七里の渡し


 東海道における唯一の海路である七里の渡し。

 熱田の宮より桑名宿までの刹那の船旅であった。


 江戸を出発した俺たちは順調に旅程を消化しておる。さきほどは三種の神器の一たる草薙の剣の戴いた熱田の宮に参ったところ。信心深い寺田は、つらつらと祝詞などを唱えて、剣の道のさらなる奥妙に入らんことを念じていた。さらに境内の裏手に湧く清水で灌水の行をやろうなどと抜かすものだから、断念させるのにほとほと手を焼いた。公儀より西国の視察を命じられたという建前で手形を発行したのであるから、せめてわき目も振らず職務に忠実な振りをしなければならないはずだったが、寺田の野郎、存外に浮かれ者なのかもしれぬ。あちこちで後ろ髪を引かれて、ううむ、口惜しい、愉快よ、あっぱれ、などとあれやこれやと歎じている。


 備中までの旅路は長い。麟堂からせしめた路銀は潤沢とはいえ、物見遊山の浮かれた気構えではあっという間に身ぐるみを剥がされて路傍に転がることになります、としかめ面で釘を差すのは絡繰り遣いの御守である。


「この顔ぶれなら、そのあたりの追剥やらひったくり風情に遅れを取ることはあるまい」と気楽に俺は応じるが、どうも寺田の子供っぽいはしゃぎように用心を募らせているらしい。


 どうしてこの少女がこの旅に付き従ったかといえば、俺のお目付け役を任じてのことである。畢竟、行楽気分が抑えられなかったからではないか。俺はそう睨んでいる。女だてらに迷宮なんぞに潜っておれば、廻鳳のごとく乾いた木石となり果て、世間を狭くするは必定。清涼な旅の風を浴びて心身を刷新するにしくはない。出会う年下の女たちはみんな年寄りじみていて説教臭くもあるが、時にはこうして遊山に出ては年相応に燥いでみれば鬱勃とした気分も晴れるであろう。


「いやぁ潮風が心地よいものです」


 そう。吹く風は、いまや潮気を含んでいる。俺などはべとべとした磯の空気は御免被りたいところであるが、これを心地よく感じる向きもあろう。迷宮の達者にして剣の鬼たる寺田宗有ですら平時より目元が緩んでいる。


 俺たちは乗船した渡し船はまったく怪しい代物であった。川の渡しならともかく海原を征くにしてはどうも貧相で心もとない。ちょいと風が吹けば、波が高くなれば、たちまちにひっくり返ってしまいそうである。


 さっきまで威勢よく俺たちに小言を漏らしていた御守はどうやら船酔いらしい。青ざめた唇がぷるぷると戦慄いている。小言ではない、別のモノを口から漏らすのも時間の問題かもしれぬ。ざまあないなと性根の悪い俺は喝采を叫んでいる。日頃、叱られ通しであるから、ここぞとばかりに嵩にかかって笑ってやろうと身構える。


「ふはは、情けないぞ御守。これしきの揺れ――う、ゲハァッ!」

「お侍様。吐くなら海へ。船を汚されちゃ堪りません」


 船頭は露骨に嫌な顔をした。なんと俺も酔っていたのである。これは御守のせいに違いなかった。悪心が伝染ったのであろう。まったく迷惑なやつで――


「ゲェっ!」

「だからお侍様」


「ゲェっ!」と今度は御守も吐く。


 ――オロロロロロ!

 ――ロロロロロロ!


「よしとくれよ、あんたたち!」


 堪りかねて船頭が喚いたが、非情な時は巻き戻せぬ。


「樋口さん、あなたが吐くから! ……オップ」

「馬鹿言うな、俺はおまえの胸糞悪さを汲んで先に吐いてやったんじゃねえか!」

「誰も頼んでません!」


 沖に出たわけでもないのに、なんとまあ、それに反吐をまき散らしながら喧嘩をするのはやめて下さいよ、とおろおろする船頭に寺田が相場の渡し賃の三倍ほどの銭を

「迷惑料です」と言って握らせる。


 確かに見渡す限りの海原に激情の気配はない。あくまでも穏やかに凪いでいる。うららかな日差しが波間に眩く撥ねる。海鳥が低く水面に影を従えて滑っていく。


「まもなく桑名宿。伊勢の宮も眼と鼻の先か。某としたことが、逸る心を抑え切れぬ」


 吐瀉物と喧噪の船から眼を背け、寺田は呑気にひとりごちる。


 ――む、あれはなるは。面妖な。


 言いさして、つっと船の舳先に寺田が立った。


 波がないとはいえ揺れる海面の上である。不安定な足場において、微塵も揺らぐ様子がないのは、やはり常人ならぬ防人。なまなかならぬ平衡感覚と言えよう。それに、遠目の効く船頭より先に見つけたのは、日頃の修練によるものか。


