迷宮考


 眼を覚ましたのは、品川の我が家ではなかった。さりとて伝馬町の牢屋でもなく、狭く馴染みのない小部屋である。どうしてここにいるのか、まるで見当がつかなかった。

「こりゃあ」

 思わず感嘆が漏れる。


 部屋にはところ狭しと変ちくりんやキノコやら瓶詰の標本やらが並んでいる。いや、並んでいるのではない。有り体に言えば、無作為にぶちまけられている。なかでも眼を引くのが、壁にかけられた大きな袋状のものである。俺の知っているものでそれに似ているものと言えばカマキリの卵であろうか。


「起きたようですね」

 小部屋に入ってきたのは、小柄な少女であった。その後ろを付き従うようにしてカラクリ人形が歩いてくる。ぎこちないが力強い、どことなく愛嬌を感じさせる代物である。ともかくそれがカラクリ細工の一種であることは間違いがない。


「気分はいかがですか? まずはこれを飲んでください」

 思い出しつつあるところによるとここは迷宮であるはずだ。俺は物の怪にやられて死んだはずであった。どうやら死を免れたらしい。筵の床に伏して息も絶え絶えであったが。

「大丈夫、毒など入ってません。殺すのであれば、はなから助けたり致しませんよ」

「ああ」俺は薬湯の香りがする琵琶色の液体を喉に流し込んだ。

「不味っ!」

 吹き出しかけた。

「吐いてはいけません。体内に残った泥童どろわらの根を取り除くにはその薬しかないのです。放置しておけば足が使い物にならなくなります」

「それはあの気味の悪い化け物のことか」

 飛頭蛮に襲われる俺の足を掴んだ妙な植物のことだ。引っこ抜くと胎児のような球根が出てきて――思い出した、こともあろうに呪言で火を浴びせかけてきやがったのだ。


「ええ、泥童は五階層に棲息する十七種の魔物の中でも最高にタチの悪いやつなのですよっ。もうまったく可愛いやつです」

 どっちなんだ、と俺は思った。察するにこの少女は厄介な魔物もひっくるめて迷宮を楽しんでいるようである。魔物を語れば、にこにこと相好が崩れる。興奮に鼻息は荒くなる。尋常ならぬ執着と云えよう。

「泥童は地上では育ちませんが、迷宮でなら栽培できるのです。恢復したらわたくし自慢の畑を見せてあげましょう」

「遠慮しとく」

「残念ですね。見聞を広めるのは人品を育む滋養です……師匠の受け売りですが」

「ふん」いまさら立派な人間になろうとも、なれるとも思っちゃいない。

「しかし、妙ですね」と少女はひとりで話を進めてゆく。「泥童の呪言は人体そのものを発火させる凶悪なもの。内側から燃える炎であります。であるのに貴方の身体は表面しか焼けていません。これ如何に。むむむ」

 黙考する少女と沈黙するカラクリ機械、そして虫の息の殺人鬼。

 珍妙奇天烈な取り合わせである。

「……何者かが別の呪法で干渉したか」

「あの場にゃ俺の他には誰もいなかった」

「もしくはあなた自身が?」

「俺はこう見えても侍の子よ。傾きかけた家だがな。呪法の類はついぞ知らぬ」

「まぁ、よいでしょう。しかぁし!!」

 だしぬけに少女は怒号を上げた。びしりと指を突きつけてくる。

「貴方は迷宮を舐め過ぎです!」

「いや、しかしよぉ」

「だまらっしゃい」少女は俺の脇腹を小突いた。

 肋骨が軋んで一瞬息ができなくなる。弁明は許されておらぬらしい。

「迷宮の多くの物の怪たちは利を分かち合う連携を作り上げています。彼らの方略を知らなければ勝ち目はありません。とくにを組まない単独行などもっての他です。等級が天龍か天虎の探降者ならともかく」

 そうか、と俺は思った。無知は死に直結する。単独行が自殺行為なのはまさしくそうであろう。伍とはその文字通り五人組のことである。迷宮に潜降するにもっとも基本的な単位だとされている。しかし俺の立場では助力を望める仲間など期待できない。


