第45話 ピアノコンクール
◇
ピアノのコンクールに着ていく衣装は去年、邸宅で行ったパーティの際に誂えたものを使う予定だった。
だが奥さまは先日電話で業者に指示を出した。
明日のための恭子さまの衣装は多香子さまの指示によるものだ。何とかオーダーが間に合い衣装と靴が届いた。
居間で重厚なケースを開梱すると中にあったのは純白の可愛らしいドレスだった。靴の色も合わせてある。
「あの子には私の指示だってことは言わないでおいてちょうだい」と奥さまは口止めしていたが恭子さまにどこまで隠し通せるかわからない。
これが奥さまのもう一つのお願いだった。
私は「一度、着てみましょう」と言って恭子さまのドレスの着付けをしながら奥さまの趣向を感じとっていた。
そんなに派手なわけでもないのに上品で清楚かつ高貴な印象を醸し出すドレスだ。
「静子さん、このドレスは、あの人が?・・」
絶対、ばれるわよね。他にそんな人はいないもの。
「ああ、こればっかりは隠せませんね。その通りです。あの人ですよ、あの人・・奥さまの趣向のドレスですよ。口止めされてますけど、もういいです」
私はわざと「あの人」と繰り返した。
「そう、あの人が・・」そう呟いた後「静子さん、少し、丈が長いわ」と恭子さまは姿鏡を見たり足元を見たりして丈の長さを気にしている。
「これくらいあった方がいいです。全然おかしくありませんよ。それに、来年もまたこれを着られるでしょうから」
「でも靴は丁度いいわ」
「恭子さま、あの人はお出でになれませんが、お仕事が無ければきっと来ていたと思います」私がそう言うと「静子さん、いろいろとありがとう」と返した。
居間の壁には奥さまと話し込んだ時の絵が飾られてある。女神が群集を引き連れている「革命」の絵だ。フランスの七月革命の象徴とも言えるドラクロアの作品だ。
コンクールの当日、車で出かける前に恭子さまに「静子さんはいつもと同じ服ね」と少し笑われた。
「ごめんなさい、私はこの方が落ち着くものですから」
そう・・私はいつも上下とも黒のジャケットにスラックス。スカートなどは穿くことはない。長田家に仕えるようになってからはずっとそう。
「お天気、悪いわね」恭子さまがそう言うと「ええ、雨が降りそうですね。傘を持っていきますね」と私は言った。
◇
私の出番は四番、三番の女の子の演奏が終わり拍手が止むと私の氏名が読み上げられた。私は舞台に静かに上がると中央の前に行き観客席に一礼をする。
審査員のいる席がよく見渡せた。ピアノ椅子に腰掛け深呼吸をすると拍手が上がる。ライトが私を熱く照らす。
譜面を捲り、指を鍵盤に置くとホール内に「エリーゼのために」が響き始めた。間違いなく私が弾いているのを感じる。
不思議と緊張感がない。パーティで弾いた時と変わらない。父譲りの舞台度胸なのだろうか?私の心より指や体が先に動いている。
他の子は控え室ですごく緊張していると口々に言っていた。
私は他の子と何が違うのだろう?
その違いはすぐに思い当たった。
他の子は保護者としてお母さん、あるいはお父さんが来ている。私の場合は静子さんだ。
みんなは親に甘えているから緊張する。私の場合は静子さんだから、甘えることはない。
そんな気持ちのゆとりのせいなのか、私は自分の感情を込めてピアノを弾くことができた。
弾きながら色んなことを思い出していた。
母がいなくなり父が亡くなった日のこと・・
同じ日、病室で静子さんの背中の後ろからクマさんのぬいぐるみが顔を出した日のこと。
授業参観の日、父兄が立ち並ぶ中、一番背の高いことを静子さんが気にして小さくなっていた格好が可笑しかった。静子さんが漫画の本を買ってきてあの人の帰ってきたことに気づいて慌てて背中に隠した日のこと。風邪で熱を出した時、ずっと看病してくれたこと。目が覚めたら私のベッドに寄りかかり寝ていたこと。
全部、静子さんばかり・・でも、ありがとう。
そんな事を思い出しながらピアノを弾いているせいか、いつもと音色が違う気がした。
私はピアノを弾き終えると深く息を吐いた。ピアノの先生に受けた指導の全てを演奏で表現できたはず。
ピアノ椅子から離れ舞台の中央に立つ。拍手が一斉に上がった。
静子さんはどこにいるのかしら?確かD席って言っていたわ・・いた・・背が高いからすぐにわかる。
まさかとは思うけれど、あの人の顔も探してみる。あの人だったら近くのA席にいるはず・・暗くてよく見えない。この前はきついことを言ってしまった。今度、謝らないといけない。
せっかくあの人自身が選んだドレスなのだからあの人も見に来てくれればいいのに。
そんなことを考えながら近くの観客席を改めて見た時、私の理性は一瞬で失われた。
お母さまっ!
何年経ってもその顔を見間違えることなんてない。だって私のお母さまだもの。
私に当てられているライトが同じようにお母さまに当てられているように見えた。
体が震えた。震えながら体の動きが止まってしまった。ピアノを弾いている時にはあんなに緊張しなかったのに。
拍手がまだ止まないでいた。
◇
由希子さまは少し遅れたが会場に来てくれた。前列Aの番号の招待券なのでD席の私の方からでも由希子さまのお姿が確認できる。
恭子さまが舞台に上がりこちらに向って一礼するとピアノ椅子に座った。きれいな純白のドレスがふわりと椅子の上にひろがる。
拍手が巻き起こる。
会場内にベートーベン作曲「エリーゼのために」が響き始めた。
鍵盤の上を恭子さまの指が躍動している。
一番目の女の子も同じ曲だったが、それとは全く違う音色だ。
いつも恭子さまのお部屋から洩れてくるピアノのレッスンの音とも違う。パーティの席で聴いた感じとも違う。
音楽のことはさほど詳しくはないが、力の入れようや、抑揚のつけ方次第で感情移入ができるのが楽器の演奏だと理解する。
たしかピアノの先生は「楽器の音色は弾く人の精神状態を表す」と言っていた。
この音は恭子さまの今のお気持ちが入った音色だと思うけれど私にはこの音が恭子さまのどんなお気持ちを表すのかわからない。
他の学問のような自己完結のものとは違って音楽というものは誰か聴いてくれる人がいないと成り立たない。
いつの日か恭子さまにこの音色を理解してくれる人、あるいは良きお友達ができるのだろうか?
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