「誰ぞ浮かんでおる。ド座衛門か」


 寺田の指さす方向には果たして仰向けに水面を漂う人の姿がある。 


「船頭、寄せてくださらんか」

「勘弁して下さい。もう面倒を背負いこむのはこりごりでさ。この上、腐りかけたホトケさんまで乗せちまったらうちは縁起の悪い冥途の渡しだなんて呼ばれて、商売上がったりになっちまいます」

「なあに、そうとは限りません」


 寺田は何やら思うことがあるようだ。眼を細めて、ひとりしきりに頷いたり、顎を撫でたりしている。寺田の静かな迫力に押し切られた船頭はゆっくりと船を海上の藻屑と見える黒点に寄せていく。やがて点は大きくなり、細部がはっきりと克明に見えてきた。俺はといえばまだぐったりと船の縁にもたれかかってこの成り行きを無抵抗に見守っていることしかできぬ。御守も同様である。


「やっぱり拾うんですかい? 放っておけば魚が片づけてくれます」

「供養してやりましょう」


 えええ、とげんなりした船頭から寺田は櫂をするりと取り上げて、水死体をそいつで掻き寄せようと乗り出したのだったが、ふと首を傾げると次には槍のように腰だめに構えた。


「どうしたい寺田よぉ」と俺はようやく声を出す。

「これは――」


 ハッと裂帛の気合ととともに寺田は櫂を突く。

 巌も穿たんばかりの神速の一突きである。もしこれが槍の穂先であったならば、いっそ貫けぬものなどなかったろう、とそう思わせる武威。


「ぬ」俺は素っ頓狂に喉を鳴らした。


 あのド座衛門はどこだ? 潮に溶けたか、波に巻かれたか、ともかく櫂が触れんとする瞬間に奇術のように跡形もなく消えた。


 きゃあ、と御守が眼を丸くする先、船頭の背後に先程の水死体が浮かんでいるではないか。迷宮であるならまだしも、陸地から幾許も離れぬ海上でこのような妖しの者に出くわすとは。こいつは話に聞く水魔・海座頭であろうか。船頭はあっという間に羽交い絞めにされて海に引き込まれてしまった。寺田の櫂は、神代の天沼矛よろしく混沌を攪拌する。波は逆巻いて時化の沖のように高くなる。気付けば船は木の葉ように波間を舞う。真横になったかと思えばくるくると回転し、あるいは舳先の下に船が直立したりもする。このままでは木造の渡し舟など文字通り木っ端微塵となろう。


「野郎は化け物かよ」俺はセデックの蛮刀を抜いた。こいつなら肉を持たぬ妖物とて叩き斬ることができる。あまりの衝撃に船酔いも醒めたようだ。


「あれは人でござろう」

「ならば幻術か?」


「いや」寺田は櫂を手放して腰の者に手を添えた。「幻術とも言い切れませぬ。吐瀉物の臭い、肌にかかる水しぶきの冷たさは確かに本物。しからば海をかように狂わせるほどの通力とはいかほどのものか。まさにしんに通じるとはこのことでありましょう」


「なんだっていい。叩き斬れるんなら」

「樋口どのは網を打ってください。御守殿の絡繰り箱の中にあったはず」


 網でもって身動きを封じるのは絡繰り六部の十八番おはこのやり口である。迷宮の物の怪や敵対する伍に仕掛けるものであるから、魚を獲るものと違って目は荒い。


「あっちに先の船頭が溺れております。速やかに引き上げてください」


 見れば、あたふたともがく船頭の頭が海面より飛び出して揺れている。


 ――しかし、と俺は戸惑った。


 幻覚でないにしろ、囮かもしれぬ。あれに手を差し伸べることで海の底に引き込まれる恐れはあった。さきほどの水死体が罠であったように。寺田は船頭を救いたいと思っているらしいが、俺にとっちゃただの一時居合わせただけの他人である。


