第8話 - 小野田 麗音
どこかで自分の名前を呼ぶ怒鳴り声がした。
――麗音! 麗音!!
――父さんが言うことを聞かねえのか!
――今すぐ持ってこいと言ったんだろうが!
父さんはアルコール依存症だった。
――黙って言う通りにしろ。
――大学? バカバカしい妄想に浸かっては……。卒業後は働くことだけ考えろ。
――あいつの真似しやがって……! お前今自分の父をなめてんのか!
いつも見てる夢だ。
うんざりするほど地獄のような風景を、いつも見てきた。
小学校5年生からこの夢は続いている。悪夢は現在進行形で夢から覚めても覚めなかった。
『りっちゃん。パパはね、心が怖い病気にかかったのよ。だから、麗音とママはパパの病気が治れるように神様にお願いしよう。早く元のパパに戻ってくるようにね』
そう言ってたお母さんの願いは、7年が経った今でも叶われなかった。
その日も同じだった。
悪夢はいつものように繰り返されて、私と母を蝕んできた。
父さんは母さんの頬を強く殴ったし、母さんは中心を取れずにそのまま転んだ。転びながら食卓の角に強く頭をぶつかった母はそのまま気を失い、裂けられた後頭部は血まみれになって……台所の床をたっぷり濡らした。そして母さんがこぼした赤い鮮血は、私に父さんが母さんを殺したと認識させるに十分だった。
その後のことは、よく覚えていない。
気を取り戻すと私は父さんの上で血まみれになって包丁を持っていて右手は高く上がったまま、取っ手が壊れそうに握りしめていた。殺されたと思った母は、なぜか私を抱え込んで泣き叫んでいた覚えがある。
これはただ、それだけのお話。
一億二千万の人の中で、たった一人のお話だ……。
目から涙が流れていた。
両手で顔を隠して、ひたすら泣いた。
どうしてだろう。その日もこんなに泣かなかったのに。
どうして今日は、この悪夢にこんなにも心が痛いんだろう。
そう10分ぐらいは泣き続けたんだろうか。ようやく我に返って、裾で目元を拭いてはゆっくりとベッドから身を起こした。
ここは……?
見たことのない部屋だ。小ぢんまりな部屋で壁にはありふれたアーティストのポスター一つすらない。少し離れたところで、男の子が寝ていた。薄い布団をかけて寝ているのは間違いなく矛院君だった。
ここは、矛院君の部屋か。昨日は何とか生き残ったらしい。彼が助けてくれたのかな? よく覚えていないけど、それだったら後で彼にはちゃんとお礼を言って置かなきゃ……。
そんなことを考えていると、矛院君の体がぶるぶるしていた。寒いのかな。
自分がかけていた布団を手にして、彼の上にそっとかけてあげた。そうすると、彼の震えが少しは落ち着く。その様子に思わず口が微笑んでしまう。完全に目が覚めてしまってこれ以上寝る気にならなかった。矛院君が起きるまで待つつもりだけど、どうしようかな。疲れたけど、何かをしたい。寝たらまた怖い夢を見てしまいそうだった。彼が目覚めるまでは少し時間が残ってる。何か楽しいことないかな?
「……」
暇だったから、矛院君の部屋を探検することにした。せっかく入ってるしね。
小学校以来男の子の部屋は初めてだし、彼も寝てるからちょっとだけはいいよね……?
