4 パパと大きな翼

「ちくしょう。失敗だ。もっと、もっと改良を加えなくちゃ……」

「ねえパパ、フローラはどこにいったの?」


 うつろな目で呟き続ける男にアリスは尋ねた。


「フローラはね、先にお空に行っちゃったんだよ。パパを置いて。ひとりでね」


 言葉の意味がわからず、さらに問いかけようとした時、アリスは見た。

 男が抱える翼のランドセル部分が奇妙に変色しているのを。


 べったりと付着した黒ずんだ血。

 アリスは悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえた。

 フローラがどこへ行ってしまったのかをなんとなく察してしまったのだ。


 それはかぐやも同じだったようだ。

 この日を境にかぐやは露骨に男を恐れるようになった。




   ※


 男はこれまでのような行為を全く行わなくなった。

 代わりに翼の設計を一からひとりでやり直した。

 二人には決して手伝わせてくれなかった。


 かぐやは寝室にこもりきりになった。

 アリスはただ一人、ひたすらナイフを振り続けた。

 それが男がアリスに与えてくれた最後の命令だったから。




   ※


 そして男は二つ目の翼を完成させた。


「かぐや、来るんだ」


 次に選ばれたのはかぐやだった。

 男に以前のような優しい面影はもはや残ってない。

 男は乱暴にかぐやの腕を引っ張って連れて行こうとした。


「やだっ、死にたくないっ!」


 かぐやは必死に抵抗した。

 フローラと同じ目に合いたくない。

 そう訴える彼女を男は容赦なく殴りつけた。


「ちくしょう、お前まで、お前までぼくをバカにするのか!」

「ぐげっ、げっ」

「パパやめて! かぐやが死んじゃう!」


 泣きながらかぐやを殴り続ける男をアリスは必死になって止めた

 やがて殴り疲れた男が息を切らせて立ち上がる。


「……今日はやめだ」


 その一言だけ残して、男は自分の部屋に閉じこもった、

 アリスはかぐやを寝室に運んで傷の手当てをしてあげた。


「なんで、こんなことになっちゃったの……」


 かぐやは腫れた顔ですすり泣いていた。

 胸に突き刺さるような悲痛な声った。


 アリスは涙を堪えて彼女を抱きしめた。

 自分が変わってあげられたらよかったのに。




   ※


 しばらくしてかぐやの傷が癒えた頃、男は再び二人を自分の部屋に呼び出した。


「かぐや、もう一度言う。一緒に来い」


 男が言った。

 かぐやは俯いたまま動かない。


「……どうしても嫌か」


 かぐやは無言で首を縦に振った。

 男は大きく溜息を吐いた。


 そして男はアリスに視線を向けた。


 大丈夫。

 覚悟はできている。

 私ならいいよ、代わってあげるよ。


 しかし、


「アリス。かぐやを殺せ」


 男の口から出た言葉は、アリスが待っていたのは全く違うものだった。


「どうした。はやくやれ」

「え、あ、でも」

「アリスは毎日ナイフの練習をしていただろう。その成果を見せてみろ」


 できるわけがない。

 かぐやはずっと一緒に暮らしてきた友だちなんだ。

 アリスがナイフの練習をしていたのは男から命令されたからである。

 人を傷つけることなんて……友だちを殺すことなんて、想像すらしたことがない。


「アリスちゃん……」


 かぐやが怯えた目でアリスを見ている。

 ほら、こんな娘を殺せるはずないよ。

 刺したら血がいっぱい出て、すごく痛いんだよ。

 かぐやはアリスの妹みたいなものなんだから。

 いくらパパの頼みでも、それだけは――


「アリス……お前だけは、お前だけはパパの味方でいてくれるだろう……?」


 男は泣いていた。

 大きな体を震わせて。

 アリスの顔を真っすぐに見て。

 濁った瞳から、とめどなく涙を流し続けた。


 パパが、悲しんでいる。

 アリスは悩んだ。

 迷った。

 考えた。

 どうすればいいの? 

 パパを悲しませたくない。

 でもかぐやを殺したくなんかない。


 どうすればいい。

 どうすれば、どうすればみんな悲しまないで済むの?

 わからない。

 だれか教えて。

 答えて。

 助けてよ!


