帰宅
幼子をかき抱き途方に暮れる日が来ようとは思ってもみなかった。
そもそもが、なんの因果で機人の内から子供なんぞが転がり出でるのか、かほど奇体な世の中とはいえ、まるで合点がいかぬ。人斬りの外道が、雨の往来を濡れそぼった姿で貰い乳に奔走するほど情けないものもあるまい。災禍の後である、満足に乳など出ない母親も多い。ろくすっぽ食い物がないのである。
「こんなガキ捨ててやろう。もうたくさんだ」
けんもほろろに門前払いされるのに俺は苛立っていた。
えいや、と橋の欄干から赤子を放りかけたことが幾度あったか知れぬ。その度に雪之丞に押しとどめられ、あるいは己の意気地の無さにへたり込んだ。女子供すら手にかけてきというのに、この子を殺せぬのである。眼を向ければ、染みもない汚れもない柔和な寝顔に毒気を抜かれる。嬰児とは思えぬほど髪は豊かで赤茶けている。どう見ても異国の血である。数日前に喜兵衛がばらばらに分解されちまってこいつが出てきた時、俺は何か心の臓を引っ掴まれるような心持ちがしたものだ。
「憎らしいガキだ。今一歩でふんぎりがつかねえ」
「やめておけ、喜兵衛はあんたを父親と思ってる。人殺しはできても子殺しとなると話は別だ」
喜兵衛から出てきた子供であったから、同じく喜兵衛と名付けた。紛らわしいが元の喜兵衛はいないのだから、間違えることもあるまい。俺を父親と思っているかどうかは怪しいものだったが、あの碧玉を割って出ると一目散に這って来て、俺の小指を握りしめたのは真実である。
「麟堂という男はどこにいやがる。牛込の屋敷じゃ長い留守だと言われた」
「お城に出仕しているならと訪ねてみても、ぴしゃりとはねつけられたしね」
「こっちも腹ペコだってのにガキのために右往左往しなきゃならねえ。なんてこった」
「でもさ」と雪之丞がすいと唇に指を当てて、反駁した。「盗人にかけられた呪いはその子が解いてくれたんだろ?」
「それはまぁな」と俺は歯切れが悪かった。「しかしよ、あれは解いたんじゃねえぜ」
確かに俺の小指を握りしめた喜兵衛は、そのまま呪力の顕現である不可視の蛇を――あろうことか鷲掴みにすると――むしゃむしゃと喰らったのである。
「ま、どっちでも一緒じゃないか。樋口さんはやつらの呪縛から解放された」
あくまで雪之丞は焼野原にそぐわぬ明るさで声を弾ませる。どうやら子供好きらしい。なにくれなく面倒をみてくれるが、乳が出るわけでもなし、子守歌だって調子外れときている。俺たちの窮境はなかなか改善されぬ。呪縛から解き放たれても、やつらの追及から逃れられると決まったわけでもない。
それにしても、喜兵衛が霊的な障りを摂取するのは他の場面でも見た。貰い乳に行った女には狐狸の障りがあった。悪い家相が祟って病に伏している老いぼれもいた。喜兵衛が彼らから何かを引き取って喰らったのを俺は見た。そんなものでも腹はくちくなるらしい。
「貰い乳より霊障の類でも食わせた方が随分と易かろう」
などと俺が提言すれば、雪之丞は心底の軽蔑をあらわに「赤ん坊に得体の知れぬ妖物を喰らわせるのかい」と責められた。
「待て、待て、そんなものを喰らおうが、この子は健やかに見える。まるでお不動さんの脇侍の
「むぅ。ともかく雨風のしのげる屋根の下で子供は養育されるべきだ」
「ちっ、本当はよしときたかったが、こうなりゃ仕方ねえな。行くか品川へ」
「品川というと」
「俺の家さ」
さぞかし気乗りしない口ぶりだったのだろう。雪之丞は声に出さずに笑うと、グズつきはじめた喜兵衛を高々と抱き上げたのであった。
× × × ×
飛白夢到流は、流祖である
「よっぽど嫌なんだな」
「まあな」げっそりと俺は首肯した。
もとより落ちこぼれの厄介者であった。お家の面汚しと開き直ってからは、厄介者の上にタガの外れた道楽者となった。
「トチ狂ったあげくにお縄になって、迷宮の底で大人しく朽ち果てたかと思いきや、今度はひょっこりと面を出してみろ。どんな仕打ちを受けるか。考えるまでもねえ。おまえは憧れてるかもしれねえがな、武家なんざ、お高くとまった気狂いのゴミ溜めよ」
悪罵はとめどない。腹に据えかねた数々の想いが洞の蝙蝠のごとく飛び出してくる。
