曼荼羅


 ――オン・サンマヤ・サトバン


 繰り返される真言。

 無数の僧の声が幾重にも重なり合うにつれて心は高波にさらわれていくようである。


 寛永寺の堂内の暗がりの中を俺はひたひたと歩を進める。一歩踏み迷えば、高揚は転落に変じるに違いない。墜ちる処は蠱惑の淵か。無明の暗がりか。

 危うい平衡を保ちながら、ここだ、と感じられた場所に歩を止める。

 目隠しされた俺の手からしきみの華が投じられた。

 華の落ちた場所に描かれた仏尊を己の守護仏とするのである。しかし、これは通常の結縁灌頂けちえんかんじょうとは些か異なる。使われる曼荼羅が金剛・胎蔵の両界のものではない。

 華が落ちたのは色鮮やかな――そして毒々しいまでに煌びやかな――曼荼羅であった。神経へ直に触れるような色使いと筆致。宇宙の真理を絵解きする曼荼羅には多くの種類があるが、天竺インドはもちろん西蔵チベットにもこのような作例はありはしない。


 ――俱塵くじん曼荼羅。


 麟堂が迷宮の底より持ち帰ったと言われる、異貌の神々の雲集を描いた一幅の絵がそれであった。これが仏教の曼荼羅と似て非なるものであることは一目瞭然である。


 これはいかなる神々か。

 ある者は憤怒に戦慄き、

 ある者は悦楽に悶え、

 またある者は哄笑を炸裂させている。

 狂乱の宴。


「どうぞ目隠しを取ってください」

 阿闍梨であろう、ひとり別色の袈裟を纏った老人が厳かに告げた。


 華は曼荼羅のほぼ中央、胎蔵曼荼羅であれば、八葉の北方、天鼓雷音如来の座す位置に落ちていた。俱塵曼荼羅においてはそこには、縄に鉤をぶら下げた青い肌の女が踊っているのであった。


「これは?」と俺は阿闍梨を促した。

瘡面そうめん羅刹女。死と春雷を司る女神」

 女神の額にはきずがあったが、それでもなお美しい。


「これが俺を守ってくれるってのか」

「不敬は災いをもたらしますぞ。特にこの女神とは気安く付き合えるものではありませぬ。麗しき尊顔ゆめゆめ忘れることなかれ、間断なく憶念し夢の中にても拝するほどになるべし」

「わ、災いってなんだよ」

「女神を口汚く罵った男がおった。ある日、潰れた蛙のように死んでおりました。あたかも天高くまで吊り下げられて――そして真っ逆さまに大地に叩き落とされたかのような死に様であったそうな」


 阿闍梨の恐ろし気な言い草に背筋を冷たくしながらも、ともかく俺は守護仏を得たのであった。これによって俺が仮初の安定を得るであろうとは麟堂の言である。


 ――呪法とは幾重にも連なる意味の層を跨ぎ超えていくことなのだ。かたい殻のような自我ではうまく働かぬ。お主のごとき自己が揺らいでどこまでも確定せぬものにはまさにうってつけよ。しかし物事は一長一短でな。戸口が四六時中開け放してあるのと似て余計なモノに忍び入られる危険もまたある。


 そこで帰依する対象が必要となるのだそうだ。

 守護仏は帰依者に力を貸し、あるいは知恵をもたらしてくれるというが、この禍々しい女神にはいまのところ恐ろしさしか感じぬ。

 麟堂のしたり顔が思い出される。どうもいろいろとあの爺さんに乗せられている気がしないでもないが、あれこれと詮索するのは性に合わぬ。迷宮で生きる術をくれるというのならありがたく貰っておこう。


「瘡面羅刹女の鉤は雷をあらわしておりますれば、あなた様には雷の八卦呪法が相応しいでしょう。守護仏は力の源。正しく依らば大きな支えとなりましょう」

「大仰な儀式をしたわりにゃ、別になんともねえや」

 と強がってみせたのは生来の天邪鬼のせいである。ぴりぴりとした圧力が四方八方から押し寄せてくる。いったん俺の内側に撓められた奔流はついで全身の隅々にまで漲ってくるのだから顔に出さぬが内心驚いていた。


