第38話 悠子の家②

「香山のお嬢さん、あの人は家では立派なお父さんやろ? あの人はあんたを立派なお嬢さんに育ってもらうために、たぶん、あんたを悠子に近づけんようにしてたはずや」

 仁美ちゃんはこくりと頷いた。

「知らんですんだら、こんな楽なことはないもんなあ」

 みんな、辛い思いをしてるんだ。私はそんな人たちに守られている。

「あの人はあんたを気にかけるのと同じように、悠子のこともいつも気にかけてた」

 私は聞くのが辛くなって流し台の方を向いた。

「何で知ってはるんですか?」

 仁美ちゃんは全然わからない様子だった。私もわからない。

「お金と手紙や・・」

 仁美ちゃんは一瞬びっくりした表情を浮かべた。

「悠子が生まれた時からずっと毎月、振り込みでお金を私はあの人から頂いていた。これ以上くれんでもええいうくらいに頂いた。悠子が小学校に上がると振り込んでくれるお金も増えた」

 私が小学校に入学した時もお父さんは知っていたんだ・・嬉しい・・なんだか泣きそうになってきた。

「お金は何となく気づいてましたけど、手紙も出していたんですか?」

 お母さんの表情がどんどん変わってくる。私が小さい頃、今よりもっと優しかった頃の顔になっていく。

「あの人から手紙、ようさんもろうた。『悠子は元気にしてるか、体を壊してへんか』とか、いっつも内容が一緒やったけどな」

 私はもう泣いていた。

「このアパート、私と悠子が出る気あるんやったら、その資金を援助するとも書いてあった」

 そうだったんだ・・でもこのアパートを出たら、仁美ちゃんの家と離れてしまう。

「私はあの人の会社が危ないのを噂で知ってるんや。でもあの人はそれを手紙でも言わへん。私は知ってるから、つらかった」

 手紙はよくお母さん宛に来てたのは知ってるけど、氏名が違ってた。

 あれはお父さんだったんだ。お父さんの字だったんだ。

 お母さんはお父さんに返事を書いていたのかな?

「アパート出るための援助どころか、あの人には、もう毎月のお金を振り込む余裕もないはずや」

 お父さんの会社、そんなに危ないの?

「ほんまは私がここから出て行って、あの人のそばから消えた方が一番ええんやけどな」

 お母さんの顔はもうあの男といる時の顔をしていなかった。

「でもなあ、香山のお嬢さん、あんたには悪いけど、私はこのアパートから離れられへんのや」

 お母さんはスカートの裾を絞るようにギュッと掴んでいる。

「外に出て高台を見上げたら、いつも安心できるんや。そやからこのアパートから、いつまでも離れられへん。情けないけど、私はそういう女なんや」

 そうだったんだ・・

 お母さんにとっても高台の家は、私にいつも言っていたように「特別の国」だったんだ。

 現実には他の男の人に優しさを求めていたけれど、ここから離れることはなかった。

 けれど、高台からは絶対に誰もやって来ないことをお母さんは知っていた。

 私はお母さんのことを何も知らなかった。知ってあげようとしなかった。

「ごめんなあ、二人とも、私、これから働くからなあ、勘弁してなあ。いつまでも、あの人に甘えておられへんもんなあ」

 お母さんが泣いている。

「あの、おばさん、ひとつ訊いていいですか?」

 お母さんがこくりと頷く。

「悠子が生まれてから、私のお父さんに会ったことあるんですか?」

 仁美ちゃんは静かに聞いたけど、お母さんは声に出さず首を横に振るだけだった。

 それから仁美ちゃんに「もう遅いから帰り」とだけ言った。

 私は手提げの中からお祭りでもらった二本のサイダーを出して冷蔵庫に入れた。

 もうお母さんはあの男を家に入れないだろうから、もう盗られることはない。なぜかそんな気がした。

 ビー玉もあの男の息子に盗られない。いや、もう絶対に盗らせない。

 そして、私はもう決めていた。

「お母さん、私、仁美ちゃんの誕生会に行く・・行かせてください。お父さんに何も言わへんから・・お母さん、安心して」

 私は濡れた手をタオルで拭きながら二人のいる居間に入って言った。

 お母さんは私の顔を見上げて「行ってき」と言った。

 お母さんの表情は、ずっと昔、私が幼かった頃の顔に戻っていた。

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