どこかでエロ本がいっぱい隠れているとか? あはは。
一人で変な妄想を楽しみながら静かにあちこちを見回る。たんすとデスク、そして本棚にはたくさんの本がは差し込まれていた。一方では漫画とゲーム雑誌。あ、コンソールゲーム機も持ってる。TS4だね、これは。
そして、その反対側ではよくわかんない本がいっぱい入っていた。一つを手にして開いてみる。ページにははっきりと彼の痕跡が残っていた。ページをめくる。次も、その次のページも。どこでも彼の痕跡がいっぱいだった。下線、メモ、追加説明、ある論文の引用など。ところどころに残っている勉強の跡。彼が残した跡を追いつくのはとても楽しかったが、本を閉じてそのまま本棚に返して置く。これ以上彼の本を勝手に読んでしまっては、本当に失礼になりそうでやめることにした。
彼のベッドに戻って腰を下ろす。ぼうっとしていると矛院君が寝返りをした。彼の顔がこっちから丸見えになる。
じっと見つめる。
じい―――――っと。
じいいいい――――――――っと。
あら。
意外と顔かわいいね。もし弟がいたら、矛院君みたいな感じなのかな? 周りに兄弟がいる人は全部否定しそうだけど。
「ねえ、矛院君。寝てる……?」
もちろん返事は返って来ない。彼はすーすーと。静かに息を出しながら熟睡している。彼のふかふかとした頬をちょいと刺してみる。反応がない。
「寝てるんだ……」
彼が寝ていることを確認してから体を起こした。
「……一回しか言わないよ? よく聞いてね」
腰を曲げて、寝ている彼に顔を近づける。言いたいことを耳に向かってひそひそしゃべた後、少しはすっきりした心になった。ドアノブに手を当てて、彼の部屋から出る。
「おやすみ」
その一言だけを残して。
もちろん、返事は返ってこなかった。
◁▷
胸が弾けそうだった。
片手で自分の口を隠す。そうしないとすぐにでも叫びそうだ。
「ヤバい……」
ドク、ドクと。心臓が激しく脈を打つ。
「今のは、ちょっと反則だろう」
脱力してぐったりする。小野田が耳に囁いた言葉が頭から離れない。
「何がありがとうだ、あのバカ……」
30分ほど時間を置いて一階に降りていくと、台所からいい匂いがした。何だろうと思って
匂いがする方向へ向かうと、驚くことにそこには小野田が立っていた。
「あ、起きた?」
「あ、ああ。……何してる?」
「何って、見れば分るでしょう」
「いや、それは分かるけど」
小野田はにこっりと笑いながら忙しく手を動かした。
「昨日のお礼と言うのもあれなんだけど、何かしようと思って台所を借りたの。どうせ私も朝ごはん食べなきゃいけないだろうしね」
「そ、そうなんだ」
首を縦に振りながら冷蔵庫から水を取り出す。ごくんごくんと水を飲みながら小野田をちらっと見つめる。何でだろう、知らず知らずに意識してしまう。
細い指は上手な動きだった。結構馴染んだことに違いない。よく料理とかしてきたんだろうか。何よりも小野田は今白いエプロンをかけて短いボブカットを後ろに結んだ、とても小さいポニーテールだったけど、これがなかなかかわいい。白い首が露わになって心が囚われる。胸に手を出すと心臓がドキめく。ちょっと、何で高鳴るんだ? こんなこと一度もなかったのに? 何で僕は、小野田を意識してる?
「どうしたの?」
びっくりして何が? と問い返す。小野田は先からその場でぼーっとしてるじゃんと言いながら首を傾げた。視線を逸らしたまま適当にごまかす。なんだか気分が落ち着かない。
先小野田に変なことを言われたら頭もおかしくなったようだ。何でいきなり……小野田が、こんなにもきれいに見えるんだ……?
いやまあ、彼女が元々美人だったことは否定しないけど。今更?
