第21話 知恵の輪

「陽ちゃん、おかえり、スイカがよう冷えてるわよ」

 家に帰ると叔母さんが僕を見つけて言った。

「陽ちゃん、一緒に食べようよ」

 テーブルにはお皿が並べられ真ん中の大きなお皿に等分に切られたスイカが置かれてあった。母も叔母さんと並んで座っていた。

「食べる、食べる。頂きまーす」僕は自分のお皿の前に座った。

 庭に面した縁側には簾が下ろされ風鈴の音がして蚊取り線香の匂いが漂っている。

「叔母さん、それは何?」

 僕は叔母さんが座っているテーブルの上に置かれた金属の輪が二つ引っついたようなもを指して訊ねた。

「これ、知恵の輪よ。お土産で買ってきたつもりやってんけど、全然できへんわ」

 叔母さんは知恵の輪に細い指を通してくるくる回しながら言った。

「陽ちゃん、してみる?この二つの輪が外れたらええだけよ」

 僕は叔母さんから手渡された知恵の輪を手にとって二つの輪を色々いじってみたけど全く外れない。

「叔母さん、これ、貸して」

「ええよ、もともとお土産やし、陽ちゃんにあげるわ」

 これって外れたら、なんかいいことあるのだろうか? 外れたらそれでおしまいの玩具なのかな。その後、これはどうしたらいいのだろう?

「夏休みの宿題もせなあかんよ」母が間に小言を入れた。

 はいはい、と僕は頷きながらスイカを頬張り始める。

「叔母さん、最近何読んでるの?」スイカを頬張りながら言う。

「梶井基次郎さん」気持ちいいくらいにすぐに返事が返ってくる。

 でも全然知らない名前だ。

「面白いの?」叔母さんの読んでいる本は知っておきたい。

「面白いけど、陽ちゃんには、まだちょっと早いかなあ」

 そう言われると悔しい。絶対借りてでも読むことを決める。

「ふーん、どんな話なん?」

「このスイカみたいな話や」叔母さんは両手でスイカを持ったまま答える。

「スイカみたいって?」

「水分が多い」叔母さんはスイカを頬張った。

 また水だ。その本も匂いってあるのかな?

「優美子は昔から訳のわからんこと言うからなあ」

 母がスイカを上手に食べながら言う。

「ねえちゃん、私、そんな変なこと言ってへんよ」

 叔母さんはスイカを食べるのに夢中になりだした。

「今度、本を持ってくるわ」言わなくても叔母さんは貸してくれそうだった。

 嬉しくて僕はスイカの種を連射で飛ばした。

「こら、スイカの種、そんなに飛ばしな!」母の小言が間に入ってくる。

 回る扇風機の風が顔に当たって気持ちいい。

「陽一、お祭りのジュース、叔母さんに取ってもらいなさい。早いもん勝ちなんでしょ?」 母が思い立ったように言った。

「なんで?」

「優美子叔母さん、若い頃、駆けっこが早かったんよ」

 母の話に叔母さんはスイカの種をぷっと吹き出した。

「もうっ、ねえちゃん、いつの話をしてんの!」

 叔母さんが母の話を遮るように大きな声を出す。

「ほんまやん・・こら、優美子も、スイカの種、そんなに飛ばして」

 叔母さんは母に言われ舌をペロっと出す。母は叱る相手が二人もいて大変だ。

「叔母さんって、今、何歳なん?」

「ひ・み・つ」叔母さんが人差し指を口元に立て答える。

「陽一っ、女の人に年は聞かないのっ、前にも言ったでしょ」

 走るのが速かったって、叔母さんのいつの頃の話なんだろう?

