ラーフラ・ワイガート


 地下四階は全体に傾いていた。

 仔細に言えば、あちこちから引っ張る力が発せられていたのである。なんとも面妖であったが、時刻によって上りと下りがぐらぐらと入れ替わる坂のようなものと雪之丞は解していた。

「別にこの階層そのものが傾いでるってわけじゃないんだが、物が落っこちる方向がさ、時々に変わっちまうのさ」

「なんだいそりゃ」俺は口をへの字に曲げた。

「子供にゃ面白かろうが、そこへ物の怪もいやがるから面倒なんだ。時刻によっちゃ真横が下になることもあるし、真上が真下になっちまうこともある。上へ上がろうとしてまた地下五階へ出戻っちまうこともある」

「迷宮が真横になるとしたら、まるで険しい渓谷みてえなもんだ。岩山を這い上るくれえの労苦だ」


 懐の守り袋から俺は干し柿と猪肉の燻製を取り出して頬張った。みみずくの意匠の巾着は疱瘡除けの縁起物である。そこには露禅丹の数粒といくらかの食料が収められている。戦国の世であればともかく、江戸では獣肉は出回ってはおらぬ。が、こと迷宮に限るなら、精のつく滋養として探降者はためらわずに口にする。

「ああ、傾斜に逆らって無理に動いても埒が明かねえ。ここは長丁場を覚悟してじっくり攻めるが吉だ」

 雪之丞は迷宮が鉤型に曲がった袋小路に俺たちを押しやった。ここなら上が下になろうが横が下になろうが大方凌げるという。喜兵衛だけはあまり傾斜の力に左右されておらぬようだ。四つある腕の関節のひとつを己で手入れしていた。

「階を上がっていくのは容易だとタカをくくってたけどよ、どっこい、それほど安直にゃいかねえか」

「うん。正味の話、探降者たちは潜る段より、地上への帰路で多く命を落とすのさ。まぁ油断と疲労もあるがね」

「成程な」

 俺たちは交替で仮眠を取ることにした。廻鳳の部屋を出てから数刻を経た。疲れも眠気も頂点に達していたのである。きちんと身体を結わえておけば、天地がひっくり返っても落ちはしないが、束縛は敵の襲来には弱みとなる。このあたりは判断の難しいところだ。この階層の魔物であれば、符術仕の結界符を貼っておけば、まず危険はない。


「なぁ、樋口さんよ」

 うとうととしかけた俺の意識は雪之丞の鈴の鳴るような声に引き戻された。男であろうと気張っていても、生来の甲高い声音は変えられぬ。俺は雪之丞の声を嫌いではないと思ったが、雪之丞はそんな俺の心も気に入らねえはずだ。

「起きてるかい?」

「なんだ」俺はわざと不機嫌を演じた。

「あんたはどんな物差しで殺すのだい?」

「やぶからぼうになんだい」

「誰でも彼でも殺したわけではないだろ」

「ふむ」改めて俺は考え始めた。物騒な過去なんぞを思い返していれば眼が冴えてしまうかもしれぬ。「なぜ、お前はそんなことを気にかける?」

「決まってら、人殺しの知己などいねえからさ。迷宮を出たら、おいらたちは別の道を行く。知りてぇことは、いまのうちに聞いておかねえとな」

「俺を人殺しと知ってもたじろぐこともなく、真っ直ぐに問うのはお前くらいだ雪之丞」

「誉めてるのか。腐してんのか、わかんねえな」

「殺しの物差しか」俺は首を傾げた。真面目に考えたことなどなかったのである。

「直截に言うならこうだ。あんたはここを出たらおいらを殺すかい? 万が一にもあんたの獲物になることもあるのかい?」

「残念ながらお前を殺せる腕はねえよ」

「青面鬼を仕留めた時のあんたなら殺せる」

「それでも雪之丞、お前は殺らねえさ。――そそらねえからな」

 口してはじめて理解できることもある。淡々と語られる、その言葉尻に狂気が滲む。雪之丞がぎゅっと身をすくめるのが感じられた。これまで俺が殺してきた人間たちには特有の何か――そう臭いのようなものがあった。女に子供まで獲物を選り好みしない俺であっても、そこに雪之丞の言う物差しの如きものが働いていたのであった。


「ふうん。何かありそうだけど、わからねえな。ただ、迷宮には、常にうっすらと‥‥そうだな、俺を殺しに向かわせた何かが漂っている」

「おいらが考えてるのは奴のことなんだ」

「おまえの伍を崩壊させたという者か」

「ああ、奴は迷宮の、いや江戸の宿痾しゅくあだ。物の怪や魔性どもに殺されるのならばいい。しかし、同じ人間の手にかかって死ぬのは意味が違う」

「だから人殺しの心を知りたがるのか。その者を倒すために」

「ま、そうだな」だしぬけに雪之丞の気配が弛んだ。「聞いたら忘れて欲しいんだが、おいらはさ、奴に焦がれちまってる。おいらの伍を嬲り殺しにしたあいつの強さに。あの残忍さに」

