蝕
――さてもまぁ、真っ暗である。
その日、夜とたがわぬ濃密な闇に包まれて地上の誰もが世の終わりを噂した。
かくの如き異変の真っ只中、生家の庭先では首に縄を引っかけた我が弟がもぞもぞと地べたを這い回っている。
迷宮の数々の窮地をくぐり抜けた俺でさえ面食らう状況ではある。
「何がどうなってやがる!? 久兵衛、謝ってばかりじゃ埒が明かねえ、一体どうしたんでぇ? てめえがめそめそしてるから、お天道様も引っ込んじまってるんじゃねえか」
俺は顔中を涙と泥まみれにした弟の脇腹に蹴りをくれてやった。するとようやく弟は重い口を開いたのであるが――
まず、ここへ至った事分けを話さねばなるまい。いくらか時を遡ってみようか。
二月ばかりの迷宮暮らしに飽いた俺たちは久方ぶりに地上へ出たのであった。
隠宮奉行へ鳩肉を献上し、一羽あたま二両の報酬を受け取る算段である。
それだけではない。我が伍の面々もそろそろお天道様が恋しい頃合いであった。魍魎街の住民たちは陽光の射さぬ迷宮にすっかり馴染んでしまっているのだろうが探降者は必ずしもそうではない。
時折、光を浴びねば心に澱のごときものが溜まっていく。
こうして伍の面々の気散じを案配するのも伍長の務めであった。鳩どもの代金を山分けすると、あとはしばしの自由だ、各々が気ままに振舞うがいいと俺は伍を散開させた。
――まではよかったのだったが、すぐに己の身を持て余した。
気の置けない友もいない。情の通じた女もない。
地上になんぞ、心寄せるものが何もないのである。
御守は雪之丞と連れ立って機人街へカラクリの部品を探しに行くという。
三浦は画材が京より届いている頃だと自分の十間長屋へ戻った。
薊野は寛永寺の境内で甲羅干しと洒落込むらしい。
ご無沙汰だったお天道様はそれだけで人を高揚させる力がある。
「ちぇっ、俺はどうすっかな。家に顔でも出すか。でもなぁ」
気が進まなかったのである。
親父も弟も反りが合うとは言い切れぬ。回天楼の事を調べるなら麟堂先生のところがうってつけだが……。
「樋口さん、後でおいらも顔出すから家に戻ってなよ。あんたの家には世話になったから酒でも手土産にするさ」
と雪之丞に言い含められた。御守に懐かれて辟易しているようで理由をつけて逃げたかったのであろう。後から考えればこれがよかったのである。これがなければ俺は盲人の矢の如く色街か賭場へふわふわと飛んで行ったに違いない。
いつものようにこっそり裏口から忍ぶように家へ這入ると、秋枯れの庭が侘しくせせこましく眼に映る。萎びた雑草が手入れもされずにへたり込んでいる。
――思えば、夏の半分以上を薄暗い地の底で暮らしてたのかよ。もったいねえ。
などと心中でこぼす間もあらばこそ、庭に陰気な猫背がひとつ、看過しがたい挙動を示すのでないか。
「やい、久兵衛、てめえ、何をしてやがる!」
と俺は敢然走り出す。
なんたることか、いままさに実弟が柿の枝に縄を吊るして首を括ろうとする矢先であった。
「馬鹿野郎が!」
柿の木の幹を抜き斬りにした。
斜めに滑り落ちる樹木は弟を下敷きにしかけたが、弟は地面を転がって、なんとか圧死を免れることができた。
「兄上。どうして柿の木ごと斬るのだ。助けるなら縄だけで充分だろう」
さっきまで死のうとしていたというのに、まるで殺す気かとでも言わんばかりの言い草であった。しかし覇気はない。俺は言った。
「この木は前から景観を損なってたんだよ。せいせいすらぁ」
子供の時分、この柿の木から落っこちて怪我をしたことがあったので、いまだに恨みを抱いていたのである。愚かしい逆恨みだが、それが俺という男の性根である。
――いや、そんなことよりも。
「何を血迷った? どうして首を括る? 武家の子。やるなら切腹だろうが」
「兄者にも父上にも合わせる顔がない。申し開きが立たぬ」
