第2話 庭園にて
◇
「長田ではありませんっ!」
静子さんの大きな声が聞こえたのは二階の自分の部屋で本を読んでいる時。
窓からお庭を見下ろすと庭に軽トラックが乗り入れられているのが見えた。
軽トラックの前に立っているのは人のよさそうな男の人だ。
相手をしているのはいつものように静子さん。
静子さんは「私の名前は『長田』ではありません」と言っていたのでは?
男の人はおそらく静子さんのことを私の若い母親だと勘違いしたのだと思う。
静子さんはこの家、長田家のお手伝いさん、そして私の家庭教師。
静子さんはとても生真面目な性格。
私は二階から緩やかなカーブを描く階段を伝って階下に駆け降りた。広間の側を抜け廊下を走って玄関に出る。ドアの向こうからやり取りをする声が間近に聞こえる。
「すみません、てっきりここの奥さんかとばかり」
これは男の人の声。
「奥さん?・・お、奥さまだなんて・・違いますっ・・奥さまと間違えるなんて!」
静子さんの声。
「私はただの家政婦の『遠野』です」
また静子さん。
男の人は静子さんに圧されているようだ。
私は靴を穿きドアを開けた。開けるのにも時間がかかる。このドアは子供が開け閉めするのには重過ぎる。
広がる芝生を背景に軽トラックが一台。その脇にどこかで見たことのある男の人がいた。
そして静子さんの後姿。
すっと伸びた背筋、長く綺麗な黒髪、皺一つない黒のスーツ。静子さんの後姿には隙がない。
「静子さん、どうかしたの?」
私の声に静子さんがすぐさま振り向く。
「恭子さまっ!」
いつもの顔、唯一私がこの家で安心できる顔だ。
でも、その静子さんにはちょっと問題が・・
静子さんがやり取りをしていた相手はこの前、静子さんと一緒に行った町の和菓子屋「芦田堂」のご主人、芦田さんだった。
昨日、注文した大福饅頭、二百個を配達してきてくれたのだ。
けれど大福を持ってくるのはここではなかったはず・・
芦田さんは私を見ると軽く一礼した。
「申し訳ありません、私、そんなに大きな声でした?」
静子さんの声はよく通るからすぐにわかる。
「よく聞こえたわ」
芦田さんは静子さんの向こうで笑顔を浮かべている。
「芦田堂」にいた娘さんに似ている。娘さんは同じ小学校に通う女の子だ。
「恭子さまの読書の時間を割いたのではありませんか?」
もう何度も読んだお母さまの本だからいいけど。
「すみません。恭子さま、こちらの者が、私のことを『長田』と呼ぶものですから」
静子さんが言いたいのは自分のことを「奥さま」と呼ばずに「遠野さん」と呼ばなければいけない、ということなのね。
でも普通はそんなのわからないと思うわ。
「そんなの別にどっちでもいいじゃないの」
「いけませんわ。この町のみなさんにこの家のことをしっかり知ってもらわないと」
静子さんが言っているのは、この町に越してきて間がないから町の人、特に商売をしている人たちに家の家族構成等を知って欲しいということなのだろう。
「それに、もし、奥さまに聞かれでもしたら・・」
奥さま?・・それで静子さんはあんなに大きな声を・・
でも心配しなくても、あの人は家にいないわ。
静子さんは自分の言ったことに、はたと気づくと再び芦田さんの方に向き直った。
「それに大福はここに持ってくるのはなくて、灘の工場の方に、と言ったはずです」
静子さん、そんなこと言ってたかしら?
「いやあ、奥さん・・」芦田さんはそこまで言うと咳払いをして「いや、遠野さん・・でしたっけ?・・確か、ご自宅の方に送るようにと言われてましたよ」と言った。
「ご、ご自宅っ」
芦田さんは「自宅」と言ってしまい「しまった」というような顔をする。
「い、いや、こちらさんの住所に、と」
芦田さんは選ぶ言葉に大変そう。
「それに伝票の配達先に書かれてあるご住所がここになっていたもんですから」
「・・そんなはずはありませんっ」
静子さんは自信があるみたい。
芦田さんは頭を掻きながらショルダーバックの中から伝票を取り出しぺらぺらと頁を捲り出した。
「ええっと・・ここに・・」
少し得意げに芦田さんはここに配達するよう指示した伝票の頁を開いて差し出す。
「ちょっと見せてください」
静子さんは差し出された伝票を手にした。
「あら、やだ、本当だわ、ここの住所だわ。それにこの字は・・書いたのは・・私・・」
静子さんの表情は見えないけれどいつものように真っ赤になっていると思う。
「芦田堂さん、も、申し訳ございません!」
突然、静子さんは勢いよく体を折って謝った。
そのまま折れるのではないかと思ったくらい深く頭も垂れた。長い黒髪がバサッと前に垂れる。
「いやあ、こっちは別にいいんですけど・・」
そう言われても気がすまないらしく「あ、あの、芦田堂さん、もしよろしければ、中でお茶でも・・」と誘った。
その「芦田堂さん」っていう言い方もどうかしら?
お名刺には確か「芦田弘」って書いてあったわ。
「お言葉は嬉しいんですけど、はよ、大福を工場の方に持っていかんと・・それに他にもまだ配達がありますんで」
芦田さんは笑顔を浮かべながら丁寧にお断りの言葉を述べている。
「静子さん、芦田さんをお引止めしては悪いわよ」
また静子さんは、はたと呼び方に気づいたようだ。
「そ、それもそうですね・・あ、あの、芦田さん、また今度ゆっくりと・・」
静子さんはそう言っておでこに振りかかっている黒髪をかき分けた。
「おおきに、ありがとうございます、ちゃんと工場の方に届けておきますので!」
芦田さんは愛想良く何度も私たちに挨拶をして家を出た。
そう、静子さんは生真面目だけれど、とても慌てんぼさん。
◇
「あの人はいい人だと思うわ」
恭子さまは「芦田堂」のご主人が帰ったのを見届けると私の方に向き直りそう言った。
「いけないのは静子さんの方よ」
少し恭子さまの顔がきつくなった。
私は時々そのように恭子さまに怒られる。今日は何を言われるのだろう?
「静子さんは、ちょっと真面目すぎるのよ」
「真面目すぎる」という言葉は私がいつも気にしている言葉だ。
「真面目」という言葉にあまりいい思い出がない。
それをずばり恭子さまに指摘された。
その一言で私のさっきまでの言動が全て私の間違いだと思い知らされる。
私は時々思う。
この家のお手伝いや家庭教師をしながら色々と学んでいるのは私の方なのではないかと。
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