「よし、できたよ。あ、ちょっと待ちなさい! 座る前に洗顔からしてきてよ。あんた目やに付けたままご飯食べるつもり?」
「うるせえなー、うちの母さんかよお前……いてっ!?」
叩かれた。
「バカなこと言わないで。いくら命の恩人でも私のご飯に目やにを落とせたら許さないから」
「ちぇっ、ケチ……」
「待ってるから早くきてね~」
やむを得ずにはいはいと答えると、後ろから小野田の笑い声が聞こえてきた。
食事を終えてから僕たちは外に出た。
僕は小野田を送ってあげながら昨日のことを説明する。小野田が幻覚で苦しんで、僕が安城を……ジョーカーの能力を使ってやっつけたことを。小野田はすべての話を聞いてただ静かにありがとうと言うばかりだった。小野田が昨日のことで一晩中に寝てたので定期報告会の話しもした。状況は変化をもたらした。初めての脱落者が出たのだ。その中の一人は僕が落としたタワーカードの持ち主、安城葉月だ。昨日は安城以外に二人の脱落者が出てきた。残った人数はこれで10人。僕たちを除ければ後8人だ。その中二人は僕たちも知っている重火器の少年。そして白衣の男。残りの6人に対する情報はまだ詳しくない。
小野田と議論して今後の方針は変動なし。一応昨日のようなペースを守って行こうという結論に達した。そして、話が終わると小野田が急にお詫びを言ってくる。
「昨日は矛院君に助けてもらったけど、これからは私もちゃんと戦うから。もう二度と昨日みたいに迷惑はかけないようにするね……本当にごめんなさい」
「いや、迷惑って、ちっともそう思ってないからいいよ」
小野田は僕の言葉に苦く笑うだけだった。
「私ね、一昨日矛院君にさんざん言ってたけど、実は心のどこかで誰かを殺すことを迷っていたらしい。生き残るためなら、私は何でもしなきゃいけないだろうに、そうできなかった。ごめんね、矛院君にだけ辛い思いをさせちゃって」
「だからいいって。本当に気にしないから」
肩をすくめながら小野田にそう言う。
「その話はもうやめよう。ゲームは始まったばかりだし、僕たちに残された課題は多い。今は、これからのことだけを考えるのも手いっぱいだろ?」
小野田は少し驚いた顔をした。彼女の名前を呼ぶと視線を逸らしたまま小さくうん、と答えるだけだった。
小野田を送ってあげた後、鍵で家の玄関を開いたら話声が騒がしく聞こえてきた。
げらげら笑う人々。テレビの芸能番組だ。
「母さん?」
「あー、しゅうちゃんこんな朝っぱらからどこ行ってたの?」
お母さんはそう言いながらテレビのあるリビングルームからちょいと顔を出した。
真っ黒い髪は後ろに長く結んでいるし黒いスーツと眼鏡がよく似合う。夜勤してから家に着いたばかりか、靴下は一方だけが脱がれていた。明るいブラウン系の瞳は目の前の息子にちょっとだけ文句を言っている。
「えっと……散歩?」
「うそつけ! またゲーセン行って来たでしょう!? お小遣いもらったら全部太鼓に打ち込みやがって!」
「いや何でまたその話になるのよ、今月は50回しかやってな……いてっ!」
叩かれた。どうして母さんは息子の趣味を分かってくれないのかな。
「お金の管理は?」
「……しっかりしなければならない」
「家計簿は?」
「付けたって! 今月の予算以内だったからもう小言やめろよ。ったく……」
「うむ、ならまあいいよ」
まあ、こんなお母さんだ。
「それでしゅうちゃん、朝ごはんはどうしたの?」
「あ、今日はすでに食ったけど」
「そうそう、お母さんが言いたいのはそれだよ!」
母さんは両手をぱたぱた動かしながら大げさだった。
「母さんがないとレトロ食品ばっか食べてるしゅうちゃんが今日は朝っぱらからちゃんとしたご飯を食べたのよ! ねえねえ、これどうしたの? まさかしゅうちゃん……」
げっ、また始まった。
「か、かかか彼女とか!?」
「いません、そういうの」
「そんなに隠さなくても……」
「いや本当にいないって……、もう、母さん。徹夜して帰ってきたら変なこと考えずにぐっすりと寝てよ」
「もう、しゅうちゃん冷たーいなあ。それに母さんまだ朝食食べてないもの」
「なんだ、食べなかった?」
台所に行って残ってるおかずとかを確認する。みそ汁は、レトロでいいか。小野田が色々作ってくれたので朝ご飯は結構しっかりと用意できそうだった。
「守優也が用意してくれるの?」
「まあ、友達が作ってくれたもんだけどな」
「やっぱり彼女?」