「だから、どうしたんでぇ?!」と詰め寄った時であった。
突然に陽が翳ったのである。雲がよぎったのではない。まるで天空の炉がふっと吹き消されたようであった。切腹の話はうやむやとなった。
「お終いだ。この世はやっぱりお終いだ!」
どこか嬉し気に弟は喚いた。地団駄と舞踏の合いの子のような足踏みであった。やけっぱちなのか弟に似合わぬ陽性の逃避である。
地上が真っ暗だというのにあべこべにこいつだけは明るい。
まったく滅茶苦茶であった。
麟堂に聞いたことがある。これは蝕という現象であるらしい。天の理に従って周期的に起こるものであり、世の終わりなんかじゃあない。見識のない庶民共が騒いでいるが、取り立てて危険なことはないであろう。もし死んでいたら、弟の息の根が止まる刹那に世界も真っ暗もなっていただろう。芝居がかった野郎だ。
「道場を破られた。看板を取られてしまった」
「はぁ?」
「素性もわからぬ貧乏浪人に不覚を取った。稽古を見学したいというから道場に上げたら不意打ちを――」
道場での油断は負けた言い訳にはならぬ。弟が唇を噛むのは、それをわかっているからであろう。無念を滲ませる横顔にさすがの俺とて無感覚でいられるわけでもない。
「親父は?」
「父上はもうひと月も行方知らずだ」
道場に降り掛かった難事も、この大地を覆う変事に気を取られてちっとも頭に入ってこない。まるで蓋をされた鍋の底にいるようである。末法の世というが、こんなとんでもない事態に出くわすとは。陽光を浴びようと地の底を這い出てきたってのにこの仕打ちはどうだ? 俺はじっとりと天を恨んだ。
「けっ、たかだかそんなもんで死ぬんじゃねえ。てめえのようなへっぽこに預けた時点で親父だって看板なんざ屁とも思ってねえってことだろうが。気にする程のこともねえ」
「そういうところは父上にそっくりだ。流派の面目というものをまるで――」
「うるせぇ、あんなのと一緒にするんじゃねえよ」
さっきまで自死しようとしていたくせに弟はにわかに生気を取り戻して、俺に突っかかってくる。久しぶりの兄弟喧嘩に白熱しているとあっけなく日輪は蘇った。
「れ?」取っ組み合いを止めて、俺たちは天を仰いだ。
「なんだってんだよ、人騒がせな」
俺は弟を突き放して庭に寝っ転がった。
恐れをなして屋内に籠っていた町人どもがぞろぞろと外に出て、しきりに騒いでやがる。そりゃそうだろう。一生に一度お目にかかれるかどうかっていう出し物だ。孫の代までの語り草にするに違いない。剣術道場の首吊り騒動は見損ねただろうが。
「さっ行くか」俺は起き上がると言った。
「どこへ?」
「決まってんだろ。看板を取り戻しに、だよ。ちょうど手持無沙汰だったところだ。いい暇つぶしにゃなるだろうぜ」
× × ×
下谷のあばら家にそいつらは巣食っていた。
――門上の
「鳩を克服した俺に龍なんざ相手になるか」
俺は勢いよく門を蹴り開けた。
荒廃した屋敷には、住まいにお似合いな連中が屯していた。
「ひぃ、ふう、みぃ、よ」
折よく、焚火を囲んで雁首を並べてやがる。
ひとりはハゼにそっくりの不細工。もうひとりは平目
どいつもこいつも潮の香りがしそうだ。
「誰だぁ。てめえは?!」
「うちの看板預けてあんだろ。貰い受けに来たぜ」
凄んで突っ込んでくる
「行儀よくしな」
焦げた泥鰌が飛び上がるのと同時に他の三人が刀を抜いて半円状に俺と弟とを囲む。
「雑魚、雑魚、雑魚。おい久兵衛。おまえこんなやつらに遅れを取ったのかよ」
「違う」と弟は肩を怒らせた。「わたしは――」
「騒がしいな」
破れ障子を開けて乗り出してきたのは刀傷を頬に刻んだ優男であった。
「あいつだ。あいつにやられたのだ」と弟。
「なんだ、ようやく人間らしい面のおでましか」
