第22話 ビー玉


 私には全く理解できなかった。

 お母さんが「仁美っ、学校のお友達よ」と下から呼ぶので下りてみると村上くんが門の外で待っていた。

 村上くんはクラスの中でも大人しい方で何度かウサギ小屋の当番が一緒になったことがある。

 そうだ・・この前、悠子とお風呂の帰りに村上くんが叔母さんと一緒のところを見た。 でも、そんなことより男の子が家に来るといろいろ変に思われる。

「香山さん、これ持っててくれへんか」

 村上くんはそう言うとポケットからハンカチに包まれたビー玉?のようなものを取り出して差し出した。

「何で?」と訊くと「これ僕のもんやけど、小川さんにあげたいねん」と答えた。

 言っていることがよくわからない。プレゼント?・・それなら直接渡せばいいのに・・それにこのビー玉、傷だらけ。

「小川さんは・・あの子はこういうの、欲しがらないと思うけど」

 私は他人の前では悠子のことを苗字か、もしくはあの子と呼ぶ。

 他人には私と悠子の関係は悟られてはいけない。ずっとそうしてきた。

「そやな、もうこんなに汚れてしもうたから」

 本当によくわからない。けれど村上くんは続けて言った。

「でも小川さんには渡されへんのや。今、渡したら、また悪い兄貴にとられてしまうんや」

 私は頭を後ろからガツンと殴られた気がした。村上くんはどうしてそんなことを知っているの?

「小川さんって、お兄さんがいるの?」

 白々しいけど悠子の家のことを私からは何一つ言うことはできない。

「このビー玉、汚いと思って、実は綺麗な方も持ってきた」

 村上くんは私の問いかけを無視して反対側のポケットからずっと綺麗なビー玉を二つ取り出して見せた。

「綺麗やろ。駅前の商店街で買ったんや。一つは小川さんの分で、一つは香山さんの分や」

 私の分? 何を言っているの、この人は・・

「わからないわ。どういうこと?」

「普通、こんなこと断るよな」

 そっか、わかったわ。

「もしかして小川さんが貧乏やから、同情してるの?」

 あまり使いたくない言葉を言ってみた。

「仁美、中に入ってもらったら?」お母さんが中から声をかける。

 うるさいっ! 思わずお母さんに怒鳴りそうになった。

 だって他人、しかもクラスの男の子が悠子の家のことを知っているかもしれないっていうのに。もしかしたらお母さんのいつも言う世間体に関わることなのかもしれないのに。

「ごめん、香山さん、もう失礼するわ」

 待って! 私、やっぱり村上くんにもっと話を聞きたい。

「村上くん、小川さんのこと、何か知ってるの?」

 私は卑怯だ。自分は何も言わず村上くんにしゃべらせようとしている。

「香山さん、まだ『小川さん』って言うんやな」

 村上くんは少し悲しそうな表情を見せた。

 これ以上聞いても村上くんは何も答えてくれない気がする。

「それ、預かる・・預からせてもらえる? 今は小川さんに渡さなかったらいいのよね」

 これがこの場の唯一の解決方法だと思った。村上くんはほっとしたような顔を見せると、

「じゃ、これ」と言って三つのビー玉を私に渡した。

 私はビー玉をしっかりと握った。こういう時、お礼を言うべきなんだろうか? 私の分もあるのだから。

「でも、どうして私なの?」

 そうだ、私はこれが聞きたかったのだ。

 ずっと誰かに聞きたくて、誰かに答えて欲しかったのだ。私と悠子がどういう風に見えるか知りたかった。

「二人、仲よさそうに見えるから」

 彼の言葉を聞いて私は自分の表情が変わるのを感じて少し恥ずかしくなった。

 村上くんは他に何も言わずに帰った。やっぱり大人しい男の子だ。

 お母さんが中に入るように言っても彼は絶対入らないだろう。

 悠子には今日のこと何て言おう。私の手には三つのビー玉があった。



「陽ちゃん、知恵の輪、できた?」

 お風呂上りの叔母さんが勉強机の前の僕を覗き込んでからかうように訊いてきた。

「まだできへん、ほったらかしや。叔母さんにもできへんやつやからなあ」

 勉強机には誕生日に父にもらった地球儀が置いてある。

「そら、簡単にはできへんよ。何せ知恵がいるんやから」

 知恵って何だろう・・それを尋ねる前に叔母さんは「その地球儀みたいなもんと違う? 地球儀っていろんな人の知恵で作られた完成形やと思うわ」と言った。

 目の前で叔母さんのワンピースがふわりと揺れる。

「地球儀って誰が作ったん?」

「遥か昔の人から現在の人まで、数えきられへんくらいの人たち」

 叔母さんって何でも知っているんだな。

「見て、地球ってほとんど水ばっかり」叔母さんは地球儀を指差す。

 また、水だ。

「地球儀って地上はこんなに正確に描写されてるのに、海はほとんど描かれてへんでしょ」

「海は関係ないからちゃうん?」

「私は人がまだ海のことを全然わからへんからや思うわ」

 叔母さんの体からは石鹸の匂いがした。

「知恵の輪って、そのわからへん部分を理解できたら、案外すっとできると思うの」

 あーっ、だんだん話がわからなくなってきた。

 今日はもう知恵の輪はやらないでおこう。

「そういう私も、それがわからへんからできへんのやけどね」

 よくわからないけど、やっぱり叔母さんは叔母さんだ。面白い。

「陽ちゃん、知恵の輪、できたら教えてちょうだい」

 絶対やってみせる、と僕は強く言った。

「あーっ、喉が乾いたっ。ねえちゃんとこに行って麦茶を飲もうっと」

 叔母さんはそう言い残して居間に行った。

 叔母さんが去ると僕は引き出しから二個のビー玉を取り出した。あの時買っておいた最後のビー玉だ。

 僕は勉強机の蛍光スタンドに二つのビー玉をかざしてみた。一つは碧っぽい色でもう一つは紅色をしている。

 ビー玉の向こう側に光があると只のガラス球の中にいろんな形の空気の泡や多くの色、筋、傷があるのがわかる。

 光を当てられたビー玉は暗闇の世界から光の世界へ抜け出して生命を与えられたかのように見えた。

 ただ引き出しから出してきただけでこんなにも変わって見える。更にビー玉を回転させるとさっきまで見えなかったものが見えはじめる。

 この町の人も同じようなものなのだろうか?



「そいつ、五年生に喧嘩負けたって噂がたってもうてなあ。最近なんて虐められとるらしいで」

 修二が言っているのは小川さんの家にいる六年生の男の子ことだ。

 五年生というのは文哉くんのことだろう。すぐに修二にもわかるだろうけど僕は黙っておくことにした。

「そやけど、そいつの父親、なんか如何わしい男らしくてなあ。その五年生、何かされるかもしれんで」

 黙ってられない。

「その五年生ってたぶん文哉くんだ」と僕が言うと「あいつかいな、あいつやったら別にええか」と修二は勝手に納得した。

 よくない、よくないんだよ、修二。あいつは結構いい奴なんだ。

 ああ、修二にどこから話せばいいんだろう。

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