「事情は違えど、家に顔を出したくねえって気持ちは痛いほどわかるよ」
雪之丞は、俺の内より飛び出した黒々したものを押しつけがましさのない共感でもって射落としてくれる。
品川の家は火災の被害を免れていた。残念な心持ちと安堵との両者が胸に萌え出た。
正々堂々と玄関より戻ればいいものを、俺は裏の木戸より、道場へ向かった。道場の隣には用人のための離れがある。中間の甚太か女中のお縫いに会うつもりであった。奴らに喜兵衛を委ねれば悪いようにしないであろう。たまに銭を渡してやれば、歳の離れた末の弟のように育ててくれるであろう。そう安直に考えていた俺の前に不運にも一番お目にかかりたくない人物が現れた。
――我が弟、樋口久兵衛である。
「兄者か」
雄壮な体躯であった。引き絞った口元は廉直一本気な弟の性格を見事にあらわしている。稽古後、冬だというのに水でも浴びたのか、火照った背中から湯気が立ち上っている。
「獄を出たのか」
すぐにも叩き殺さぬばかりの憤怒の形相であった。赤子を抱いているのが、目下の幸いというべきか、漲る殺気は、しかし動へと転ずることなく、鞘に収まった刀のように閑かであった。
「挨拶さ。親父殿のご機嫌伺いも兼ねてな」
「放逐刑を生き延びたのか」
「こいつらのおかげでな」
雪之丞と喜兵衛に視線を走らせると弟は不審げに唸った。
「赤子と女と?」
言われても雪之丞はたじろがぬ。こめかみを強張らせただけである。
手拭いで隆々とした状態を拭う弟へ、俺は続けた。
「そのことで親父どのに話があるのだ。この子のことさ」
「父上は出稽古に行ったきり、どこをふらふらしているのか、まぁ相変わらずさ。探しているのは兄上だけはない」
「そうか」俺は嘆息した。
父に遭わずに済んで心のどこかでほっとしていたのである。
「では、出直そう」
「いや、二度と来ないで頂きたい。兄上、あなたは家門の恥」
「だろうな」
この場で叩き殺されても文句は言えぬ身だ。持ち前の自制心で抑えてはいても弟から伝わってくる無念と怒りの想いはただ事ではない。
俺は弟と道場とに背を向けようとした。懐かしい記憶がこみ上げてくる。ああ、確かに俺はここで育ったのだ。
「なぁ、楢丸。これが最後だ。一丁、胸を貸しちゃくれねえか」
はっと胸を突かれたように弟は身をすくめた。楢丸、それは弟の幼名であった。こんなふうに呼びかけるのは何年ぶりであろうか。
「いいでしょう。ただし神聖な道場にいまの兄上を上げることはできませぬ。それと殺されても恨まぬように」
「いいぜ。ここでいい」
手入れの行き届いた庭であったが、広いとは言いかねる。俺は木刀を借りようとしたが、必要なし、とすげなく断られた。
「そちらは真剣でどうぞ」
もろ肌をさらしたまま、弟は正眼に木剣を構える。
「舐められたものだ」
俺は抜いた。迷宮で拾った刀がはじめて地上の風に触れる。
「……鍛錬を怠る、なんてことがあるわけがないか。おまえに限って」
「無論、しかし兄者も」
向き合えば、互いの力量は伺える。迷宮で幾度となく死線を越えた俺の武威を弟は少なからず感じ取ったようである。疳の虫の収まらなかった喜兵衛であったが、俺たちの張り詰めた緊迫感におとなしくなる。
――先に動いたのは俺であった。
同じ流儀を遣う者同士である。手の内は知り尽くしていると言っていい。
繰り出したのは〈
「ぬるい」
言いざま、弟もまた体を転じた。するすると蛇のように木剣が伸びてくる。
〈
この二つの型はまるで双子のように互いの気勢に応じ、互いを迎え撃つことができる。あまりに美しく
「ここまでだ」
間合いを潰した俺は、刃の根元を弟の手首に添える。剣先は耳を削ぎ落す高さに浮かんでいる。身じろぎひとつですれば、指か耳のどちらかが欠けてしまうだろう。
「……負けだ」
弟は無念を滲ませた。
幼少よりことあるごとに俺に張り合ってきた面倒な弟であった。こうして叩き伏せてやればさぞかし胸のすく想いがすると思ったが、妙に後味が悪い。下らぬ兄に遅れを取った弟のはずが、どこか和らいだ顔つきなのがけしからん。
「楢丸、おまえがガキの頃から、うろちょろと俺について回る鬱陶しい奴だった」
「そちらは子供の時分には頼れる兄上でした」