「女と戯れていたってのに邪魔をするな。無粋な連中だ」
野々目さん、と魚どもが口々に騒ぐ。
破れ障子の穴から女の顔が覗く。助けて、と口の形が動いたのを俺は見逃さない。
「手籠めにした女か」
「悪いか。俺が味見したらこいつらにもおすそ分けしてやるのさ。大抵は嬲り殺しにしちまうんだがな。へっへっへ」
須磨立天流剣術、野々目一刻。そう名乗った男の手下どもが下卑た笑いを浮かべた。
「屑どもが。万死に価する」と弟は憤りを露わにするが、己の兄の所業を棚に上げているあたりが、どうにもほろ苦い。
「別にどうでいいよ。俺には関係ねえ」
などと無関心を決め込めば、何を勘違いしたのか「足が竦んで動けねえのか、おい。びびってんじゃねえぞ。ひょっとこ野郎が」と穴子が調子づくのである。平目とハゼも芸のない罵詈に同調して浮かれている。
「風邪こじらせた野良犬みてぇな目付きだ。ほら、噛みついてみろい!」
「腰の得物は飾りか頓馬。へたれ道場のへたれ剣法見せてみろ」
「どうしたどうした、ほら、脳足りんのお茶漬け侍」
炎の周りを
「はぁ。ここはあれか。竜宮城か。亀を助けたおぼえはねえが」
「で、お客さん、用向きはなんだったかな?」と野々目が縁側から大げさに飛び降りて言い放つ。
「夢窮館ってボロ看板あんだろ。そいつを探してんだ。心当たりがあるならさっさと出せや」
「ああ、それか」と野々目が言う。「話は変わるが。芋を焼いている」
「変えるんじゃねえよ」
「ひとつどうだ? 秋芋は嫁に食わすなというが――」
「それは茄子だ。おまえの教養は下半身から漏れてんのか」
裸体に女の打掛を羽織っただけの野々目をちくりと刺激してやると、ぴくりと相手のこめかみが震えた。いまだ股間のものが怒張しているところを見るとなかなか太い肝をしている。そいつは認めよう。
「そうか。要らないのか。せっかくいい火加減で焼けてるのになぁ」
いやな予感がした。俺はじっくりと炎の中を覗き込んだ。
――そうかい。俺はすべてを理解した。
「しけた看板だったが存外よく燃える。なぁ、おまえら。やっぱりお客さんに食べ頃の芋を振舞って差し上げろ」
うちの看板だけではない。見知った他所の道場の看板もそこにはあった。江戸の道場を荒らしまわっていると見える。野盗と変わらぬ連中だったが、でっち上げた流派をいっぱしに掲げて売り出し中というわけか。大望を抱いて田舎から出張ってきたのなら、少しは歓迎してやらねばなるまい。
「芋は要らねえ。でもよぉ、何かを施してくれるってんなら。喰わせてもらおうか」
「ほう? 一体何をだ」野々目が歯を剥いた。
「うちの弟がおまえらを『万死に価する』と言った。こいつは餓鬼の頃から正直者でな、嘘がつけねえのさ。こいつが『万死』と言ったなら、おめえらは数限りなく死ぬ。そして最後にゃ人ならぬ何かに喰われちまうとさ」
俺の舌鋒に一瞬だが連中の面つきに翳が兆した。恐れではないしろ、理解の及ばぬ相手への淡い不信感のようなものである。
「ふん。不甲斐ない弟に代わって兄が仇を取りに来たという恰好か」
「こいつが俺に泣きついたわけじゃねえ。そう、これはな。純然たる気晴らしさ。今日はお天道様の機嫌もよくねえ。胸の内がよ。ざわざわと波立ってやがるのさ」
俺は焚火に片足を突っ込んだ。舞い上がる火の粉。
ここからの俺の言葉は火掻き棒だ。脊川黙雷が呪力を踊りに込めたように俺は言葉にそれを引き入れる。
「あんたぁ人のひとりやふたりは殺してるか。ま、大江戸にゃ迷惑千万な人斬りなんざ掃いて捨てるほどいる。ところが道を外れた人喰いはそうでもないのさ」
俺がとっくに抜刀していることに誰も気付きはしない。
「――さて、お前らの前にいるのは誰だい?」
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