『霊長類 浅倉南へ』な話

「そうそう。今度お前の学校行くぞ」


 総一郎が隼人からそう言われたのは、水曜日朝の電車の中でのことだった。


「残念ながら日曜日に野球の練習試合でだけどな。頑張ってくるよ」


 髪を掻きながら、かなりバツが悪そうに笑う彼。

 総一郎の気持ちは瞬時に高揚した。


(これは……! 野球をする彼の姿が……初めて見られる?)


 さっそく、『ならば応援に行かなければならないな』と答えようとした。

 が、寸前で思いとどまった。


(ちょっと待て。失敗はこういう気分のときに起こりやすい)


 ここは落ち着いて考えるべきということで、総一郎は一度心の中で深呼吸。隼人からかけられた言葉を、高速かつ慎重に振り返った。

 ここでつまらないミスを犯して評価を下げることがあってはならない。


 まずは、彼の言葉の「残念ながら日曜日」という部分に注目した。

 生徒会役員というものは、行事直前などの繁忙期以外、日曜日に学校に行く用事はない。そして今が繁忙期でないことは、つい数日前に電車内で生徒会の話題になったため、隼人も知っている。

 そのうえでの「残念ながら」である。

 彼は「見に来てくれ」とは一言も言っていないし、そこにあえて応援に行くという行為は、積極的すぎて引かれてしまう可能性あるのではないだろうか。


 さらに精査すると、「残念ながら」が「日曜日」だけでなく「練習試合」にも係っているのではないか、という疑惑も浮上した。

 彼は野球部のレギュラーで、ポジションはピッチャー。ガチの球児である。

 そして高校の野球部となると、学校の看板を背負って戦うというイメージが強い。

 そう考えたときに、『対外試合で堂々と相手の学校を応援する生徒会役員』というのは、彼の目にはどう映るのだろうか?

 野球部員でない総一郎としては推し量るのが難しかったが、彼の中の『総一郎の株価』が大幅に下落するリスクがあるような気がした。


(あぶない。ストーカー認定されたあげく生徒会失格の烙印を押される可能性もあった)


 模試で出題される問題は簡単だが、彼が出題する問題は非常に難しい。


(『休むも相場』『最初のチャンスは見送る』などの格言もある。ここは自重しよう)


 総一郎は『見にいきます宣言』を返すのはやめることにした。


「そうか。生徒会役員として堂々と対戦相手を応援することはできないが、よいプレーができるよう心の中で祈っているよ」


 無念ではあったが、総一郎は平静を装い、そう返した。




 駅の改札を出て学校に向かいながら、総一郎は考える。


 彼が野球をしているところ。

 想像は何度もしたことがあった。

 きっと、通学のときや勉強のときとは全然違う雰囲気になるのだろう。そう思っていた。


(やはり、見たいな)


 見たい。

 見たい見たい。

 見たい見たい見たい。


 見たい感情がどんどん増殖して頭の中を占有していくなか、総一郎は信号のない横断歩道を渡ろうとした。


「――!」


 車の急ブレーキの音。総一郎の足も止まる。

 総一郎の目の前で、一台の軽自動車が止まった。


「悪ぃ、兄ちゃん。大丈夫か? ここはいつもコンビニ客の迷惑駐車が並んでてよ。渡ってくる奴が見えにくいんだわ」


 開いた窓から中年男性がそんなことを言った。

 と同時に、一つのアイディアが出てきた。


(なるほど。その手があった)


 総一郎は運転席のほうに回ると、男性に話しかけた。


「ありがとうございます。おかげでよい案が浮かびました」

「ん? いい案? なんのことだ?」

「日曜日まで今日を含めて四日。努力できることは色々あると思います。頑張ります」

「はあ?」


 総一郎は一礼すると、ふたたび学校へと向かって歩き出した。




 * * *




 日曜日の朝。

 総一郎は、通っている学校の旧校舎四階の外階段にいた。


 現在は理科・家庭科・美術科などの授業でしか使われていないものの、天井の低さ以外はさほど古さを感じず、かなり重厚なコンクリート造りの校舎である。

 外階段も手すりの部分までコンクリート造りであり、外からは胸から上しか見えない。発見されにくいうえに、いざとなったらしゃがんで隠れることも可能だ。


 水曜日の昼休みに、場所探しを済ませていた。

 グラウンドにある野球場を三塁側から見下ろすようなかたちになり、ピッチャーである彼のことがよく見える。それでいて、逆に野球場のほうからはまず目に入ることはない。

 それがこの場所だった。


 そう。

 総一郎は今回、彼の試合を「こっそり見る」ことにしたのである。


 空に浮かぶ雲の色は、白い。


(彼の眩しさは六月の空すらも浄化し尽くすか――)


