非双方向コミュニケーションの顛末

葉原あきよ

第1話 引っ越し

 部屋の片づけを始めた彼女が引っ越すつもりだと僕が気づいたのは、ダンボールが数個積み上げられてからだった。

『僕に相談もなくそんな大事なことを決めるなんて』

 当たり前だとわかっていたけれど、嘆かずにはいられなかった。

 次々と仕舞われていく彼女の大事なもの。何のためらいもなく捨てられていく要らないもの。僕も捨てられる方なんだろう。いや、置いていかれるのか。

 引っ越し当日。玄関ドアを開けた彼女は、業者が荷物を運び出した後のがらんとした部屋を振り向いた。見送りに出た僕は、聞こえていないし見えていないと知りつつ『元気でね』と手を振った。

 彼女がいないこれからの日々を想像する。こんなに相性のいい同居人はもう現れないと思う。

 そうだ。いっそのこと彼女に取り憑いてやろうか。そうしたらずっと――。

 僕は彼女に手を伸ばす。今のこの気持ちなら届くかもしれない。いつも向こうが透けている自分の手が、黒いもやを纏っている。

 僕の手が到達する寸前、彼女はふわりと微笑んだ。

「今までありがとう」

『えっ!』

 驚きの声を上げる僕。しかし彼女と目が合うわけではない。一人暮らしなのに「いってきます」と「ただいま」を欠かさない彼女だ。おかしくはない。

『あなたには敵わないな』

 肩透かしを食った僕は苦笑する。僕の手はもういつもの半透明に戻っていた。彼女の髪を引っ張ろうとしてもすり抜けてしまう。

『さようなら』

 力を込めるとほんの少しだけ空気が動いて、彼女の髪が微かに揺れた。

 彼女は微笑んだまま、首を傾げた。

「一緒に来る?」

 今度こそ目を見開いて、僕は彼女を見つめた。やはり彼女の視線は僕から少しずれている。しかし、そんなことは瑣末だ。僕は震えながら、うなずいた。

 その瞬間、何が切れた。

 そして、新しく繋がった。

 僕の鎖の根元がこの部屋から彼女に移ったのだ。

 彼女が外に出る。僕も一緒に外に出る。

 最後に部屋を出たのはいつだっただろう。眩しい初夏の日差しに、影のない自分の足元。

 彼女は僕を振り返らずに歩き出す。僕は彼女の後を追いかける。

 本当は見えているんじゃないのかと、これまでも疑ったことがあった。いろいろ試して、その度に期待は外れた。でも、もうどちらでもいい。僕は彼女のものだから。

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