第13話 小川さんのピンチ②
「こ、これ、くれ!」
僕は置いてあった駄菓子を二、三個適当に手に取って勢いよくレジに向い、レジの前のテーブルの上に置いた。
僕の声にも、目の前に置かれた駄菓子にも、驚き慌てたように小川さんはレジを叩きだした。
レジの数字を見て「しまった、高いのを取ってしまった」と僕は後悔した。
小川さんの手を離してぽかんとしている香山さんを無視してお金を払うと「くじ、一回引かせて」と僕は小川さんに言った。財布が空になってしまった。
「は、はい」小川さんはくじの入った箱を僕に差し出して「どうぞ引いてください」と言った。
僕は箱の中に手を突っ込み、時間をかけて紙切れを選びだしだ。
その様子をうしろでみんな見ていた。汗が箱の中に滴り落ちる。
気の遠くなるような時間が過ぎていった。
その間、僕の頭には叔母さんと行ったプールのちゃぷちゃぷと揺れる水の音が聞こえていた。
その音を聞いていると叔母さんが傍にいるような気がして安心した。周囲の人の視線やざわめきも気にならなくなった。
まるで叔母さんに手をひかれプールに浮かんでいるようだった。
「これでええ、これ何等なん?」僕は一枚のくじの紙切れを小川さんに渡した。
僕の声をみんな待っていたようだった。その声に誰もがほっとしたように思えた。
小川さんは紙切れを広げると「当たりです、3等です」と言った。
また3等だ・・
小川さんは3等のお買い物券を僕に渡すと「次回からこの店で10円分のお買い物券として使えます」叔母さんに言ったときと同じようなセリフをちゃんと言った。
だけど、その声は微かに震えていた。
そうこうしているうちに当事者のおばさんが子供を連れて店の外に出ようとしていた。 周りのおばさんたちの数も減り清田さんと八木さんはもうとっくにいなかった。
あいつら学校でこの話を広めないだろうな。
最後の一人のおばさんが帰り際に香山さんに「ほな、お父さんによろしう言うとってな」と言って立ち去った。
香山さんはその言葉を快くは聞いていないようだった。
子供が母親の袋の中にお菓子を入れたのかどうか、もうそんなことはどうでもよくなったのだろうか。
僕たち三人以外に誰もいなくなると小川さんはレジの腰掛にどっと疲れたように座り込んでしまい「お菓子、ひとつ無くなってしもうた」とぽつりと呟いた。
みんなが関心を向けなくなっても、小川さんはずっとこのことを忘れないのだろう。
「だから、いつも言うてるのに・・こんな店番せんでええのに」
香山さんが力の抜けたような声を出した。
「せんかったら、お母さんが困るから・・」
小川さんはそう返したあと僕の方を見上げ「村上くん、また何か買いにきてちょうだい」と言って「前に一緒に来てた人、村上くんのお姉さん?」と訊ねた。
「ちゃうよ、叔母さんや」と答えた後、小川さんとまともに話したのはこれが初めてだと気づいた。
このお買い物券は今度叔母さんが来た時に渡そう。20円分の駄菓子が買える。
「店番してても、お母さんは悠子のこと怒鳴ってるやん。いつも『上』に聞こえてきてるわ」
香山さんは胸に溜まっているものを吐き出したいみたいに見えた。
それにしても・・「上」って何?
