第23話 呼び鈴
◇
「仁美、入るわよ」
村上くんが帰ったあと、ノックをしてお母さんが私の部屋に入ってきた。
「ちょっといい?」香水の匂いが鼻をつく。
「何?」私はつっけんどんに答える。悪いと思っていてもついついそうなる。
「ご近所の人に聞いたんだけど」
またご近所の人だ。何度、聞いたことだろう。
「仁美、まだ、あそこの娘と会ってるんじゃない? あそこの『下』の娘と」
お母さんは悠子のアパートのある場所を「下」と呼ぶ。お母さんにとってこの高台は「上」なのだろう。
「仁美、前にお母さんと約束したわよね、もう下の娘と会わないって」
お母さんの頭の中には「上」と「下」しかないんだろうか。
「ちゃんと名前を言ってよ、『あそこの下の娘』ってわかんないじゃないっ」
言えないんだ。お母さんはいつまでも悠子の苗字を言えない。
「仁美、わかってるくせにっ、お母さん、知ってるのよっ。夜だって時々出て行くのも」
だったら最初からそう言えばいいのに。
「会っているわよ。悪いっ?」
だって私の妹だよ。
「あそこの子と会うと仁美が汚れるのよっ」
お母さんの表情と声が変わった。
「仁美はまだ子供だからわからないのよ、あれはあの女の子供よ。見たことあるでしょ。仁美とは全然住む世界が違うの、すごくきたない人たちなの。お風呂やトイレだって無いところに住んでいるの」
トイレはあるわよ。
「ちょっと待って、お母さん、私は学校に行っているのよ、悠子と同じクラスなの。学校にいれば体育の授業で手をつなぐことだってあるの。悠子が給食の当番の時には悠子の配ったものを食べるわ。他の人となんら変わらないわ。悠子と外で会わなくても学校でいつも一緒なの。それを会わないでって、おかしいわ、ねえ、おかしいわよね」
悠子、ごめん。こんな話、したくない。
「仁美っ、その『悠子』って名前を出さないでちょうだいっ。私が言っているのは心が繋がって欲しくないのよ。学校は仕方ないわ」
いったい何のお話? お母さんの価値基準はどこにあるのだろう。
「心って、またお母さんはおかしなことを言う。さっきは悠子のことを汚いとかお風呂がないとか言ったじゃのっ、心とお風呂がないことって別々のことじゃないっ。お母さんの言っていることは滅茶苦茶よっ」
私は大声を張り上げていた。けれど、私はこの終わらない押し問答にいつものように決着をつけなければならない。
「お母さん、ごめんなさい。私、言い過ぎたわ。もうあの子には会わない」
私はしおらしく声を落として言う。
「本当なのね」お母さんも落ち着く。
「ええ、本当よ、約束するわ」
そう、私はこうやって悠子のようにいつも嘘をつく。
「わかればいいのよ、私も変なこと言って悪かったわ。もうすぐお父さんが帰ってくるから、夕飯の支度しないと」
お母さんは安心した表情を見せて部屋を出て行った。
たぶん、一週間もすればまた同じ会話が繰り返される。
◇
私の家には電話がない・・けれど、そんなに困ることもない。ただ一つ困るのは学校の連絡網があるときだ。
道を隔てた向かいの市営住宅に住む井口さんという女の子が伝えに来て、私はアパートの上の階に住む男の子に伝えに行く。
上の男の子は電話があるのでこんな面倒なことはないだろう。
けれど伝えに来る井口さんはとても嫌がってると思う。
大雨で学校が休みになることを伝えにわざわざ家を出て、ここまで伝えに来るなんて誰だってイヤだろう。
私の方も井口さんに家の中とかを玄関から見られたら恥ずかしい。
それに呼び鈴を押されて出るのが私とは限らない。
この前はあの男が出た。私が出ようとしたのに押しのけて、私は転びそうになって掴んだ柱の釘で指を切った。
あの男を見て井口さんが怖がっているのがわかったので、私は次の日、学校で井口さんに謝った。
「気にしなくていいよ」と井口さんは言ってくれたけど、そうもいかないので連絡網の時は呼び鈴を押さないでドアを二回コンコンと叩いてって言った。
「それでわかるの?」と聞かれたけど「わかる」と答えた。私は家にいるときは大抵玄関か台所にいるからだ。それであの男より早く出られる。
家の呼び鈴はめったにならない。集金の人くらいだ。
でも今日のお昼、その呼び鈴が鳴った。
私が出ようとすると、あの男が奥から出てきた。私と目が会うと「どかんかいっ」と言って突き飛ばした。
私は狭い玄関で転がった。壁でおでこを打つ。
「ほんま、邪魔なやつやで」男は吐き捨てるように言う。
いつものことだ。私はどこにいても邪魔なんだ。
男はぶつぶつ言いながらドアを開けた。ドアの向こうに同じクラスの男の子が立っていた。
「小川さん、いますか?」
村上くん? どうして? 連絡網が変わったの? 家は近かったかしら?
