タイトル未定

広川 渉

第1話(7歳) 黄昏、桃香る初恋

不安なんて無かった。

青空がどこまでも広がる4月のある日。桜の木が風に吹かれると、さらさらと揺れて花弁が優雅に舞う。

普段滅多に着ることのないスーツを着て、ピカピカのランドセルを背負い、笑顔の両親と手を繋いで歩いている。

幸せだなと思う。僕は今日、保育園の年長の頃から憧れ続けた小学生になるのだ。これから始まる学校生活というものに不安なんて無かった。楽しみで仕方がなかった。今すぐ両親の手を振り払って駆け出してしまいたいほどに。

正門から小学校の敷地へ入るとき、大きくジャンプした。地面はトランポリンのように、革靴はバネのように、ランドセルは翼のように感じた。春風に背中を押され僕は飛んだ。


入学式から数日後の放課後、正門近くにある公園で女の子が1人泣いていた。見たことのある顔、確か同じクラスの美夏ちゃんだったっけ。

父からずっと「女の子には優しくしなさい」と言われていた。それだけが理由じゃなくて、何だか胸が騒めいていたから美夏ちゃんに声をかけてみることにした。

「この辺、変な人がよくいるみたいだよ」

馬鹿みたいだけど彼女にかけた最初の言葉はこれだった。だけどこれは突拍子もないことではなくて、さっきの帰りの会で先生が言っていたことだ。

「……そうらしいね」

意外にも言葉を返してくれた。きっと無視されると思っていたのに。

「どうして泣いているの?」

「学…校にパパとママがいなくて…寂しい」

両親から離れ、日中を過ごすという学校生活の上で、寂しくて泣いてしまう低学年は多い。僕には全然わからない気持ちだ。

「これからはずっとそうだよ。でも夕方には帰れるじゃん」

「Kくんは…怖く…ないの?」

「うん」

「すごいね…わたしは怖い」

憧れの小学生、怖いなんて思うはずないじゃないか。

当時のことはよく覚えていないけれど、どうにか美夏ちゃんの恐怖心を和らげてあげなければと思った。

「おまじないをかけてあげようか?」

「…おまじない?」

「そう。手、出して」

彼女の小さな手、涙で少し濡れている手を握った。

「…それで?」

「これだけだよ。僕のお母さんがしてくれるおまじない。手を握られてるだけで安心するんだ」

「何か唱えたりしないんだね。でも…なんだか怖くなくなってきた…気がする」

「そうでしょ。ところでお家はどこ?」

僕たちは手を繋いだまま歩いた。

彼女の家は僕が住むアパートの隣だったから、毎日一緒に帰った。もちろん手を繋いで。


4月下旬、大型連休を目前としたある日のこと。

随分と桜が散って緑色が目立ってきた。

僕と美夏ちゃんは、いつものように手を繋いで通学路を歩いて帰る。

交差点で信号を待っている時、美夏ちゃんがポケットから小銭を出して僕に言った。

「ちょっとスーパーで飲み物を買わない?喉乾いちゃった」

登下校の間は寄り道してはいけないという決まりがあったけれど、美夏ちゃんの誘いは断れない。

僕らは桃のジュースを1本だけ買った。お互い500mlは飲みきれなくて、半分ずつ飲むことにしたのだ。

辺りはオレンジ色に染まっていた。僕はこの夕刻が大好きだった。

「僕の家の階段から綺麗な夕陽が見られるんだ。ちょっとだけ見ていって」

美夏ちゃんに僕のお気に入りの景色を見て欲しかった。

階段に着いてしばらくお互いに口を開かなかった。彼女は夕陽をじっと見つめていた。

沈黙が耐えられなくなって僕は口を開いた。

「綺麗でしょ?花火もここから綺麗に見られるんだよ。夏になったら一緒に見よう」

なんか大人が言うセリフみたいだな、なんて思いながら声をかけてみたのだけれど、彼女は何も答えなかった。

彼女の顔を覗き込むと少し涙ぐんでいた。気のせいかもしれない。だけど…もし涙を浮かべているのなら、きっと悲しいことがあるはずだ。そう思って少しだけ握っている手に力を込めてみた。

すると彼女は驚いた目でこちらを見て、少しだけ微笑んだ。そして予想外の行動に出た。


僕の頬にそっと唇をつけた。


何が起きたのかよくわからない。でも鼓動が速くなり、彼女にも聞こえてしまうほど心臓が大きな音を立てている。

彼女の顔は茜色に染まっていて、妙に綺麗だった。

「じゃあわたし帰るね…ありがとう」

僕の手を放し、階段を駆け下りていった。

僕は動くことができなかった。

桃の香りと彼女の言葉だけがそこにずっとあった。



ゴールデンウィークが明け、久しぶりの学校に少し緊張しながらも元気よく登校した。

久々に会う友達と休みの間に何をしていたかという話で盛り上がった。美夏ちゃんを探してみたけれど、まだ来ていないみたいだった。

朝の会の時間になっても美夏ちゃんの姿はなかった。

朝の会が始まり、担任の先生が少し改まった様子で話し始めた。


「皆さんに悲しい話があります。」


少し体温が上がったのがわかる。何か嫌な予感…。

「美夏ちゃんが転校することになりました。お父さんのお仕事の関係で遠くへ行かなければならなくなったのです。みんなにさよならを言えなくてごめんなさい、と言っていました。皆さんと一緒にいたのは短い間でしたが、ありがとうの気持ちを込めてお手紙を書きましょう」

気が遠くなるのを感じた。どうして言ってくれなかったのだろう。それともアレは別れの挨拶だったのだろうか。

僕は手紙に文字を書くことが出来なかった。伝えたい言葉が思い付かなかったのだ。


だから僕は夕陽と桃の絵を描いた。


僕は彼女に恋をしていたんだと今になってわかった。


僕の初恋は、オレンジ色で桃の香りがする。


僕は今でも夕陽を見ながら、美夏ちゃんに思いを馳せている。

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