 うっとりと雪之丞は言った。それは恋を語る乙女そのものであり、およそ望めぬ高みに目指そうとする男の初々しさでもあったろう。

「綺麗だったのさ。やつの殺しの手捌きは。思わず見惚れちまうくらいに」

「雪之丞、お前」

「‥‥」

 すっかり眼が冴えてしまった俺とは反対に雪之丞はすやすやと眠りに落ちて、それっきり寝息しか聴こえなくなった。


 何とも言えない複雑な気持ちに俺はなる。人殺しのみならず、この迷宮の奥ではあらゆる罪の色合いが変わってしまうように思える。地の底でならあらゆる狂気が許される気もするし、あべこべに罪のすべてが清算される場所と見做すこともできた。まさにここ地下四階の如く人倫の傾斜は常に推移するのである。

 やがて喜兵衛の手入れが完了すると、雪之丞は悪気なく眼を覚ました。俺は以来いっかな眠れなくなり、繊維を蜘蛛の巣状に拡げた中空の寝床で、まんじりとせず、ひとり夢想に、あたら時を費やすことと相成った。


 喜兵衛は傾斜の推移を読み切って、地下三階へと俺たちを導いた。機人は物事の理を割り出すのがうまいと廻鳳に聞いた。機人街に留め置かれた機人たちは、地震や日蝕の周期を弾き出して学者や公儀のお偉方に重宝されているという。

「喜兵衛、もうすぐ地上だぜ」

 地下三階に達する頃には、外道の俺にも里心らしきものが沸いてきた。喜兵衛を思いやるようなふりをしていても、地上に出ることを一等待ち望んでいたのは俺だったのである。

「鮨を食いてえな、蕎麦も忘れちゃならねぇ。ああっと、なにより酒だ。喜兵衛おめえはイケる口かい?」

 と盃を傾ける仕草をしてみるが、喜兵衛はしゅるしゅると胸の段だらになったえらのような隙間から空気を出し入れするだけである。

「油断するな」と雪之丞は重ねて警告した。

「わかってるよ」

 浅い階層に戻ってきたという気の弛みが、運命の明暗を分かつことがあるってんだろう。わかっている、もう迷宮の恐ろしさは身に染みている。とはいえ、いつも気を張ってピリピリしてたんじゃ持たねえ、たまには軽口でも叩いて空気を和ませることも肝要であろう。地下三階層には面倒な仕掛けはないどころか、壁や床に光苔が繁茂しておって全体に明るいのである。これまでの陰湿不気味な迷宮と違ってここは幻想的で美しい。この明るさが俺をして気分上々にしてくれているのだ。出没する物の怪といっても魍魎や幽鬼の類。子供でも追っ払える煙のような連中だ。俺は鼻歌気分で歩を進めていた。


 が、角を曲がった時、俺の上機嫌は木っ端みじんに打ち砕かれた。


 ――人が居た。多くの人間が。


 この迷宮で遭った人間といえば、盗人連中を除けば廻鳳と雪之丞のみ。人殺しの俺が人恋しいと言えば笑われるであろうが本当である。それでも探索中はなかなか出逢わないものである。お近づきになれたのは骨と墓のみであった。とうとう人間らしい人間と邂逅したのであったが。


 しかし、彼らはもう――。

「助からない」

 と雪之丞が言った。

 数人の人間がそこで息絶えていた。あるいは手もなく絶命するであろう。惨殺といっていい。血を透かして迷宮が光を放つ。何人いたのかはわからぬ。死体の部分を集めて並べれば判明するかもしれぬ。俺は言葉を失って現実味を感じなかった。俺も人殺しとはいえ、一度にこれほどの人間を殺めたことはない。これは迷宮の魔物の仕業なのか。

「おい、あそこにひとり生き残ってるぞ」

 俺は血まみれの男を見つけた。奇跡的に無傷のようである。憔悴した様子で迷宮の壁にもたれかかって静かに瞑目している。

「何かを知っているかもしれん」

 ――おい、あんた、と声をかけながら、俺は近づこうとした。

「やめろ!」雪之丞の落雷の如き抑止。

「なぜだ?」

「そいつは生き残りではない。殺したんだ。これは全部、そいつの仕業だ!」

「――な?」

「奴だ! 奴なんだ!」

 雪之丞は、その男を睨みつけるようにして後ずさる。背中を向けられないのは警戒と言うよりむしろ魅入られているからであろう。


 俺はジッとそいつを見定めようとした。しかし、どうも据わりが悪い。だまし絵のように男の実像は視野より逃げていくようだ。


羅睺ラーフラ・ワイガート」


 細身で儚げな印象の男である。甲冑の隙間からのぞく肌はあまりに白く、光苔と似て淡い光を帯びて見えた。まるで光射さぬ迷宮に生まれ育ったようである。


 焼き締めた南蛮焼きのような褐色の髪。瞳には薄い朱が点っている。噂をすれば影が差す。雪之丞が狼狽と憎悪を隠せぬその男こそが、かつて彼の伍を全滅させた男なのであった。

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