「悪いが俺は――」

「放逐刑ですね」少女は俺の刺青を見た。

「ああ。それにしても俺は生きてたんだな。よくあれで」

 上体を起こそうとした俺はあのカラクリ細工に止められた。俺の全身は薬液に浸した湿布で覆われている。

「まだ寝ていてください。わたくしもこの子があなたを連れて帰ってきた時はとても助からないと思いました。でも、あなたの生命力は強靭でした」

「我ながら驚いている。あれはひでぇ傷だった」

「あなたの体質が迷宮に適合したのです。迷宮に生気を奪われる者もあれば、迷宮に力を注ぎ込まれる者もいます」

「てえと、あれかい。俺は迷宮に殺されかけ、同時に迷宮に救われたってことか」

「あーそうですねぇ」


 ふむ、と俺は想いを巡らせた。が、下手の考え休むに似たりという。思案を尽くしたところでわからぬものはわからぬ。むしろ知り得ることを知るのが先決だ。

「聞くのが遅くなっちまったがあんたは誰なんだ? 俺は樋口ってもんだ。罪人であることを隠す気はねえ。ともかく俺はこの迷宮を出てぇのさ」

「こちらこそ申し遅れました。わたくしは本草学者の端くれで廻鳳えほうと申します。迷宮の生類や特異な現象を調査しているのです。かの秘色ひそく夜叉・藤見麟堂様の門下、その末席を汚させて頂いております」

「藤見ねぇ、ふーん。夜叉ってのはまた大層な」

「ご存知のこととを思いますが、幕府の制定した職能には上級の位があります」

「ああ、収奪仕が出世すっと隠密破邪になるってんだろ」

「その上に夜叉を冠される位があるのです。もとはといえば、秘色夜叉とは迷宮深層部に棲まう強力な化け物のこと。それを屠ることのできる強さを持つ者のことを同じ名で呼ぶのです。これは職能というよりお上より授けられた位階といったほうがいいですかね」

 廻鳳の言葉には誇らしげな響きがあった。聞いてもいないのに詳述するところを見ると、よほどその藤見という師匠に心酔しているのであろう。話しながらも廻鳳は手際よく俺の脈を診た。


「ふむ、随分安定してまいりました。明日からは少し動いてもいいでしょう。あとで眠れる薬を出しましょうか」

「なぁ、あのカラクリは? ‥‥俺を拾ってくれたんだろう。やつには心はあるのかい?」

「知らないのですか? 本当に?! あれは機人きじんですよ」

「機人?」

「はぁ」と廻鳳はため息をついた。眼前の無知蒙昧の男にどこから説明すればいいのか、考えあぐねているようだ。ところがどっこい俺の無知には限度がない。迷宮も顔負けの底なし馬鹿である。怪我人の相手をしている暇はないのかもしれないが、持ち前の面倒見のよさが廻鳳の口を開かせた。


「機人は迷宮の最深部に出現して地上を目指すカラクリの一群のことです。まだ迷宮が浅かった時分には多くの機人が地上に這い出してきました。しかし、迷宮が深く入り組んでくると最深部より地上まで昇ってこられる機人はめっきり減りました。迷宮のどこかで破壊され力尽き朽ち果てるのです」

「そうだったのかい。じゃ、こいつは地下五十五階くんだりから、あの化け物だらけの迷宮をよじ登ってきたってのか?」

「いえ、まだ迷宮が三十四階層しかなかった頃に出現したのかもしれません。さらに以前は二十一階層でした。どちらにしても過酷な死闘を経てきたことは間違いないでしょうね」