「おい、おまえに用事らしいわ」男はこっちを見て「はよ出ろ」と言った。
私は何事もなかったように起き上がって、ドアの外に出て後ろ手でドアを閉めた。
「小川さん、ごめん、突然、来たりして」連絡網ではなさそうだ。
次に村上くんは私に信じられないようなことを言った。
「香山さんを誘って、お祭りに来ないか」
何でもない言葉なのに私の目の前が明るくなった気がした。
「私が仁美ちゃんを?」
言葉の意味はわかる。だけど、どうして私の方から仁美ちゃんを誘うの?
どちらかと言えば誘ってくるのは仁美ちゃんの方からだし。
でもそう思っているのは私の甘えなのかな?
それに仁美ちゃんの家のことを考えたら二人で夜にお祭りに出かけるなんて無理だ。
「そうや・・小川さんの方から誘って」
村上くんが冗談で言っているのではなさそうだった。
「でも・・」私が口ごもっていると村上くんは「小川さん、おでこ、血が出てる」と私のおでこを指差した。
「ごめんなさい」
私は手でおでこを拭った。血が広がっただけであまり意味が無いようだ。
「ひょっとして、さっきの人に?」
知られた! どうしよう赤の他人にこの家のことが知られてしまう。
お母さんが悲しむ!
「違う・・さっき自分で柱におでこぶつけたの」変な言い訳をした。
たぶん村上くんは私を・・この家のことを見抜いている。どうしてだろう、何故だか私にはわかってしまう。
「なんや、連絡網ちゃうんかいな」「ちゃうみたいやで」奥でお母さんと男の声が聞こえた。「そしたら何の用事や」
私は手を後ろに回してドアのノブをしっかりと握って中から開けられないようにした。
こんなことするの初めてだ。
「ちょっと、悠子、ここを開けっ」お母さんが怒鳴る。
どうしてお母さんは開けたがるの? そんなに誰が来ているか知りたいの?
そうお母さんは怖いのだ。お母さんはこんな生活でも何かを恐れている。もうこれ以上この生活を誰かに壊されたくないのだ。
「お母さん、何でもないっ、ただの連絡網だから」
私も必死だ。お母さんに怒られても、私、村上くんの話が聞きたい。
「香山さんから小川さんを誘うたら普通やん。小川さんから誘うことに意味があんねん」
ああ、わからない、わかるように言って。
「香山さんに小川さんのビー玉、預かってもらってるんや」
私のビー玉? 村上くん、仁美ちゃんにも会ったの?
「村上くん、ごめんなさい、お話がよくわからないの」
村上くんは私をどうしたいっていうの?
「家の中、大丈夫?」村上くんは私の家の中を気にしているようだ。
「う、うん、大丈夫・・」
村上くん、やっぱり帰ってっ。本当はもっと話を聞きたいけど、もう無理や。
このまま村上くんがここにいたらいろんなことが壊れてしまう気がする。私もお母さんと同じで、これ以上、壊れるのが怖いんや。
向かいのアパートのベランダに女の人とその娘らしい子が仲よさそうに洗濯物を取り入れているのが見えた。私とお母さんもあんな母と子になるはずだった。
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