 雲量も四割以下といったところ。梅雨入りしていることが嘘のような、非常によい天気の日曜日だった。


(準備はおそらく完璧だ)


 念には念をということで、木曜日に購入したチャコールグレーの「用務員作業服」および水色の「作業帽」を、先ほど着用して変装していた。

 目にも眼鏡ではなく、ワンデータイプのコンタクトレンズを着用している。これは双眼鏡を使いやすくするためと、万一彼のチームメイトに発見された際、『メガネかけてる奴が変なところで試合を見てたぞ』となって隼人にバレてしまうことを防ぐためである。


 さらに、水曜日の放課後に本屋で野球の専門書を購入し、その日のうちに読破していた。知識なしで見ることは失礼と考えたためである。ルールは一通り理解済で、スコアブックをつけられる程度の知識はついた。

 それに加え、野球漫画『MAJOR』全七十八巻と『タッチ』完全版全十二巻も購入しており、金曜日と土曜日で読破。野球で起こりうるドラマもある程度は把握している。

 死角はない。




 隼人の学校のチームが、試合前の練習をおこなっている。


 マウンドの上にはもちろん彼の姿。背番号はエースナンバーの一番をつけていた。

 オーバースローの投球フォームはよどみがなく、腕もしなっているように見える。


(速い。何キロ出ているのだろう)


 キャッチャーミットにボールが吸い込まれるたびに、都度気持ちのよい音が総一郎のところまで届いてくる。

 受けているキャッチャーがときおり大きくうなずいて返球しているので、今日の調子は悪くないのだろうと思われた。


(しかし……。野球のユニフォームというのは、体の線が出すぎじゃないか?)


 今までそんなことは気にしたことがなかった総一郎だったが、彼が着ているとなると、どうしても注目してしまう。


 しなやかそうな肩や腕の筋肉は、一緒に勉強をしたときにも見ている。免疫はあった。

 だが問題は下半身だ。ユニフォームがピッチリしているので、筋肉が発達した臀部や太ももなどが強調されている。それでいてスタイルの良さに起因するシャープさもあるため、そのシルエットは絶妙なバランス。

 非常にけしからん姿である。


(ああ、いけない。こういう見方は真面目にプレーしている彼に失礼だ)


 総一郎は一度首を振った。


 練習が終わったのだろう。選手たちがいったんベンチに引き上げていく。


 戻る途中、隼人に対し他の選手たちが笑顔で何かを言い、背中や頭をポンと叩いていた。

 隼人以外は全員三年生なのか、それとも同じ二年生も混じっているのかはわからないが、彼もそれに対し笑顔と軽い会釈を返していたようだ。絆が固そうに見える。


(……)


 隼人と話すときはいつも一対一だったので考えたことはあまりなかったが、当然、彼には部活のチームメイトもいれば、クラスの同級生もいるのである。

 あの性格だ。きっと友達も多いのではないだろうか。


 今、知らない人間たちが彼とコミュニケーションを取っているのを見ている。

 微笑ましいという思いとともに、少し乾いた寂しさのような、なんとも言えぬ感情が沸き起こってきた。

 これは――。


(嫉妬か。潔く認めよう)


 こればかりは仕方ない。

 彼とは、学校も違えば学生としての属性もまったく異なる。知らない領域や知ったとしても入り込めない領域が広大であることは、前からわかっていたことだ。

 今発生した問題ではないため、ここで悩んでも意味はない。


 頭はサッと切り替わったが、直後、総一郎の目は驚きで見開かれた。


 ベンチに座って帽子を脱いだ隼人に、一人の女の子が後ろから近づき、タオルを首にかけたのだ。

 そして隼人は後ろを振り向くことなく、片手を軽くあげて応えたように見えた。


(なっ……)