 見れば、なるほど機人は傷だらけだった。とても化け物を蹴散らして上ってこられるほど強くは見えなかったが、歴戦の勇士であろうことは疑いようがない。

「手間ぁかけさせたな、ええとこいつは?」

 そもそも機人に名があるのかも知らない。

 心があるのかもわからずじまいである。

「なで斬り喜兵衛。わたくしが名づけました」

「よろしくな喜兵衛」俺は喜兵衛に目配せをしたが、それとわかる反応はなかった。その後も俺は廻鳳に迷宮のことや機人のことを聞き出した。情報を集めるは戦の要訣である。


 俺が知り得たのは、以下のような事柄である。

 迷宮は成長し深くなり続けていること。

 最深部へと誰かが辿り着くたびに迷宮は新たに深く険しくなるのであること。

 地上に辿り着いた機人たちは機人街なる場所にまとめて留め置かれていること。


「ふーん、ちっとも知らなかったぜ」

「ま、普通に暮らしている分には役に立たないことばかりですからね」

「最深部にゃ何があるんだ?」

「へ? それも知らないのですか?」

「悪かったな。底を目指すこたぁないからどーでもいいんだけどよ」

「迷宮の深淵には、虚空権現がおわします」

 なんだいそりゃ、と俺は気安く言うが、廻鳳は至って真剣である。

「迷宮が生まれる前には、この地には虚空堂という祠があったのです」

「虚空蔵菩薩の御堂じゃなくてかい?」

「いえ、太古の昔、虚空より飛来したという石を祀っておったのですよ。仏教でも神道でもない、市井の人々の間より発生した自然な信仰とでも申しましょうか」

 巨木や巨石など立派なものにならなんでも注連縄をくくって神様に祀り上げちまうのがこの国の人間の心性である。空から落ちた石ころを崇め奉ったとて不思議ではない。


「その石、つまりご神体がある日ありがたくも輝いておったのだそうです」

「ふんふん、そんで?」俺は身を乗り出そうとしたが、飛頭蛮に噛みつかれた左肩がびりりと痛んだ。

「で、ひとりの老婆が知恵足らずの孫娘に人並みの器量をお授けくださいと祈願したそうで」

「まさか、願いが叶ったと?」

「ええ」

「にわかにゃ信じられないが」

「権現様に効験ありと評判が評判を呼ぶのに時はかかりませんでした」

 想像に難くない。悩みと不満を抱えた貧乏人共が押し掛けるだろう。あるいは分不相応な欲望に焦がれた者共が。


「叶う願いもあれば叶わぬ願いもありました。――が、ひとつ願いを成就させる度に虚空堂は地中に沈下していったのでした」

「まさかそいつが?」

「ええ、迷宮の誕生です。深くなっていく虚空堂の周囲には入り組んだ回廊が張り巡らされたのです。そして虚空権現は沈下すればするほどに大きな願いを聞き届けるようになりました」

「大きな願いね」

 廻鳳を茶化す気分はすっかり消えた。我知らず、俺は迷宮の物語に引き込まれていたのである。

「髪の縮れを直して欲しいだの、腰痛をどうにかして欲しいだの、そんなささいな願いをわざわざ危険な迷宮を潜ってまで叶えようとする者はおりません。無法な旦那と離縁したいという女も物の怪の巣窟にはやってまいりません。ここまで深くなった迷宮にやってくるのは――」

「とんでもねえ大願を抱いた者か、もしくは命知らずの馬鹿野郎か」

「ええ。わたくしは馬鹿野郎の類ですかね」

 ま、そうだろうな、と俺は心の中で肯った。こんな殺風景でいじけた世界に若い身空でやってくるのは余程の変人だ。明るい地上の世界でのびのび暮らしてはどうだろう、と俺は柄にもないことを思ったりした。


「なぁ、廻鳳。ひとつ聞きてぇのが、あんたはその虚空権現の効験を信じてんのかい? イワシの頭も信心からってな。人の思い込みの力ってのは存外強いもんだ。呪法も妖怪変化もこの眼で見たけれど、なんでも叶う奇跡ってのはまた別の話じゃねえか。ややこしい学問を修めてるあんたも、そんなものがあると思うのかい? 天地の理をひっくり返す力なんてものが?」

「はい、虚空権現様のご利益はあります」

「なぜ、そう言い切れる?」

 俺は気迫だけで詰め寄った。


 ややためらったのち廻鳳は、はっきりと言った。

「最前お話した老婆の話。ええ、孫娘を救おうとした彼女のことです。あれは、わたくしの祖母なのです」

「すると‥‥嘘だろ」

「ええ、権現様に知恵を授けられた年端のいかぬ娘は、貧しい百姓の子でありながら麟堂様に見出されたのです。文字はもちろんろくに言葉さえ話せなかった魯鈍ろどんな娘が、です。お陰をもって今は大迷宮は虚空権現様のお膝元で浅学非才ながらも神羅万象の秘奥に近づかんと研鑽しております」

 俺は廻鳳をあらためてじっくりと見分した。奇人の類ではあるが、薄ら馬鹿には見えぬ。これが虚空権現の効験であるとしたら、あながち馬鹿にしたものでもない。


 しかし、大望もなければ切願もない俺にはとんと無縁な話である。俺は地上で飯を喰らって人をひり殺せればそれで満足なのだ。目立たぬように人を斬り、そして喰らう。そのようなつつましい人生が俺の望みだ。


 廻鳳は、まるで高山の澄んだ空気をそうするように迷宮の瘴気を吸い込んだ。まったくもって奇特な少女であるが、頭の螺子が一本飛んでいるところに親しみを感じないでもない。


 そういえば、と俺は遅まきながら気付いた。まだ礼を言っていなかったのである。



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