「む、馬鹿を言うな、俺は昔から……」
と、言いかけて疑念が頭をもたげた。俺は随分な思い違いをしているのではないか。こいつは俺を慕うがあまり、目障りなほど俺に付き纏っていたのではないか。と、そんな気がしてくる。
「どこでどう行違えちまったんだろうな」と俺は記憶を浚っていくが、しっくりとこない。俺が弟に慕われる立派な兄であったのなら、それはどこで変わってしまったのだろう。人を斬り、あまつさえ喰らうなどという蛮行にいつどこで目覚めたのだろうか。
「よぉ、楢丸。俺は‥‥俺はいつからこうなった?」
ポツリと問いがこぼれた。
頭痛がする。それを探るな、思い出すなと何かが警告を発する。それは迷宮よりも深く入り組んだ隘路への入口である。
「兄上がいつから鬼畜の所業に及んだのか、わたしは知りませぬ。ただ、兄上の振舞いががらりと変わったのは、閂山の社へ三日三晩の参篭を行なった時です。間違いはございません」
「参篭か。確かにやったな。しかし‥‥」
それは当主の座を引き継ぐための儀式と言えた。奥伝を授かるために流祖と天神地祇に証を立てるのである。肉食女色を断ち引き籠る。閂山は小さな山だった。遭難するほど深くはない。
「兄上は三日を経ても戻りませんでした。熊に襲われたのか、はたまた天狗にかどわかされたのかと騒ぎになり、とうとう父上は山へ分け入り――そして兄上を見つけました。以来、兄上の所作は粗暴、面相は
「憶えておらぬ。俺はそこで何をしたのだ。何と出逢い、何を‥‥」
「血塗れて憔悴し切った兄上を連れ帰った父上は、これを他言無用ときつく戒めたのです」
「親父め、やつなら何か知ってるのか」
立ち合いをしている時よりよほど呼吸が荒くなった。
あの異人ラーフラ、それに寺田宗有は俺が俺であることに疑問の石を投げ込んだ。辰巳もまた何かを隠していた。己を知らぬ、というこの心細さに人は耐えられるものか。家も、流儀も、来し方も何の保証もしてくれぬ。俺は誰なのか。
「君が、樋口の次期当主かな」
その時、のっそりと白髭の老爺が道場より姿を現したので、皆、そちらを向いた。声には、自然さと威厳とがあり、思わず心を許してしまいそうな不思議な魅力があった。喜兵衛さえ老爺をみつめると、ぱちくりと眼を瞬かせた。父ではない。
「誰だあんたぁ?」
「言ったでしょう。親父殿を探しているのは兄上だけではないと」
弟がしずしずと老爺を押し戴くようにして腰を折った。
「君たちの父上はなかなかの風来坊だね。儂も人のことを言えた柄ではないが。いい汗を流したことだし、そろそろお暇して日を改めようかと考えていたところだったのだが、妙な成り行きになって辞する機会を逸してしまった」
そう嘯く老人には、しかし汗を流した気配はない。
「御老体。この男はもはや当家の跡継ぎでは御座いません」
「ふむ」老人は探るように俺を見つめた。
「実り多き稽古でございました。いずれまたご指導のほどを」
「こんな爺いを引っ張り出すことはあるまい。父上は百年にひとりと言われる達人であろう。それに兄もなかなか手練れではないか。どれを相手取っても修練には事欠かぬ。まこと、よい立ち合いであったぞ。タダで見せるには惜しいほどにの」
「一門家人、なかなか道場に寄りつかぬ変人ばかりです」
「そうか」と老人は苦笑した。
敬慕の念もあらわに弟は老人を遇するが、俺には目の前の爺さんが一体何者なのかまるで見当がつかぬ。
「おい、楢丸。このお人は誰なんで?」
「この方は――」と弟が言いかけるのを当人が遮った。
「大層なもんじゃない。藤見というただのモグラだよ」
「藤見??」
「ああ、迷宮潜りさ。隠居した偏屈爺いだ」
「ってことはあんた?!」
俺は雪之丞と顔を見合わせた。
「ふ、藤見麟堂なのか?!」
今度は藤見と弟が顔を見合わせる番であった。
――藤見麟堂。名高い防人であり本草学者廻鳳の師である。
牛込とお城へ探し訪ねてもいっこう見つからなかった者が、生家の庭先にひょっこり現れるとは皮肉な話であった。
骨を抜かれるような脱力感に俺は天を仰いだ。
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