 総一郎は用意していた双眼鏡をサッと構え、事件現場を十分に拡大した。

 その女の子は、背は低めだ。髪型はショートで……前下がりボブというものだろうか? 服装は黒のハーフパンツに、紺のTシャツ。女性マネージャーでありがちな格好である。


 ジト目無表情なのでわかりづらいが、どちらかというと綺麗系というよりも可愛い系の属性で、おそらくかなり器量よしであろうと思われた。


(マネージャーなのは間違いなさそうだが……)


 気になったことがいくつもあった。

 タオルを渡すのはふつう笑顔とともに起こす行為だと思われるのだが、ジト目無表情のままであったこと。後ろから不意打ちのように首にかける渡し方だったこと。彼が振り返らずに返礼をしたこと。

 これは――。


(相当な付き合いの長さと信頼関係がないとありえない)


 野球漫画『タッチ』でいうところの浅倉南、正ヒロインポジションの可能性がある。最大級の警戒が必要かもしれない。

 総一郎の双眼鏡を持つ手に、力が入る。


 そして追い打ちをかけるように、男性部員が一人、笑顔で頭を下げながら飲み物を隼人に渡した。彼も笑顔でそれを受け取る。

 雰囲気的にその男性部員は先輩ではなさそうだ。同級生もしくは後輩か。今はジェンダーレス社会。男でもマネージャーで浅倉南ポジションという可能性はゼロではない。


 そのまま見ていると、さらに他の男性部員が次々と隼人に声をかけていく。


(ああ、ダメだ。彼にアクションを起こす人間がみんな浅倉南に見えてきた)


 霊長類、浅倉南へ。

 読む野球漫画は『MAJOR』だけにとどめておくべきだったか、と総一郎が悶々としていると、両チームの選手がホームベース前で向かい合うように整列し始めた。

 いよいよ試合開始のようだ。


(さっきから余計なことを考えすぎだ。このような体たらくでは彼の試合を観戦する資格はない)


 今度は頭を一度ではなく何度も振り、雑念を取り払いにかかった。


(試験と同じく集中しなければ)


 それはなんとか成功し、プレイボールの声がかかるころには頭が観戦モードに切り替わっていた。

 隼人の学校が先行で、ホームである総一郎の学校は後攻のようである。


(ほう。隼人君の打順は一番なのか。がんばれ)


 右バッターボックスに立った隼人の背中に、総一郎は応援の念を送った。

 バレなければ。声さえ出さなければ。

 思う存分に観戦・応援しても問題はない、はず。


 少なくとも、隼人本人にダイレクトでバレる可能性は極めて低い。

 ピッチャーマウンドでは前を見ているし、バッターボックスでは背中をこちらに向け続けることになる。角度よし、距離もよし。

 ここで見ている限り、ファールボールがたまたまこちらに飛んでこない限りは大丈夫だろう。


 ――カキーン。


(うわっ)


 総一郎は驚き、コンクリートの手すりに隠れるようにしゃがみこんだ。

 ゴンという音と、衝撃。


(……!?)


 彼の大きなファールボールが、階段の手すり部分に直接命中したようだった。


(限りなく確率がゼロに近いはずの事象が起きたぞ……いったいどうなっている)


 総一郎は念のため、少し時間をおいてから顔をあげた。

 彼の打順は終わっていた。塁にはいなかったので、残念ながら凡退してしまったようだ。




 バックネット横にある黒板のスコアボード。

 並んでいるのは、上段も下段も「0」の文字。


 隼人は会心のピッチングを続けている。

 しかし打線も総一郎の学校のエースを攻略できず、均衡状態となっていた。


(うちの学校、進学校のわりには運動部も強いからな)


 生徒会は、『壮行会の開催』や、部活動の活動報告が載る『会報の編集・発行』も大事な仕事である。そのため、おのずと各部活動の成績にも詳しくなってしまう。

 総一郎の学校の野球部は、昔からまあまあ強い。

 昨年夏の地方大会もベスト十六に入っており、今期も評判は悪くない。今日投げているエースも軟投派ではあるが大崩れすることが少なく、打線もかなりの破壊力があると聞いていた。