「仁美ちゃん、そんな話、今、ここでせんといて」
小川さんは嫌々するように首を横に振った。小川さんの絆創膏が剥がれかけている。
「あんなん、お母さんとちゃうやん!」
香山さんの言葉に小さな声で「そんなことない」と言って小川さんは俯いて絆創膏を張り直して手で押さえた。
僕は自分の知らない世界があることにだんだん苛立ちを覚え始めていた。
そして、その日から僕は町の大人たちの目に嫌悪感を覚えるようになった。
夕方、僕は夏休みの宿題の今日の分を終えて自転車に乗って出かけることにした。
商店街の出来事を忘れるように東に向かってペダルを踏み商店街の脇を抜けて川のあるところまで来た。
川は「天井川」という名の川だ。西にある「吉水川」と比べると見劣りのする川だが、遊歩道がきちんと整備されていて散策もでき地元の人たちの憩いの場所となっている。ずっと南の方に行けば埋め立て地の工場地帯に出る。
橋の上で自転車を止めて南の方を眺めていると、向こう岸の道に、アパートの女にしがみつかれていた男が別の若い女と歩いているのが見えた。男は手を女の腰にまわしていて楽しそうに何かしゃべっている。
大人の目がイヤで遠くに来ようと思ったのに僕はどこまでも大人の姿に執拗に追いかけられている気がした。
女は流行りの髪形をして派手なアクセサリーを身に付け、底の異常に高いハイヒールを履いている。スカートも異常に短く、太ももが見てくれと言わんばかりに剥き出ている。
アパートの女もイヤらしく見えたが、この女の人も別の意味でイヤらしく見える。
僕はペダルを踏み込み、川のもっと向こうへ行こうと思った。
遠出をすると叔母さんに会いに行きたくなる。けれど、叔母さんの家は遠過ぎる。自転車ではとても行けない。
叔母さんの家まで行けなくても川の向こうには駅があり、駅前には大きな商店街がある。
商店街の大きな駄菓子屋に入ると見たことのないビー玉がたくさんあった。何個か綺麗なものを選んで買い、ポケットにしまい込み家に帰ることにした。
陽が沈みかけると、急に夏らしくない雨が降り出した。かなりのどしゃぶりだった。母が心配すると思い急いで自転車のペダルを踏んだ。
あのアパートの前を通ると、その向こうの崖の上の高台の家に灯りがたくさん灯っているのが雨なのによく見えた。
あの高台からならお祭りの花火もよく見えるな、と思ったのと同時に、一軒の大きな家の南側にもっと大きな家が建つであろう工事中のホロを被った建造物が見えた。
―毎年、夏になったら家の二階からお祭りの花火がよう見えたんやけど・・
香山さんの言葉が浮かんだ瞬間、南側のアパートから「出ていかんかあっ」と女の大きく醜い声が聞こえてきた。あのシュミーズの女だ、と思った。
「全部おまえのせいやっ」続けて聞こえた声に耳を塞ぎたかったけれど、できないまま自転車を早く漕いだ。
激しく降る雨の中、女の子の泣き叫ぶ声がどこまでも追いかけてくる気がした。
アパートを通り過ぎ家に続く道に曲がろうとした時、ぬかるみでタイヤがスリップして転倒してしまった。お尻と肘を強く打ってシャツもズボンもどろどろになった。肘が擦り剥けて血が滲み始めた。
「おい、大丈夫かあ?」
あのバイクのおっさんだった。バイクに跨ったまま僕を心配そうに見ている。
「大丈夫です」僕は泥を払いながら立ち上がり自転車を起すと、念のためポケットに手を入れビー玉の数を確認した。
おっさんは僕の方を見ながらもアパートの方に聞き耳をたてているかのようで「また、やっとるなあ、はよ、行ったらんと」と呟いた後「ほな、またな」と言いアクセルを回してアパートに向かった。
あのおっさんはいい人だったんだ。今更ながら気づいたけど、何にもできない僕が不甲斐なく思われる。
僕は家に帰ると風邪をひかないように早めにお風呂に入ってよく温もり体を休ませた。
体が興奮しているのがわかった。自転車でこけたせいではない。
お風呂を出ると脱衣カゴに丁寧に折り畳んだ替えの下着を母が用意してくれていた。テレビのある居間では父の笑い声が聞こえた。今日は宿題をはやく済ませてもう寝よう。その前に久しぶりにめったに話さない父とテレビの話でもしよう。
下着に体を通しながら「僕はいろんな人たちから守られている」と思った。
それに僕の家は絶対に貧乏ではない。
そしてこの世の中には貧乏よりもっとひどいことがある。
その日の夜、買ってきたビー玉を勉強机の引き出しの中にハンカチに包んで丁寧にしまうとその下の引き出しから同級生名簿を取り出し名簿を持ったまま布団に入り、頁を繰りはじめた。
自分のクラスの箇所を最初から目で追った。
「アンナ・カレーニナ」でトルストイの言っていた「金持ちの家はみな似通っている」というのはやはり嘘だ。
金持ちだってその上にもっと金持ちがいてその人たちに苛められることだってある。
それを気にしない人もいるし気にする人もいる。金魚の糞のようについていく人もいる。
でもトルストイは半分正しいことを言っている。貧乏な家が夫々おもむきが異なっているというところだ。貧乏でも仲良く暮らしている家もあるし、家の中が険悪でずっと残酷で僕の家なんかとは想像もつかないくらい残酷で・・
薄ぼんやり見える天井の木目を眺めながら、いろんなことを考えているうちにいつのまにか眠りについた。こうやって眠りにつくことも許されない人も世の中にはいることを知りながら・・
この夏、僕はそんな人たちを大勢見た気がしたけど、もっと僕はいろんなことを知りたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます