失踪

 何かが大きく損なわれた。

 命の根っこのところに大きな穴が空いたようであった。


 試練を終えた俺は麟堂の寓居に身を寄せて養生の日々を過ごすこととなった。眼を覚ましても数日は朝と夕とに運ばれてくる膳に箸をつける気力もなく、うつらうつらと眠り続けたのだった。


 誰ぞが枕元に立つ気配がしたが、それを確かめることもせず、ぼんやりと譫言うわごとのようなものを口走ってはまた錯綜した夢に落ちていく。一事が万事、その繰り返しであった。

「気分はどうだ?」

 ある日の夕餉ゆうげを手ずから運んできたのは麟堂であった。藍染の前掛けをしているところを見ると煮炊きをしたのも麟堂かも知れぬ。

 俺は頑是ない幼子のように首を振った。

「――よくわからぬ」

はくのありったけを喰われたのだ。無理もなかろう。魄は人の精気の大元よ。それを損なわれれば、ひとまずは立ち居も叶わぬようになろう。死なずに済んだだけでも僥倖さ。言ったろう、これはそれほどの賭けであったのだ」


 淡々と麟堂は語った。

 ようやく身を起こした俺は匙を取って粥を口元に運ぼうとするが、それもままならぬ。手元が震えて大半をこぼしてしまう。

「急くな。ゆっくりでよい」

 そう言われて俺はなおさらに焦燥に駆られたのであった。月の兎つきのとはどうなった? あれを鼬小僧に預けておけるのは七日きりと定めてあったのだ。

「憂慮があるのであろうが、今はどうにもならぬ。恢復に勉めよ」

「露禅丹があったはずだ。あれなら――」

「あれとて万能ではない。魄までを補うことはできぬ」

「喜兵衛は?」

 それを問うと麟堂の顔色はにわかに曇った。

「消えたわい」

「どういうことだ?」

 麟堂の絣の着物の胸倉を掴みかけて俺は前のめりに突っ伏した。


「さての。お主の魄を喰らった喜兵衛はみるみるうちに大きくなりよった。そうよ、歳の頃十六ばかりに見えるほどにな。一度、お主を見舞ったようだが、そのままどこかへ去ったわい。迷宮の子の心は儂にも知れぬ」

「あれからどれだけ日が経った?」

「四日」

 ということは、震央舎へ入門してからすでに五日の時間が過ぎ去ったことになる。何か手を打たねばならぬ。このままでは月の兎が朽ちてしまう。

「雪之丞を、雪之丞を呼んでくれ」

 俺は体面もなく縋った。

「あやつなら、お主を案じて生きた心地もせぬような顔つきであった。今日は帰したがまた明日にでもまた顔を出すであろうよ」

「駄目だ。早くしねえと」

「まあ、これを飲め、よく眠れる。先日の胡乱な茶ではないから安心せい」

 麟堂は茶を俺の口に流し込んだ。それに抵抗する力も出ないのである。

「よせ、俺はやらなくちゃいけねえことが……」

 茶には鎮静の効果があった。そのまま俺はぷっつりと意識を失ってしまう。

 何度もそんなことがあったような気がするが、じっさいのところどの記憶も夢かうつつかわからぬ曖昧模糊としたものである。

 俺はただひたすらに眠り続けた。


 × × ×


 雪之丞と面会したのは、さらに数日後のことであった。発熱した俺はしばらく寝返りも打てぬほど衰弱し、ひたすらにうなされていたのである。


 熱が引くと、ひどく痩せさらばえた身体を引きずって俺は雪之丞とふたりきりになるため縁側に辿り着いた。まだ冷える時節であったから、病人の具合を慮った麟堂は苦い顔をしたが構うものか。内儀がくれた綿入りの褞袍を引っ被った姿はまるで柔らかな達磨である。


 挨拶もそこそこに俺は弱々しく雪之丞へ詰め寄った。

「月の兎はどうなった?」

 雪之丞はどうも歯切れが悪い。

「それがさ、病み上がりにゃ言いにくいんだが」

「なんだ? はっきり言え」

 すると雪之丞はあたりをはばかるように小声になって、

「いつか直接鼬のやつから話があると思うんだけどさ。そのつまり……」

「まどろっこしいな。はっきり言いやがれ」

 急かす俺には勢いはあっても覇気がない。死にかけの蝉が最期の力を振り絞っているようであった。雪之丞は難しい面で眼を逸らした。

「消えちまったそうだ」

「なんだと?」

「言葉通りの意味さ。やつらの氷室から奪われたそうだ。盗人がブツを盗まれるなんて面子が立たねえ。犯人を草の根を分けても探し出そうと躍起になっちゃいるが、成り行きははかばかしくねえそうだ」

 氷室に詰めていた鼬の手下の何人かが――あの吟孤ぎんこという女も死傷したという。あれだけの手練れを仕留めるとは盗人もただ者ではない。


 鼬の腹の内も穏やかではないはずだ。

「そうか」

 がっくりと俺は項垂れた。しかし下手人にも鼬にも怒りが沸いてこない。平生の俺であれば誰であれ罵り喚き打ち殺さんばかりの憎悪に乗っ取られるであろうに、どうしたことか胸の内はとても静かでそよとした風も吹かぬ。

「仕方あるまい」

 腑抜け、とはこのことである。喜兵衛に激情までをも喰われてしまったかのようであった。いまでは何故あの女にそこまで執着していたのかもわからぬ。すべては夢幻の物語のささやかな挿話であるような気がする。

「気落ちするのはわかるがよぉ、樋口さん。ともかくいまは大人しく静養するんだな。体が元通りになりゃ気力も出てくるってもんだ」

「ああ」俺の返事はどこまでも力がない。


 ――消えたわい。

 ――消えちまったそうだ。


 喜兵衛も月の兎も消えてしまった。

 鼬小僧と震央舎の両者を手玉にとってやろうとしてみたものの、俺ときては、降りかかる厄介事に右へ左へと翻弄されるばかりで何も成し遂げられぬ。どうやら俺は己で買い被っていたほどの男ではなかったようだ。

「なぁ、雪之丞よ、男の身体であっても女の身体であっても、おめえはおめえだ、とわかったような気安い台詞を前に俺は吐いたな」

「さて、そんなことがあったかね」

 雪之丞は忘れたふりをしてくれる。そのくせに迷宮で復活させてやった事など忘れちまえばいいものを、いつまでも義理立てしているのである。

「しかし、手前の素性が怪しくなった途端、どんな在り様でも俺は俺だ、なんておためごかしはすっ飛んで、人でありたい、そうでなきゃ収まりがつかねえなんぞと、びくついて泣き言を吐く始末だ。まったく、俺はどうしようもねえ野郎だぜ」

「なんだい、人斬り、いや人喰い樋口二郎が悔いるのかい。それこそしまらねえ話だ。おめおめと悔いるぐらいならむしろ誓いな。あんたが言ったんだぜ、あんたとおいらとで迷宮の腸をぶち抜くのさ」

 そう言うと、雪之丞は俺を乱暴に庭先へ引っ張り出した。いまにも雪が落ちてきそうな空模様であった。


「そこに立ってな」

 俺はぶるぶると震えた。庭の池には氷が張っている。凍てついた大地に裸足の体温がみるみる間に吸い取られていく。そうして雪之丞は強弓につがえた矢を天に向けて垂直に解き放った。


 ――ヒュッ!


「動くなよ」

「何だってん……」

 雪之丞は問いを黙殺した。

「あんたが人を斬り、人を喰らったのは、あんたじゃなくて難訓なんくんとかっていう化け物のせいなのかい? そいつに唆されてあんたは望んでもいない蛮行を仕出かしちまったのかい? 言いたいことは、つまりはこうだ。あんたもまたか弱い犠牲者なのかってことさ」

 そうである。まさにそうだ。俺は俺でないものであることをついぞ知らぬままに魔性の習癖に支配されていた。弟によれば、以前の俺は無鉄砲だが正義感溢れる当主であり頼れる兄であった。それが閂山での不運な邂逅によって運命の歯車は狂った。


 ――そうはそうであろう。だが、しかし。


「違う」

 と俺は自分でも思ってもみなかったことを口にした。

「すべては俺が望んだのさ。きっと間違いはない」

 その時であった。

 天に向かって放たれた矢が踵を返して地上に戻ってきた。ちょうど俺の鼻先をかすめて地面に突き立ったのである。もとより、この地点を狙っていたのだとすれば恐ろしいほどの腕前と言えよう。悲運も僥倖も己が運命とする。そんな決意を言祝ぐように矢は俺の正中線を通って大地に深々と刺さったのである。

「あんたならば、そう言うと思ったよ」

 優しさと険しさの同居した面貌で雪之丞は俺と対峙した。

「喜兵衛やあの遊女みてえにおいらも消えちまうとでも?」

「ああ、誰もかも何もかも消えちまう。ちょうど……この雪みてえにな」

 ――雪。そう、気が付けば雪が降り始めている。

 はらはらと舞い降りる白の切片に俺は手をかざした。

 このように軽く儚いものたちが矢のように鋭く痛く感じられるのはどうしたことであろう。俺は弱くなった。そして雪之丞は強くなった。

「雪之丞。上達したな。恐れ入る手並みだ」

「駄目だ。本当はさ、あんたの頭の天辺を貫くように狙ったのさ」

 にやりと笑う雪之丞の姿が傾いた。

 ――いや、傾いたのは俺の方であった。

 バタリと鈍い音がしたかと思うと、視界のうちで雪は真横に流れた。


 卒倒した俺は屋敷に引っ張り込まれると、そのまま着物を剥ぎ取られて熱い風呂にぶち込まれた。新しもの好きの麟堂は、出島の和蘭おらんだ商館より取り寄せた硝子窓を浴室に嵌めてあったが、そこより庭に降頻ふりしきるる雪が見えた。


 俺は久方ぶりに空腹を覚えた。

 ――なんだ、生きているのだな、と思う。

 講義室の方から学生どもの騒ぐ声が聞こえる。議論が高じてまた取っ組み合いにでもなったのであろう。


「ふん、おちおち寝てられやしねえな」


 後に引き抜かれた雪之丞の矢は、庭に埋もれた大きな石を穿って深く食い込んでいたのがわかった。それを認めた麟堂は「これぞ至極の一矢ぞ」と手を打って褒めたたえたという。

 


 

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