(うちの打線を抑えるのは大変なはず。隼人君はすごいかもしれない)


 まだ三年生が引退していないのに二年生でレギュラー、しかもエースと聞いていたため、きっと良い選手なのだろうとは思っていたが、それを直に確認できるというのはうれしい。

 総一郎は顔をほころばせながら観戦を続けた。


 均衡が崩れたのは、6回表だった。


 隼人のレフト前シングルヒット、および二塁への盗塁から打線がつながり、彼の学校に1点が入った。


(たしか打順1番というのは、出塁率が高くて走れる選手が適役だったはず。彼、バッターとしてはそういう選手ということなのだろうな)


 彼についての新しい知識が増えていくのもありがたい。




 流れは隼人の学校へ傾いたと思われた。

 隼人の今日の調子を考えると、このまま試合が終わってもおかしくないと総一郎は思っていた。


 ところが。


(ん?)


 8回裏、隼人の快速球にタイミングが合ってきたのか、それとも彼が疲れて球威が落ちてきたのか。先頭打者がセンター前ヒットで出塁し、二人目の打者もレフト前ヒットで続いた。

 その後送りバントでランナーは進塁。隼人は初めて三塁を踏まれ、一アウトでランナー三塁・二塁となった。


(これは、まずそうだな)


 マウンド上の隼人が帽子をとり、アンダーシャツの袖で顔の汗をぬぐっている。表情も序盤に比べて余裕がなくなってきたか。

 内野手がマウンドに集まってきた。

 総一郎は双眼鏡でマウンドを拡大した。

 どうやら内野手は頑張れと声をかけているようだ。


(自分もここから声をかけたいな)


 もちろんそんなことはできない。我慢我慢、である。

 激励タイムが終わり、隼人が投球を再開した。

 フォームは一段と力強く感じた。かなり気合いが入っているように見える。


 自分の前では発したことがない彼の雰囲気。

 見ているだけの自分の体にも力が入る。


 全力で放ったであろう隼人の投球。

 対する打者がバットを振る。

 金属音が響いた。快音ではない。

 力なく上がった打球は、ファールグラウンドで一塁手のミットに収まった。


(もう一人。がんばれ)


 総一郎の目から見ても、ボールの緩急はなくなっていた。速球のみ。


 さきほどのタイム後より、キャッチャーからサインらしいサインは出なくなった。構えもど真ん中のみだ。そして一球一球、隼人が投げるたびにコクリとうなずいている。

 細かい駆け引きはせず、とにかく全力で活きたボールを投げる。そういう方針でこの危機を乗り切るということなのだろう。


 さすがに打者も球種は読めているはずだが、バットをかすらせるのが精一杯。ボールを前には飛ばせない。

 あっという間にツーストライクとなった。


 そして。

 さらにギヤが上がったのか、投球動作の勢いで隼人の帽子が舞った。

 打者のバットが……空を切った。

 キャッチャーミットから、この日一番の捕球音がした。


 高らかに響く、「ストライク」の声。

 バッターアウト。スリーアウトチェンジだ。


「よし!! ナイスピッチングッ!!」


 総一郎は拳を握りしめ、思わずそう叫んでしまった。

 慌てて口を手で押さえ、コンクリートの手すりに隠れるようにしゃがみこむ。

 そして頭部だけそーっと手すり上に復帰させ、隼人が他の野手と笑顔でタッチを交わしながら引き上げていく様を見届けた。




 結局、試合は1-0で隼人の学校が勝利となった。


 総一郎はゲームセット後の整列および挨拶を見届けたあと、しばらく余韻に浸ったのち、撤収に入ろうとした。


(今日は見に来てよかった)


 心底そう思いつつ、双眼鏡をバッグにしまった。

 トイレの個室に入って用務員作業服から制服へと着替える必要があるが、日曜日は外階段からの入り口が施錠されているため、いったん降りなければならない。


 ……が。


 広い踊り場で振り返ると、いつのまにかそこには、ハーフパンツにTシャツの小さな女の子がいた。


「!?」


 総一郎の心臓が跳ねた。

 足音もしていなかったし、気配もまったくなかった。


 その女の子は、試合開始前に隼人にタオルを渡していた、マネージャーとおぼしき女の子だ。

 双眼鏡で見たときと変わらない、ジト目無表情。

 彼女は総一郎を無言で見つめながら、一歩、また一歩と近づいてきた。


(なぜここに?)


