白菜の花

春日千夜

白菜の花

「キヨミ。今日、白菜の花が咲いたよ。白菜にも花が咲くって、お前は知ってたか? 俺は知らなかったよ」

 俺は一人呟きながら、花をつけた白菜を仏壇に置いた。マッチを擦ってロウソクに火をつける。炎に照らされて、小さな花がゆらりと揺れた。線香から立つ煙が、笑うキヨミに被らないよう、俺は線香立てを横にずらした。

「初めて見たが、ずいぶん立派な花が咲くもんなんだなぁ。冷蔵庫の中だっていうのに、蕾をつけて花が開いてたんだ。こんな冷たい場所でも、生きていける力があるんだなぁ」

 俺は手を合わせ、心の中で話を続けた。


 キヨミ。サチにな、「お父さんは、お母さんの分まで長生きしなきゃダメだ」って、怒られたよ。でも、なんでだろうなぁ。サチの言葉が響かないんだ。俺の世界は、すっかり色を無くしちまった。お前が好きだと言ってくれた俺の色は、何色だったかなぁ。


 俺は目を、ゆっくり開けた。笑っているはずのキヨミの顔が、ほんの少し歪んだ気がした。

「そんなに心配するな。まだお前の所には行かないよ。サチが泣くからなぁ」

 俺はロウソクの炎を消して、立ち上がる。キヨミが植えたミモザの花が、庭で揺れるのが見えた。窓越しに空を見上げたが、あいにく今日は曇り空だ。薄暗い空は、まるで線香の煙が燻っているようだった。俺の腹が、ぐぅと鳴いた。

 久方ぶりに台所に立とうと思ったら、この様だ。早く何かを寄越せと、朝から腹がうるさい。これほど悲しく辛くとも、腹は減る。あの白菜は、水も土もない冷蔵庫で、なぜ花開いたのだろうか。腹は減らなかったのだろうか。植物の事なんか、俺には分からない。キヨミなら、分かったのかもしれないが。

 とにかく俺は腹に何かを押し込めるべく、上着を羽織って外へ出た。今の時代は少し歩けばコンビニがある。便利な世の中になったもんだ。


 朝飯を手に入れて店を出ると、一匹の野良猫がいた。そいつは、にゃあと鳴いて俺をじっと見つめた。

 俺が「悪いが、お前の飯はないよ」と言うと、分かってるとでも言うように、猫は澄ました顔をした。自分から鳴いておいて何だと寂しく思いながら、俺は歩き出す。しかし何の用があるのか。猫は歩く俺の周りを、ぐるぐると回った。

「お前なぁ。何がしたいんだ」

 睨む俺に、猫は再びにゃあと鳴くと、付いて来いとでも言うように、数歩歩いて立ち止まった。俺は無視して帰ろうとしたが、猫はまたぐるぐると回り出す。俺は、はぁとため息を吐いた。

「分かったよ。行けばいいんだろ」

 俺は渋々歩き出す。猫は満足気に尻尾を揺らし、俺の前を歩き出した。


 俺は久しぶりに町を歩いた。キヨミとよく歩いた道だが、あいつが入院して以来、俺は病院と自宅を行ったり来たりだった。わずか一年あまりだが、馴染みの店のいくつかは消え、見た事のない看板が立つ。俺は一抹の寂しさを感じながら、猫の後を追った。

「なあ、お前。どこまで行こうっていうんだ?」

 俺が問いかけても、猫は気にもしない。だが猫は、足の悪い俺に合わせて歩く。俺は仕方なしに付いていった。


 やがて小さな川へ出た。土手に上がった猫は振り返り、にゃあと鳴いた。ゆっくり土手を上った俺の前で、花が揺れた。

「これは……菜の花か」

 一面に広がる菜の花畑。俺はこの景色に見覚えがあった。

「キヨミ……」

 猫が俺を連れてきた土手は、キヨミが倒れる直前に一緒に来た場所だった。一年前と同じく、小さく揺れる菜の花は、キヨミの仏壇に置いた白菜の花とよく似ていた。

「おい、お前」と、言いかけた言葉を俺は言い切れなかった。目を向けた先に猫はいなかった。その代わり、曇り空から日が差して、あたりがふわりと明るくなった。そよそよと吹く風に菜の花が揺れる。柔らかな陽光を浴びる菜の花畑の中で、キヨミが笑った気がした。


 俺は踵を返し、家へ走る。走ろうにも足の悪い俺には、よたよたと足を運ぶ事しか出来ない。それでも俺は、少しでも早くと駆け戻った。

 家へ帰り着いた俺は、埃を被っていたスケッチブックを取り出す。一年前のあの日。キヨミとあの菜の花畑を見た日に描いた、白黒のページを開く。絵筆を手に、キヨミとの想い出を色に乗せる。一年筆を持っていなくても、何十年と動かしてきた手だ。息をするように自然と筆は動き、鈍く、くすんでいた景色が花開いた。

「出来た……」

 俺の手の中で、キヨミが笑った。仏壇に咲く白菜の黄色い花が、ふわりと揺れる。「もう色を忘れないでね」と、愛おしい声が聞こえたような気がした。

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白菜の花 春日千夜 @kasuga_chiyo

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