 頭の中はさまざまな思考と、こみ上げる思いでぐちゃぐちゃになった。

 アリスはおかしくなりそうだった。

 手に握ったナイフが重い。

 永遠とも思える時の中、アリスは本当に大切な人の声を聞いた。


「パパの言うことを聞いたら、アリスだけをずっと愛してあげるから」


 ヒビだらけになった心にその言葉は水のようにしみこんできた。

 アリスは決意した。


「かぐやちゃん」


 アリスはかぐやを見た。

 大切な、友達。

 大切な、家族。

 大切な、愛しい『妹』

 かぐや。


 不安に震える彼女をこれ以上怯えさせないように、にっこりと笑顔を作って近づいた。


「アリス……ちゃん」

「ごめんね」


 それから先は、おぼえていない。




   ※


「アリス、大好きだよアリス。ぼくにはきみだけだよアリス。アリス。アリス」


 気がついた時には、アリスは寝室で男に抱かれていた。

 真っ赤に染まった手を愛しそうに舐めながら男はアリスを愛してくれる。


 アリスは笑っていた。

 おかしくてたまらなかった。

 これで男はアリスだけを愛してくれる。

 それがたまらなく嬉しく愛しくおかしかった。


 男の愛情は三日三晩に渡って注がれ続けた。

 アリスの心は嬉しい気持ちでいっぱいだった。

 人生全てを塗り潰されるほどの愛と命をもらった。

 もう、何があっても怖くないよ。




   ※


 そしてかぐやがいなくなってから四日目の夜。

 男は服を着替えると、アリスにこう言った。


「さあ、一緒に自由を手に入れよう」


 アリスは頷いた。

 初めて買ってもらったお洋服を着て、パパの手を取って、表に出た。


 久しぶりの太陽の光。

 それは目もくらむほどに眩しかった。

 瞼も開いていられないほどの光の中、パパの手の感触だけを頼りに歩いた。


 車に乗り、助手席に座る。

 アリスが目を開けられるようになった時、車は見覚えのある場所を走っていた。

 男に誘拐される前、以前のパパやママと一緒に何度か来たことがある場所。


 そこはこの辺りで一番大きな繁華街だ。

 ビルが増え、二年半前とは少し様子が変わっている。


「フローラはあの建物から落ちて自由になったんだよ」


 男が前方にある十階建てのビルを指さして言った。

 アリスはそれに特に何の感慨も湧かなかった。

 パパ以外の人間なんて、どうでもいい。


 車は繁華街を通り過ぎて大きな道路に入った。

 男は無言で車を走らせ続けている。


 アリスも何もしゃべらなかった。

 パパと一緒の外出。

 してみたいことはいくらでもあったはずなのに、不思議と今は何もいらない。

 もう充分に自分の心は満たされている。


 一時間くらいして車が停止した。

 そこは巨大なタワービルの前だった。

 男は先に車を降りると、アリスに待つように告げ、建物の中に入っていった。


 鍵もかかっていない車で一人きり。

 もちろん逃げ出そうなんて思わない。


 しばらくして男が戻ってくる。

 男はトランクを開けて翼を取り出すと、空いた手でアリスの手を引いた。


「行こう」

「うん」


 建物に入りエレベーターに乗って屋上へ。

 狭い箱の中でアリスはパパの手をぎゅっと握っていた。


 屋上のドアにはカギがかかっていたが、男はあっさりと外して侵入した。

 外に出ると強い風が吹きこんできてアリスは思わず目をつぶる。


「よし、いいぞ……これなら絶対に成功する」


 男は屋上の中央に座り込んで翼を組み立て始めた。

 待っている間、アリスは屋上を歩いて一周する。


 三十階建ての高層マンションから見る眺めは素晴らしかった。

 アリスは自分の家――パパと過ごした家――はどの辺りにあるのかなと考えた。


「さあアリス。完成したぞ――」

「動くな!」


 ドアの方から声が響いた。

 警察の制服を着た人が二人、鉄砲を構えてこちらを見ている。


 銃口はまっすぐ男に向けられていた。


「誘拐殺人の容疑で逮捕する! 大人しくしろ」

「く、来るなっ!」


 男がアリスを抱きかかえる。

 守ってくれているのだとアリスは感じた。


「来たらこいつを殺すからな。他のガキと同じように、そこから突き落として殺すぞ」


 この場を逃れるための嘘だ。

 男はでまかせでそんなことを言っているのだ。


「誰にも邪魔させるものか。ぼくは自由になるんだ、自由に、自由に」


 男は自分で翼を装着すると、アリスを放り投げて走り出した。

 本当に自由になるために。


「やめろ! 早まるなっ!」


 警官の声に耳を貸さず、男はビルの端めがけて猛ダッシュする。

 そして、男は大空へと向かって飛んだ。

 アリスの視界から男の姿が消える。

 翼を広げて舞い上がってくるのだとアリスは信じた。

 信じていた。


「ちくしょう、バカなマネを!」

「攫われた子どもを保護できただけでも良かった。すぐ本部に連絡をして……」


 とっくに下に落ちていてもおかしくない時間が経っても、アリスは信じていた。


「……了解。容疑者は屋上から飛び降りて死亡。これから少女を連れて帰投します」


 警官がそんなことを言っていたのが聞こえても、アリスはまだ信じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る