなんじゃないだろうか。

 こないだはカメラだったし(結果としては出て来たとはいえ)、今回はイロイロ忘れ物をしたのだとか。

 これって、早く気づいて呑むのを止めたようだからいいようなものの、けっこうコワイ。

 まったく、つぎからつぎへと懲りないんだから。

 これからは、持ち物はすべて紐付きにし、足元の明るい内に帰るようにしましょうね。

「あなた、おはなしがあります」なんてことになっちゃってからじゃ遅いんだからネ。



四十五.親がなくては


 親は無くても子は育つ等と言われますが、誕生ということになるとそうはいきません。

 そうなのです。少なくとも片親はいないと子はできませぬ。

 むかし、我が家に未婚の女性客が来ていたとき、その女性が急な腹痛に見舞われ苦しみ始めました。

 たまたま居合わせた「先生」(な~んのせんせいなんだか?)と呼ばれる家内の知り合いが、車で病院に連れて行ってくれることになったのです。

 そのとき、彼がした質問の言葉がふるっている。

「あなた、マリアさまとおんなじ病気?」

 なんのことか分からなかったのだけれど、あとで大笑いになった。なにを創造(想像)したんだかね?


 ついでに迷惑メールのことなんだけど、何をトチクルっているのか、見ず知らずの発信人なのに「あなたのセイシを(誓詞でも誓紙でも世子でもないことは確か)下さい」ってんだから、何をかいわんや。世も末じゃ。

 でも、縁無き衆生といへど救われねばなりません。「まっとうな人生を歩みますように!」



四十六.鵺(ヌエ)


 頭は猿、四肢は虎、体は狸(これは想像できるが身につまされる)、尾は蛇、鳴き声が虎鶫(トラツグミ)に似ているという妖怪なのだといいます。

 丑の刻になると、東三条の森のかなたから黒雲が棚引き紫宸殿を覆うので、源頼政に退治するよう下命があった。

 待つやおそし、雲の仲居に垣間見えた怪しきものに矢を射掛けると、落ちてきたのが妖怪ヌエであった。

 こういうのが幼き頃の寝物語だったんだから、寝られやしないし、月夜なんかには影もオドロに見えてトイレにも怖くていかれなかった。

 夜更かしの遠因は、このころにあるのかも。(うそ)


 ぬえのなくよはおそろしい  のでござるよ。



四十七.禿無(はげむ)


 馬肥(越)ゆる秋だっちゅうからいたしかたなきところなれど、毎朝体重計に乗るたびに、ジリジリと目盛りが進んで・・・。が~ん。

 最低でも2㎏、願わくは8搾り(油だけ)たい。

 なんですと?開きがありすぎるって?

 烙(楽)するのは好きだけど禿務(励む)のが苦手だから、どうなることやら。


 昨日、早い目に仕事をあがって山手線に乗りました。車内には禿かくしに帽子をかぶったジイさんが居たのですが、奇特な若くて綺麗なおねーさんに席を譲ってもらって、三人掛けの真ん中に座りました。

 次の駅で隣の人が降りると、譲ってもらう前とは別人のような素早さで、端の席に身を移したのですが、このとき1.5人分の幅を占拠しました。(結果的には2人分)

 車内は段々に混んできたのに、素知らぬ顔でそのまま居座り続けていました。

 このジジイ!いったい何を考えているんじゃっ!(言葉が荒くなってすいません)



四十八.(h)imagine・・・暇人


 ヒマジンと不精はちがいます。なぜなぜおじさんなぜかかぬ。

 今、漢字変換したら「無精」もブショウって読むんだね。夢だと違う読み方になるけど・・・。

 先日、仲間内のページにツキの話をしたから誰か続きを書くと思ったが、みんな武将?を決めこんじまってて、話題が膨らまなかった。

 おツキの者がお手ツキとなってツキのものがなくなると、お殿様は憑き物が落ちたように、それまでの乱行が(乱交ではありません)治まったんだとか。

 南白つきもの・東発つきものとかの話しだってあるけどネ。


 漬物を食べながらお茶かなんぞをずず~っと啜ってたりして閑居していると、不善を為すなんてことになりかねません。

 小人の逆のタイジンでつい連想してしまうんだけど、「退治」と「胎児」をきちんと読み分けられない女子アナって多いんじゃないか?気になる。



四十九.車内シリーズ


その1

 東急東横線に乗って雑誌を読んでいたときのことです。

 ふと目を上げると、母子連れが立っていることに疲れたのかモジモジしていました。

 私の隣を見ると、若いネーチャンが二人分の席の真ん中に居座って、平気な顔でメールかなんぞをピコピコやっていました。

 「貴女、少し席をつめたら?もう一人十分座れるでしょ」というと、しぶしぶ隣へ寄って席を空けました。

 「座ったら?」と母親に声をかけると「いいです」との返事。

 そのネーチャンの隣へは、意地でも座らないということなのではなく、意思表示ができなかったことを引きずっているのか遠慮が美徳だとでも思っているのか、相変わらず立ったままでいました。

 さすが厚顔のネーチャンも暫くするといたたまれなくなったのか立ち上がると、隣の車輌に移っていきました。

 思うのだが、通常の配慮がなされないようなマナー違反を、この母親のような態度が助長しているのではないのか。

 最近は、自分でもまずいなと思っていることでも、周りの沈黙イコール黙認あるいは許容と勘違いして、言われるまではいいのだとする人が増えたように感じられてならない。

 自分で判断して調和をはかるという能力が欠落してしまう原因はどこにあるのだろうか?