 僕は学校の運動場を他の人より早く駆けていく叔母さんの姿を勝手に想像した。

「叔母さん、お祭り、一緒に行こな」

「うん、いく! 私も行くつもりやってん。陽ちゃん、連れてってな」

 扇風機の風が叔母さんの髪にあたり風の去っていく方向になびく。

「ちょっと二人ともお父さんの分のスイカ、残しとかなあかんよ」

 テーブルの真ん中のスイカが無くなりかけているのを見て母が慌てて言った。

「お義兄さんの分、まだ冷蔵庫にたくさん置いてあるから大丈夫よ」

 スイカを食べ終わると叔母さんは立ち上がり「ねえちゃん、お義兄さんが帰るまでに庭に打ち水しとくわ」と言って縁側の簾をあげサンダルを履いて庭に出た。

「ほら、陽一も叔母さんを手伝ってきて」

 僕は母の言葉を待っていた気がして立ち上がった。

 叔母さんは巻かれたホースを解いて蛇口につないだ。

 僕は庭に出て花壇に水をやり叔母さんはホースで庭全体に打ち水を始めた。

「ほら、見て、陽ちゃん、虹!」と言ってホースから噴き出す霧状になった水で虹を作って僕に見せた。

 その日の夜、僕は知恵の輪を外そうとずっとやってみたができなかった。


 次の日、僕は文哉くんが喧嘩をしたのを修二から聞いて知った。

 相手は文哉くんより年上の六年生の男子だったらしい。

 文哉くんに呼び出されて商店街の入り口まで行くと文哉くんは僕を待っていた。

「ほら、村上のビー玉や」

 文哉くんは僕にそう言うとポケットからビー玉を一個取り出し手のひらにのせ僕に見せた。見たことのないビー玉だった。

「風呂屋のおっちゃん、喧嘩弱いからな。俺が六年生から取り戻したったんや」

 これがあのおっさんが小川さんにあげてしまったというビー玉?

 でも何で六年生? それも喧嘩して取ったっていうことなのか。

 ビー玉はごく普通のビー玉だったし、いろんな人の間を渡り歩いたせいか細かい傷がたくさんできていた。

 誰もこんなビー玉は欲しがらないだろう。

「おっちゃんがあのアパートの広場でその六年生と言い合っとたん見とったら、俺が持っとったビー玉やんか。元々俺のビー玉やったし、ぶんどったったわ。何発か殴られたけどな。こっちは倍、殴ったったで」

 文哉くんは腫れた頬を僕に見せて言った。文哉くんってやっぱり喧嘩が強かったんだ。

「これ、小川にあげたらあかんぞ。その六年生は小川の血の繋がってない兄貴や。あいつに取られてたんや。あげたら、また取られるぞ。このビー玉はお前が持っとけ」

 僕にはまたショックだった。

 文哉くんの僕にしてくれた行為もショックだったけど、小川さんはどうしてそんなにつらい思いをして生きているのだろうか。おそらくその兄というのは小川さんのお母さんがしがみついていたあの男の息子なのだろう。

 あんな小さなアパートの中に僕の知っている限り四人も住んでいるというのか。

 傷だらけになってしまったビー玉を僕は握り締めポケットに大切にしまい込んだ。

「村上もこんな汚れてしもうたビー玉、もういらへんのんちゃうか?」

 そんなことはない。汚れているとか、綺麗だとか、もうそんな問題は僕の中に存在しなかった。

「文哉くん、大丈夫やったか? みんな、心配しとったで」

 電気屋の松下くんが商店街の中から出てきた。この暑いのに洟が垂れている。

「大丈夫や、あんな奴、全然怖くなんかないで」

 文哉くんが胸を張って言うので少しおかしかった。

「文哉くん、この前、大きなテレビ買うてくれてありがとう」

「あれは父ちゃんが買ったんや。俺とちがう」

「おんなじことや。父ちゃんが文哉くんに会うたら、お礼を言うといて、って」

 二人とも意外と仲ええやん。二人の会話を聞きながらすごく幸せな気分になった。

 夏の青空を見上げるとそこに僕たちの住む町が鏡のように映っている気がした。

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