 無意識に総一郎は後ずさっていた。

 すぐに背中が手すりに当たり、それ以上は下がれなくなった。

 あえなく詰まっていく距離。


 女の子は、ほぼゼロ距離で総一郎の顔を見上げてきた。

 総一郎は気圧され、上体を反らせてしまう。


「やっぱり。用務員さんじゃないね」

「……!」


 いきなり変装を見破られて驚く総一郎に対し、女の子はジト目で顔を覗き込み続けた。

 やがて一言、ボソッとつぶやいた。


「イケメン」


 女の子はそれだけ言うと一歩下がり、ようやくパーソナルスペースから抜けてくれた。


(なんだ? 何が起きている?)


 総一郎は眼鏡を直した……つもりが、コンタクトだったので空振りして右手が宙を泳いだ。


(落ち着け)


 行き場の失った右手で一度胸をおさえ、ゆっくりと元に戻した。

 この敵は確実に手強い。浮足立ったままでは戦えないと本能的に判断していた。


「君はあっちのマネージャーだな? 僕になんの用かな」


 嫌な予感とともに、そう聞いた。

 それは即的中した。


「あんた、こっちが8回にピンチを切り抜けたときに、大きなガッツポーズしてた。で、すぐに隠れた」


 総一郎の心臓がふたたびドクンと大きく拍動した。

 しっかりと見られてしまっていたのだ。


 彼女の右手には、ボールが握られている。

 ゲーム開始直後の特大ファールボールを今探しにきて、そのついでにここに寄ったのかもしれない。

 ここは野球場から自然に観察できる場所ではない。特大ファールボールが飛んできた時点で、階段に誰かいるというのがこのマネージャーにバレていて、そこからずっとマークされていたのだろう。


「あと、6回にうちのバッター……隼人がヒットを打ったときも、小さくガッツポーズしてた」

「は?」


 声が出てしまった。

 それは総一郎本人もまったく身に覚えがなかった。無意識に出ていたか。


「どうして。あんたここの生徒でしょ」

「なぜわかる?」

「最初はカン。でもあんた、今さっき、わたしのことを『あっちのマネージャー』って言った。だからもう確定」

「……」


 けっして追及するような厳しい口調ではない。

 だが、ジト目に無表情が恐怖だった。


(どうする……)


 こんな事態は想定していなかった。

 階段は屋上まで伸びておらず、建物側の扉も施錠済み。逃げ場はない。


(正直に答えるしかないか)


 変装も一瞬で見破られているし、ごまかせそうな気はしない。

 素直に回答を返すことにした。


「僕はそちらの学校の隼人君の友人で、個人的に彼を応援――」

「怪しい」

「何?」


 すぐに遮られてしまったうえに、意外な言葉が飛んできた。


「怪しい。本当に友達なの」

「なぜそこを疑う?」

「わたし、隼人を幼稚園のころから知ってる。小学校も中学校も同じ」

「……!! 彼の幼馴染で同級生、そしてマネージャー……だと……?」


 衝撃のあまり、またも心の中の声が口から出てしまっていた。

 この女の子、無表情なのでけっして快活な印象があるわけではない。だがこれはまぎれもない。ポジションは『タッチ』でいうところの浅倉南。確定だ。

 総一郎はそう思い、いっそう警戒を強めた。


 ところが、女の子は変わらぬ表情と声のトーンで、誤りを指摘してきた。


「同級生じゃない。学年は一つ下」

「!?」


 後輩だったようだ。


(ということは)


 浅倉南ではなく新田の妹ポジション? 新田の妹といえば負けヒロイン。ならば脅威とはならないのか?