「わたしがやりましょう」


 逡巡している間に御守が立ち上がった。俺と違ってまだ酔いは抜けていないようだ。ここでは迷宮のような重装の絡繰りではないが、その分威力があって使いまわしの効く武器を仕込んできている。


「もしあれが罠なら樋口さん、ひと思いに雷を流して下さいな」

「んなことしたらおまえもぶっ倒れるぞ」


 震卦の呪法。すなわち雷法は加減の難しい呪法であるが、俺には凡そそいつを手懐けている。雷神は堅物じゃない。ただ少しばかり気性が荒いのである。御守を殺さぬ程度の匙加減に力を抑えることはできるはず。ただし無傷で済ますのは至難の業だった。


「某はやつの呪力の源を絶ちましょう」


 ぶっすりと言ってのけた寺田は、抜き放った白刃を下段にぶら下げて、静かに呼吸を整えるだった。何かとてつもないことを仕出かそうとしていると見えた。海原のずっと先の水平線を凝視する瞳には神気が充ちた。


「熱田大神よ。草薙剣の霊威をお借り致しまする」


 何を言っている? 先程立ち寄った熱田の宮の神剣。その力を人の身にありながら行使するというのか。御守は網を放った。やがて船頭の醜態が引き上げられる。ゆっくりと警戒しながら網を引いたが、妖しい気配は感じられない。


「おい寺田。あんた何を――」

「己を虚とすれば、すなわち盈ちる。消息盈虚しょうそくえいきょの理を知るならば、三界萬霊さんがいばんれい我が胸の内三寸に在り」


 寺田は剣の奧妙を俺に伝えようとしているのだろう。言葉少なな寺田はその身をもって真意を尽くすのであろうと知れた。もう一度舳先に上がると西へ切っ先を向けた。


 ――刀法・朔虧サクキ


 フッと気負いなく放たれた一閃。ただの素振りかと見誤るほどの飾り気のない所作であった。だが、寺田の太刀は大量の水塊を切り飛ばし、宙に打ち上げたのである。えぐり取られた海の窪みが、一瞬、その負の形状を止めるが、すぐに周囲の水が雪崩れ込んでくる。


「てめえそれでも人の子か」


 迷宮で散々途轍もないものどもを見てきた俺にしてからが、まるで世間を知らぬ幼子のように呆気に取られて呻くのである。


「だから、これは人の業に非ず、草薙剣の清浄なる鋭気をもって、はじめて為せる業なのです」

「わかんねえが、とにかく――ありゃなんだ?」


 打ち上げられた水の中に巨大な影がある。俺はそのような動物をはじめて眼にする。神々しいほどに純白で――そして禍々しいほどに一点の汚れもない。


「白鯨」


 海水に封じられた白い鯨は、切り出された宙吊りになったまま、こちらに老いた眼を向けた。身震いするような強烈な呪力が波よりも速く伝わってくる。傷に覆われた巨体には銛で受けたような痛々しい穴も空いていた。どの海よりやってきたのかわからぬ。こんな浅瀬に近い海に姿を見せることなど稀であろうその鯨に、俺は迷宮の妖魅どもにはない、美しい生命の狂気を見た。


「雄渾なる海の支配者のひとりでしょう。あのような色のない旧き貴種には、特別な呪力が宿るのです」

「たしかに白蛇や白狐には霊力があるって言うよな」


 ようやく引き上げた船頭の介抱をしてやる余裕はない。


 なぜなら――


「これは? ちょっと樋口さん、寺田さん、うわっ!」


 ――みるみるうちに渡し舟が色とりどりの珊瑚に侵蝕されていくのである。


 赤や黄や青の珊瑚は髪留めにするにもってこいの可愛らしさだ、などと俺は場違いなことを考えていた。赤い珊瑚で簪を拵えて月の兎に贈ってやったらどうだろう。きっとよく似合うに違いない。


「樋口様。何卒、思考を乗っ取られませぬように」


 寺田に頬を張られた。


「なんだよ痛えじゃねえか」

「ここは迷宮ではありませぬ。死んだらもう決して――」


 目が醒めた。そうだ、迷宮の破格の厳しさは知っている。と、同時に呪力と不合理に充ちたあの場所に甘えてもいたのである。ここでは復活はない。その厳然たる事実は俺をわななかせた。