 件のネーチャンも、次からは回りに配慮するようになってくれると信じたい。

 4~5駅先で立ったままであったその母子連れが、降りるとき「有難うございました」と私に挨拶して降りていったが、そりゃ違うだろう。

 ちゃんと座るのが、世のためになるのに・・・


その2

 イカツイあんちゃんが電車に乗り込んできて、こちらには背中を向けて吊革に掴まった。

 背中に墨黒々と文字がかいてある。

 読むともなく読んでみると、“毛深い背中に トゲあるからだ 男は中身で勝負する”というようなことが書いてあって、隣に毛蟹の絵が添えてあった。そりゃ毛蟹はうまいけど・・・

 おもれーあんちゃんだから声をかけてみようかとも思ったが、かなりコワそうだったから、今日のところは暑くもあるし、とりあえずやめときました。

 こういうのを“君子危うきに近寄らず”っていわなかったっけ?

 なに?使い方がちょっとちがうって?


その3

 先日、渋谷から山手線に乗ったのですが、いかにも勉強のできなさそうな若いネーチャンが二人、入り口近くに陣取っていました。

 代々木駅に着いて、若いおにいちゃんが降りようとしているのだが、件のネーチャンたちが一向に出口を空けないため、ドアがしまるギリギリにようやく降りることを得ました。

 新宿駅に着いて、私も降りようとしたのですが、相変わらず出口を塞いで平気でいる。

「君たちは、バカか!出入り口を塞いでいたら迷惑だろう!」と言ったら、漸く気づいて移動した。言い方が乱暴に聞こえるかもしれないが、そこはそれ、年の功で相手が反抗的になれない気迫と声の色が身についている。これからは、きっと?気をつけることでありましょう。


 紅葉を見に出かけました。誰が見ても、ここからの眺めが一番いいだろうと思える場所に、老いらくの恋だか不倫関係だかなんだか怪しげな爺婆が、大きな三脚を2台並べて長時間経つのではないかと思える雰囲気で、見物客への配慮まったくなしの構えで立っていました。

 多分ではあるが、「今時の若い者は・・・」なんてことが口癖になっているに違いない意地悪そうな顔をしていたから、例によって教育的指導をしてやろうかと思ったけれど、もう一生なおりそうもない年寄りだったから、憐れに思って目こぼししてやりました。

 なにごとぞ はなみるきゃくの わるふざけ

 ひとりじゃなんにもできないくせに、大勢集まるとなんであんなに下品になるんだろう。

 他人に迷惑をかけても自分さえよきゃってことかもしれないが、わかってない。

そのツケをいずれ払わされるということになった時では、もうあとの祭りなのに・・・。(輪廻は巡る糸車)


その4.

 ラッシュの時間帯は過ぎたとはいえ、まだ多少は混んでいる朝の通勤電車の優先席に、若くて太い(態度のこと)女性が陣取って、やおら懐中より携帯電話をとりだし静かな車中をかき乱す傍若(こんなのが一発で変換されないようなPCなんじゃしょうがない)無人な声をあげて話しはじめた。

 ところが、呆れたことに側にいる誰もが嗜める素振りもみせない。


 ほどなく、急行電車をやりすごす為の駅にとまりドアが開いたのだけれど、いつかな降りる様子も見せず話し続けているので、離れたところに座っていたのだが堪りかねて「降りて話しを続けなさいよ!」と声をかけた。

 それでも聞こえないふりをして相変わらず話し続けているので、「アナタのことだよ!」と声を荒げたら、漸くしぶしぶ「あとで電話する」といって電話をきった。


 腹が立つのはその女の子のことではない。そんなのははっきり言ってどうでもいい。

 だけど、マナーというかルールとして皆が守ろうとしているものを、素知らぬ顔で終始見過ごしにした回りの連中は破廉恥だと思うのです。

 そんなやつらにかぎって、青少年が事件を起こすと、社会が悪い学校が悪いなんてホザク。 そうじゃないだろ、アンタが悪いんだよ!


 以前同じようなことがあって車中で若者を叱ったところ、「朝から怒らなきゃいいのに」と側にいたオバハンが言ったことがあったけど、子供の顔をみてやりたいと本気で思った。






五十.白澤(はくたく)


 目が3つで手が1本、足が6本な~んだ?という謎なぞが昔ありました。

 答えは、馬に乗った丹下左膳。というんだけど・・・


 そんなものではなくて、白澤は、人語を解し万物に精通する聖獣ということに古来から中国ではなっています。

 顔に3つ、胴体に6つの目があり、額には二本、胴体には四本の角があるのだそうです。

 遭遇すると、その家は子々孫々に至るまで繁栄すると言われておりますので、どうか皆様も会うことができるといいですね。











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エッセイ「普通に考えてみると(一)」 @SyakujiiOusin

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