「男よ! 夜遅くまで一緒にゲームしてて朝に帰っただけなんだから!」
昨日うちで泊まったのが女の子だってことを知られた面倒くさくなりそうだからそう言い回した。お母さんはなんか信じられないと言う表情だったが、それ以上に何かを聞いてきたりはしなかった。ようやく楽な服に着替えた母さんが食卓の前に座る。小野田が作った料理は、幸いにお母さんの口にも合っていた。
「おいしい……ねえ、しゅうちゃん。遊びに来てた子ってコックでも目指してる?」
「いやあ、そーゆうもんではないと思うけどな。単純に長い間料理して腕が上手いって言ってた」
もちろんただ僕の予想だけどな。うそを付くのはよくないけど、面倒くさくなる状況だけは避けたい。すると母さんは静かによかったと。そんな言葉をを残した。意味が分からなくて問い返すと、お茶で喉を濡らした後言葉を継ぐ。
「しゅうちゃんって、中学校以来に友達を家に呼ぶことがなくなったから。それに遊びに行くのも小学生の時と比べるとものすごく減ってたし」
その言葉に僕はなんと答えたらよかったんだろう。僕にできることは母さんの話を静かに聞くだけだった。
「母さんはね、仕事が忙しくて守優也の面倒をいつも見てはあげられないけど、だからと言って守優也の心配をしないわけじゃないわよ。何か悪いことでもあったらどうしようといつも心配してるだもん」
「んなこと……ねえよ」
またうそを付いてしまう。唯一の家族に、心配をかけたくはないから。
矛院冴子はたった一人だけの家族だ。
父さんはいない。矛院というのも母さんの苗字で、たぶん……離婚だったらしい。詳しい理由は聞いても答えてくれなかったので……ただそうだと知っている。
大人の事情っていうものだろう。今まで一人で僕を育ててくれた母さんだ。
母さんには、いつも悪くて、ありがたいだけだった。
「まあ、みんな高校生になると忙しくなったからな。 学校ではよく遊んでる」
「そう? ならいいけど。何かあったらお母さんに相談しなさい。母さんは正義の味方ではない。息子の味方だから」
「無駄に格好つけるのやめて、恥ずかしい」
「ほら、いちいち突っ込まなくていいのよ! だからあんたは女の子にモテないんだ!」
「うちの母って何でこんなに息子の恋愛事情なんかに関心を持つのかな……」
「だって君の母は女性雑誌の編集長だもん。面白い記事なら何でも書くわよ」
「息子を売るのですか! そうなんですか! 僕のプライバシーは!?」
「福沢諭吉になって帰ってくるからいいんじゃない?」
「そういうものだったらぜひ売ってくださいお願いします」
「さすが我が息子。骨の髄まで資本主義の奴隷ね」
「ふふふ、すべて母さんの教育のおかげです」
「妙にディスってる気がするけど……それで何かあります?」
「ちっともありません」
「なに、つまんない」
「だってやっとゴールデンウイーク明けただけだし」
「あらあら、この子ってば、恋は一瞬なのよ? 普段は全然気にしなかった女の子がいきなり気になったことない?」
……いきなり今朝のことが思い浮かんだ。ポニーテールをして白い首の線が露わになる小野田が、ちょっと恥ずかしがる表情でこっちを見つめる。
『矛院、君……好き……』
「やっぱりあるんだ?」
「ありません絶対に!!!」
「なんか、すっごくありそうだけど?」
「ない! 絶対にない!!」
「あ、そう? まあ、いいけど」
母さんはそう言って食べ終わった食器を片付け始めた。それを手伝いながら思わずぶつぶつする。まったく。母さんのせいで変な妄想が展開されてしまった。
「じゃあ、しゅうちゃん。母さんはもう寝るから。昼になったら起こしてちょうだい」
片手を振っては母さんは一階の自分の部屋に足を運ぶ。
「守優也」
入る前に、もう一度僕の名前を呼んだ。後片付けを止めては後ろを振り向く。母さんは優しく微笑んでは、
「たくさんの人とぶつかりなさい。それはきっと痛いだろうけど、あなたを素敵な人に変えてあげるわ」
「……はいはい」
「母さんがいつも言ってたよね? 『始まりがあれば』?」
「『終わりもある』。忘れてないって」
「うんうん。やっぱり矛院冴子の息子だわ~じゃあ母さん本当に寝につくから」
母さんはそこまで言って台所を去った。もう見えない母さんの後ろに向けて僕は小さく呟く。
「おやすみなさい」
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