「珊瑚を見過ぎてはなりません。幻惑の色調が人を狂わせます」

「しっかし、どうすんだ、このままじゃ船は珊瑚に喰われて沈んじまう。あの鯨を斬り殺すのか?」

「いいえ、この騒がしい大仕掛けのタネはすでに喝破しております。あの鯨こそがまさに囮でありましょう。敵の本体はすでに見えております。はじめから隠れてなどいなかったのですから」


 と、いきなり剣を柄を寺田は船頭の脇腹に叩き込んだ。


「お主は何者だ? 呪力をひた隠しにする手管。某にもいっかな見抜けなんだ」


「ち、違う、あっしは……」と怯えた眼で船頭は身を竦める。俺と御守は寺田が乱心したのかと思った。人に狂うなと忠告しておきながら、てめえがイカれたなら世話ねえぜ。


「韜晦致すな。次は斬る」


 大波を立てて鯨の腹が水面を叩いた。渡し舟は危うく転覆しそうになる。御守は絡繰りの剛腕でもって珊瑚を引き剥がしていく。乱暴にすれば船底に穴が空いてしまうだろうが、いまは慎重にする余裕はない。慣れぬ海上での戦い。一歩間違えばあっという間に真の死に見舞われるであろう。


 ほうほうての体で海へと逃げ戻ろうとする船頭を俺は羽交い絞めにした。

 本当にこいつが敵なのかはもはやどうでもいい。少しでも事態の打開になりそうな可能性に賭けるしかない。寺田は迷宮の深層部から俺を救い出してくれた、言ってみれば恩人である。改めて命を預けてみるのも悪くはなかろう。


「やめてくだせえ、勘違いでごぜえます!」


「ちょっとやっぱり」と御守が眉根を寄せる。


「うるせえ、おまえが善人だろうが、無辜の民だろうが、知ったことか。どうせみんな助からねえのなら先に殺す。だろう寺田さんよぉ」


 ええ、それでこそ、と寺田は冷厳と笑んだ。


「それでこそ、江戸の人喰い。大江戸大迷惑。樋口二郎。喉を裂けば、その呪禁師の結界は破れましょう。この男の喉の白さがあの白鯨の呪力を引き込んでいるのです。幼き日より鉛白の毒を取り込む特殊な修法の末に得られる力があると聞いたことがあります。おそらくこの男は――」


 備中だらに党・白焚乱しらたきろん――だらりと力を抜いて船頭は名乗った。


 喉ぼとけには奇妙に漂白された紋がある。刺青の類かと思ったが、肌を白く染め抜く顔料などついぞ知らぬ。寺田の話によれば、これは何かの呪紋ということなる。観念したらしい船頭が口笛を吹くと白鯨は穏やかになり、綿津見わだつみの底へ還っていった。船に生えた珊瑚はバラバラと剥がれ落ちていき、渦を巻いていた海面もまた凪ぎの静けさを取り戻す。先程の水死体がぷかりと浮いてくる。白焚の呪法は屍を使役できるのであろう。


 寺田が問うた。


「目的は? お主らだらに党は壊滅したと聞いておったのだが」


「だらに党は負けちゃいね。必ずや返り咲く」と口惜し気に白焚は言った。年の頃三十を超えたばかりの白髪混じりの中年であったが、船頭にしては手が胼胝もなければ、浅黒い肌も長年日に焼けた色ではなく、ひと夏かそこらの薄っぺらい小麦色であるから寺田はどこか違和感を抱いていたのだろう。


「いつから見抜いてたんだ?」

「決め手となったのは、イチイの木で作られた櫂に触れた時です。櫟は神官が笏の素材とするものであり、霊木としても珍重されていると聞きます。これで船を漕ぐ船頭などおりますまい」

「さっすがじゃね。防人・寺田宗有」


 櫂を借りた時にそこまで思い及んでいたとは、戦事のみならず、常日頃よりの洞察力が比べものにならぬのだ。その眼力こそが寺田の強さの根本であろう。


「聞かせてくれまいか。備中でいかな禍事が起ったのですか?」



 



 

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