 いや、違う。わかったのは同学年ではないという事実だけだ。

 幼馴染の属性は解消されていない。新田の妹ポジションと決めつけるには早すぎる。だいたい、『タッチ』では新田の妹は一つ下ではなく二つ下だったはずだ。


 それに、浅倉南と新田の妹のいいとこ取りの可能性もあるのではないか? 史上最強のスーパーヒロインとなる可能性も否定できないのでは?


(あ)


 総一郎は、また脳が不随意に余計な思考を巡らせ始めていたことに気づいた。

 理性で抑えつけにかかる。


(どうも最近は脳の暴走が多いな。いけない)


 今大事なのは、目の前のマネージャーの属性を確定させることでも、勝手に将来を推定することでもない。

 なぜか隼人の友人であるという事実を疑われている。それに対応しなければならない。


(疑われている理由が、『わたし、隼人を幼稚園のころから知ってる。小学校も中学校も同じ』ということは……)


 聞き返せる雰囲気ではないため、今ある材料でやりくりして考えるしかない。


(「本当に友人なのであれば、幼馴染の自分が知らないのはおかしい」という意味かな)


 隼人とは、朝の電車が一緒ということで仲良くなった。

 だがその電車、一般的な学生が乗るよりも早い時間のものだ。総一郎は生徒会おなじみの朝当番のため、隼人のほうは朝の自主練のため、である。

 当然このマネージャーが同じ車両にいたことはない。経緯など知る由もないはず。


(スマホに入っている彼の連絡先を見せられれば楽なのだが。まあダメだな)


 それは重大なリスクが潜んでいる。

 隼人とこのマネージャーがお互いの連絡先を交換していない可能性が0ではないからだ。この様子だとまずありえないとは思うが、0でないということが問題となる。


 万一このマネージャーが隼人の連絡先を知らず、ここで初めて知ることになった場合、客観的には自分が彼の連絡先を第三者に渡す行為となる。

 プライバシー情報は法的保護の対象。自分は個人情報取扱業者ではないので罰則はないものの、違法行為となってしまう。よってその選択肢はない。


(そもそもだ。なぜ隼人君と友人であることを証明しなければならないのだろうか? 謎だ)


 信用してくれてもよいのに。総一郎は不思議に思ったが、この女の子は隼人のチームのマネージャー。無視したり無下に扱ったりもまずい。


 困る総一郎。


「お? ヒマリか? 何やってんだ?」

「――!?」


 そしてなぜか、マネージャーの後ろ、階段のほうから隼人の声。

 ヒマリというのはこのマネージャーの名前か。

 当然のことながら、階段を登りきった彼は総一郎も視界に入る。


「あっ!! 総一郎!!」


 彼のサラサラだった短髪は汗と帽子の癖で乱れ、ユニフォームも膝が土で変色している。総一郎にはそれもまた魅力的な姿に見えた。

 が、この状況である。まずい。


 先ほどのマネージャーからの出題である『隼人の友人である証明』は、彼の登場時のセリフをもって成立としてよいのかもしれない。

 しかし今度は隼人への対応が必要になる。

 窮地は続く。


 なぜ学校に来ているのか。なぜここにいるのか。なぜこんな格好をしているのか。

 きっとそれを聞かれるのだろう。


 瞬時に言い訳の最適解を導くのは不可能だ。

 そもそもこのような状況にならないために、あれこれ練っていたのである。すでに作戦は破綻していた。

 彼の中での総一郎株は暴落。明日はブラックマンデーになるかもしれない。


(どうする……)


 楽器ケースに入る?

 プライベートジェットで国外逃亡?

 もはやまともな打開策は思い浮かばない。総一郎は死を覚悟した。


 しかし――。


「俺のプレー、見にきてくれてたんだな! ありがと!」


 隼人は満面の笑みでそう言って距離を詰めると、総一郎の首に右腕を伸ばしてきた。

 きっと肩に手を回したつもりだったのだろう。

 ところが有り余る力とガサツな動作で、少し彼よりも背が高い総一郎の首は、やや下向きにロックされる感じになった。


 彼はそのまま、総一郎も巻き込んで体を半回転させた。

 その後首のロックがゆるめられ、二人でグラウンドを眺める格好となる。


「おー、ここよく見えるじゃん」


 肩には彼の手のひら、背中には彼の腕が乗っている。その感触も心地よい。

 数秒経つとそれは外されたが、今度は両肩をがっしり掴まれ、強引に四分の一回転させられた。

 向い合わせになる。


「また機会あったら見てくれよな!」


 満面の、笑み。


(……)