「ほう、天も応じております」


 阿闍梨が堂の扉を開け放つと、まさしく垂れこめる雲間にぴかりぴかりと稲光が認められた。立ち込めていた香気も解き放たれて湿った外気に柔らかく溶ける。

「なんだ、てめえら待ち伏せか」

 と俺が声を放ったのは外で待ち構えていた三つの人影に向けてであった。


ふたつは直立し、もうひとつは横臥の姿勢である。

 雪之丞。本堂に足を向けて不敵に横たわるのは絵師三浦。そして最後の顔は意外な人物である。

「薊野。西瓜野郎か」

 俺が呼ばわると群盗がひとりである薊野はつかつかと歩み寄ってきた。ボロを纏った西瓜頭とくれば、あまり寺社に似合わぬ風体である。

「お主との約定を果たせなかった。遅くなったが詫びに来たのだ」

「ああ。そうだな」

 薊野が言うのは月の兎の屍体のことであろう。雪之丞に間接的に聞いただけで直接こいつらの口からはまだ聞いていなかったのだ、丁度いい。

「何があった? 鼬の野郎はどうしたい? 頭領である奴が真っ先に仔細を述べに来るのが筋ってもんだろうが」

「頭領は来れぬ」

「なんだって?」

 聞き返す俺の足元で薊野がひれ伏した。

 その背中がぶるぶると震えている。恥か怒りか。


「お主の女が盗まれただけではない。犯人は我々を呆気なく瓦解させた。頭領はなんとか命を拾ったがひどい怪我だ。あれではもう盗人稼業も看板さ」

「誰だ? 誰がおまえらほどの手練れを? 敵も群盗の類か」

「いいや。たったひとりの仕業だ。碧眼金髪。おそらくあれは迷宮の子」

 苦々しく薊野が顔を挙げると雪之丞が俺に目配せをした。

 とっさに喜兵衛のことを思わずにはいられない。俺の魄を喰らって急激に成長したという喜兵衛が機人街を去ってどこへ向かったのか、それは不明である。

 衰弱した俺が臥せっている間に喜兵衛は消え、そして月の兎つきのとは奪われた。これは果たして偶然であろうか。


「ひとつだけわかっていることがある。やつは女を連れて迷宮に消えた」

「間違いないのか?」

「ああ、我らの網から逃れて行方を晦ませられる場所などそうはない。それに貴重なお宝には位置を示す呪をかけてある。間違いはない。女は地の底だ」


 薊野にしては太々しさが欠けていたが、それでも自信を持って言い切った。


「だったら、丁度いいぜ。俺は迷宮に潜ることにした。ついでに月の兎も取り戻す機会もあろうよ。ただよ、盗人は、女の死体なんぞをどうするつもりなのかね?」

「さて、おぞましい使い道ならいくらである。口にできぬ邪法に使われねばいいが」

「馬鹿言っちゃいけねえ。死んだものを蘇らせる以上のおぞましい行為があるもんか。おれがやろうとしてたのはそれだ」


 俺と薊野の問答を、ごろごろと寝転がりながら寄ってきた絵師の三浦が聞き逃さず爛々と眼を輝かせる。


「そうよ。世の理を覆す非法の数々。迷宮とはそれがまかり通る場所。描きたいわ。描いて描いて描きまくるんや。どれもこれもそそるで。おぞましいもの、やりきれないもの、えげつないもの。全部大好物や」

「あんた本当についてくるつもりか?」

「もちろんや。断られても無理やりひっついていきますよって」

 すると三浦はぴょんと飛び上がって得意気に胸を張る。

「符術を使えるってのは眉唾だと思ってんだが」

「そない言うんやないかと思ってな。ほれ」

 懐から取り出したのは黄紙に朱で書かれた符であった。

「そこのあんた呪禁仕やろ。これを燃やしてみい」

 挑むように促されて薊野はむっと気を尖らせる。果たして符は西瓜の一瞥にちろちろと燃え出した。

「そっちのあんた。雪之丞ゆうたか。この燃えカスの灰な、デコに塗ってんか」


 雪之丞は言う通りにする。狭い額がくすんだ色に染まった。

 すると、ふわりと雪之丞の足裏が大地から離れた。


「ふん、浮身符か。珍しくもないな」

 と雪之丞は文字通り見下ろして言うが、唇が青く震えている。

 迷宮には瘴気の沼やら重みをかけると発動する罠もある。このように身体を浮かすことでそれらは回避できる。が、通常の浮身符は焼いて服用するのではない。ただ身体の一部に貼り付けるだけである。


「あんたもわかってるはずやで。それが浮身符やないっちゅうことが」

「――こいつはなんだ?」

 きょろきょろと雪之丞はあたりを見回す。どことなく俺はその視線の迷う先に心当たりがある。


「視えてるのか。この世ならざるものたちが」

「これがそうなのか?」

 俺にはわかった。雪之丞は幽世かくりよのモノたちを視ているのであった。迷宮の化け物どもに慣れているはずの雪之丞だったが、地上で妖物どもを見かけることは滅多にあるまい。子供のごとき純粋な恐れが端正な顔立ちを歪ませる。


「なぁに慣れちまえば大したことはねえ。虫や雑草と同じだ。どこにでも居るが、それだけのことだ」


 俺は雪之丞を落ち着かせようとその肩に手を置いた。

 この符はその身を大地から遊離させるだけではない。心と魂までも現世からわずかに引き剥がすのだ。そしてあちら側を垣間見させる。


「遊魂符。あんたの霊眼ほどやないが、一時の楽しみになら効き目は覿面やろがい」

「気色悪い。冗談じゃないぜ!」

 慌てふためく雪之丞を尻目に三浦は束ねた蓬髪をざわりと揺らす。


「よう見とき。こんなけったいでおもろいもんは、なかなかあらへん」

「効き目はそのうち切れる。ちょっとした見世物だと思って我慢しな」

「駄目だよ。眼をつぶっても視える!」

 想像するほかないが、雪之丞の眼にはおどろおどろしい魑魅魍魎が映じているはずであった。


「そういうものなのさ」と俺は先日書物の怪に惑わされた夜を苦く思い出しながら言葉を選ぶ。下手をすれば気が狂うことだってあるのだ。笑えない余興である。三浦、いや曽我蕭白そがしょうはくといったか、やはりこの男は危険なのだ。


「これでわしを伍に入れる気になったやろ」

「あんたが腕の立つ符術仕だってのは納得した。だが、もうこんな真似はするな」

 と釘を差せば、水野は茶目っ気たっぷりに舌を出した。

「これで四人や。残るひとりはどないしょうか」


 雪之丞はまだしも、薊野は迷宮に同行するとは一言も言っていないが、まるで当然の成り行きだとでもうように水野は決めつけた。それに抗弁する様子もないところを見ると、この寡黙な西瓜頭ははじめからそのつもりだったのかもしれぬ。


「いいのかい。あんたら死ぬかもしれねえぜ。いや、もしかしたら綺麗に死ぬことすらできねえのが迷宮だ。それでも行くんだな。底の底まで」

 俺は覚悟を質した。

 ぴしゃりと強く水面を叩くような音、それが思いがけず尾を引いたかと見れば、どうやら近く雷が落ちたらしい。

 三人の返答は聞くまでもなかった。

 


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