 こっそり観戦していたことを突っ込んでくることもなく。

 不自然な変装をしていることを訝しんでくることもなく。

 ただただ、笑顔を向けてくれる。


 なんてシンプルで。

 なんて眩しいのだろう。


 首や肩に感じた粗暴さと大雑把さも。

 組みつかれてからほのかに感じていたユニフォームの土の匂いも。

 とても気持ちがよかった。


「本当に友達なの?」


 横でふたたび同じセリフを呟いていたマネージャーの声は、もはや総一郎の耳に届くことはなかった。




 * * *




 総一郎の学校をあとにした隼人は、列を作って歩くチームの後ろのほうにいた。

 電車移動だったので、向かう先は最寄りの駅である。


(そういえば、違うとは言われなかったな)


『俺のプレー、見にきてくれてたんだな』


 今思えば、総一郎が試合を見ていたのは、ただの自校の応援や、何か他の用事があってたまたま、という可能性もあった。

 だが否定されなかったということは――。

 自分のプレーを見るために、彼はわざわざ来てくれたということになる。


(うれしいなあ)


 ニヤニヤ。


(眼鏡外した顔も見られたし)


 なぜ外していたのかまではわからなかったが、彼の眼鏡なし姿も初めて見ることができた。それも大きな収穫だった。


「隼人、機嫌がいい」


 ボソッと横でつぶやいたのは、マネージャー・日毬(ひまり)である。


「ん、そりゃ勝ったからな」

「怪しい。それだけじゃない気がする」

「……それだけだぞ?」

「本当?」

「本当だぞ?」


 ゆるむ口元はとまらない。

 疲れているはずの足も、どんどん弾む。


「怪しい」


 横でふたたび同じセリフを呟いていたマネージャーの声は、もはや隼人の耳に届くことはなかった。




 * * *




 その日の夜。

 総一郎は日課の勉強を終えると、ベッドの布団の中に入った。


 仰向けになると、ちょうど音が鳴った。スマホだ。


(LINEか。お、隼人君だ)


『今日はサンキュー』という彼のメッセージから始まり、メッセージで会話を交わしていく。


(なるほど。マネージャーがボール探しから帰ってくるのが遅かったから、隼人君も探しに来たということなのか。普通はうちの学校の部員が探すものだと思うが、打ったのは彼だったから悪いと思って志願したのだろうな)


 彼が突然あの場所に登場した理由がわかった。

 他にも、こちらから試合の細かい感想を伝えたり、学校の敷地に初めて入った感想を聞いたり。

 一通りのやりとりが終わると、メッセージは一度止まった。


 そろそろ寝る旨のメッセージを送ろうか。

 そう思ったときに、彼からこんなメッセージが来た。


『あ、お前けっこう私服ダサいときもあるんだな! 安心した!』


(……!? 私服だと思っていた……だと?)


 あれはどう見ても用務員の格好だったはず。

 そもそも学校なのだから私服で来ることはない。制服でない時点で普通は疑うだろう。さすがに私服説は無理があるのでは?


(ああ、そうか。これも彼なりの気遣いなのだろうな。きっと)


 これは気づかないふりだ。総一郎はそう思った。

 すべてわかったうえでのすっとぼけで、こちらに恥をかかせないようにする気遣い。そういうことなのだろうと思った。


(アスリートというのは自分に厳しく、他人に優しい。素晴らしいな)


 総一郎の表情が和らぐ。

 今日は想定外のことが多く神経が張っていた時間が長かったが、すっかり気が休まったような感覚がした。


 が。


(……これ、どう返事をするのが正解なのだろう?)


『はい、ダサいです』でよいのか?

 仰向けでスマホを持った状態でそのまま考えたが、自信の持てる答えをひねり出すことはできなかった。


 やがて寝落ちし、スマホが顔に墜落した。






(『霊長類 浅倉南へ』な話 終)

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