いつかの桜

のまま

短編完結

 雛田桜は僕の幼なじみだ。

 でも、僕が知っていることは少ない。彼女の髪は幼稚園の頃から今に至るまで、ずっと長いこと。そして、体のあちこちにアザやケガが増えていくこと。

「ふふ、変なこと気にするのね」

そういって彼女は笑う。

 腰まである細く長い髪が風に揺れて、桜の花びらが舞い、僕はただ黙るしかなかった。結局、いつもそれ以上のことは聞いても答えてくれないのだ。柔らかな微笑みを浮かべるだけ。僕もそれ以上のことは聞いたりしない。それをしたら、桜は僕から離れていくであろうことが分かっていたから。


「桜の花がなぜ薄紅色なのか知ってる?」

桜の幹をいとおしそうになでながら、ふいに彼女がこちらを向いた。

「さあ、知らない」

僕の解答に少し驚いて

「君でも知らないことがあるのね」

ふふ、と笑った。

「死体が埋まってるからなんですって。死体の血を吸い上げて、桜が薄紅色に染まるの」

素敵ね、と彼女は落ちてくる花びらを捕まえて、それに口づけた。

「そんなの作り話だよ。今の時代、全国すべての桜の木の下に死体が埋まってたらニュースになるよ」

 そう答えながらも僕は、もしかしたら限定的にそんな木があるのかもしれないと思った。この一本桜(僕らはこの桜の木に敬意を込めてこう呼ぶ)にしてもそうだ。小高い丘の上にある神社裏の、少しひらけた場所にただ一本だけ植えられているこの大きな桜の木は、毎年、それは美しく、みごとな薄紅色を咲かせ、僕らを魅了する。

 足場の少し悪い、長い古階段を登り、無人の神社まで参拝、はたまた散歩に来る人はそういない。一年に片手の数、来るか来ないかだ。だからこそ、ここは僕らの密会所にちょうど良い。

 ここに通って六年、僕らは学校帰りだけ集合して二人で過ごす。静かに本を読んだり、時々話したり、桜の木の下でただ同じ時間を共有した。学校ではお互いに話しかけたりしないし、休みの日は会わない。それが暗黙のルールだ。

 僕は読んでいた本を閉じてランドセルにしまい、ゆっくりと立ち上がった。彼女は僕の返事を気にかける様子もなく

「またね」

と微笑んだ。

 いつもこの瞬間が僕を切なくさせ、それと同時に大きな安堵が襲ってくる。

 日常に戻る時間だ。

 帰ってランドセルを置き、すぐに作りおきの夕飯を食べ、駅近くの塾にバスで向かう。今日は全教科の小テストがある。そんなことを考えながら階段に向かうと、いつもならあり得ないことが起こった。

「ねえ」

彼女がまたね、のあと、口を開いた。

「え?」

僕は驚いて後ろを振り向くと、そこには桜の顔があった。近い。ああ、キレイだ、

「!?」

 柔らかく触れた桜の唇は、乾いていて冷たかった。それがキスであることに気づいた時には、すでに桜の体は僕から離れていた。

「もしも私が死んだら、この桜の木の下に埋めてね」

 それが、彼女が僕にした初めてで最後の『お願い』だった。


 以前、休みの日の塾帰りに彼女を見かけたことがあった。華奢な体にくい込んだ重たそうなビニール袋を両手にさげて、帰宅途中だろうか。街灯が照らした彼女の顔はぞっとするほど白く、その唇と、チラッと服の隙間から見えたアザだけが赤く、異様なまでに艶っぽく、桜の花びらのようだった。無表情の彼女から、僕は目をそらせず立ち尽くしていた。

 後日、密会所で、あの日見かけたこと(もちろん、みとれていたことは隠して)を話すと

「誰かに言う?」

彼女は透明な瞳で僕を見た。僕は目線をそらすことなく

「言わないよ」

静かに答えた。

 僕は分かっていた。彼女のアザやケガが自然にできたものでないことも、長い髪はそれらを隠すためのものであることも。

「そう」

彼女はふわりと笑った。

 その時でさえ、彼女は僕に『お願い』をしなかった。僕が誰か(たとえば先生とか、警察とか)に言えば彼女はもっと困るはずなのに(たぶん彼女はばらしてほしくないのだ)。僕が言いふらすことはしないと信用してるのか、言ったとしても誰にも信じてもらえないと思っているのか、それは定かではないが、彼女が人に何かを頼む姿を僕は見たことがない。


 桜が触れた唇は、僕自身の唇の熱さを自覚させ、僕はその熱を確かめたくて、自分の唇に触れた。

 この熱の前には、恋も愛も関係ない。

 去っていく桜の後ろ姿を見送りながら、僕は覚めない夢の中にいるような、それでいて脳ははっきりしている不思議な感覚に倒れそうだった。それでも冷静に、僕も帰ろう、そう思った。


 次の日、眩しい日差しで目が覚めると、ジリリリッと、遠くで電話の鳴り響く音が聞こえた。下に降りると、母さんの電話用の甲高い声がリビングで揺れていた。

「えっ!?まあ、はい、そうですか、はい、確認してみます。はい、はい、失礼致します」

「誰から?」

用意してあったトーストをほうばりながら僕は言った。

「学校よ。ねえ、いっくんは雛田桜さんて覚えてる?ほら、幼稚園も一緒だったじゃない?おとなしそうで無口な子。ちょっと変わった感じの。あの子が昨日の夜から行方不明なんだって。それで連絡網でまわってきて、何か知っていることがあれば情報を下さいって」

母さんは早口で、それでもはっきりした口調で一気に話した。

「昨日はあなた塾だったし、知らないと思うけど、その子と学校で何か話した?」

「何も話してないよ」

そうよねえと、母さんは深いため息をついた。

「誘拐とか、何かの事件かしら。そうじゃなくても、雛田さんの家って昔からちょっと怖かったわよね。旦那さんがアルコール依存性で、近所の人が夜遅くに怒鳴り声とか、何か割れる音とか聞こえたって言ってたわ」

よくしゃべる人だ。普段話す機会が少ないからだろうかと、僕がぼーっと考えていると

「大丈夫。きっとすぐ見つかるわよ。ご両親と喧嘩して、家出ってことかもしれないわ。いっくんは心配しないで、頑張って勉強してきてちょうだい。受験は今が勝負よ」

別に心配などしていないのに、思い込みの激しい人だ。でも、母さんのそういう感情的な部分を少し羨ましくも思う。


 塾に向かう途中、見知った顔が三つ並んでいた。にやにやした顔でこちらを見ている。

「よう、黒川。今日はいつだ?」

かれこれ六年、よく飽きないものだと感心する。

「今日も勉強かよー。飽きないのかよー。いつか飽きる、なんちゃって」

「ははっ、お前の名前がいじりやすいんだよ」

下品な笑い声が響く。

 飽きてるよ、簡単すぎて。塾に行くのは暇だからだ。桜との時間以外、僕の心を動かしてくれるものなんてない。大量の知識も全国の順位も、僕を満たしてはくれない。桜以外に、からっぽの心を満たすものは存在しない。そして、僕は永遠を手にいれた。

「おいっ、待てよ!」

構わず横切ろうとすると、グッと肩をつかまれ、少しよろけた。この手の類いは無視されるのが嫌いなのだ。面倒な生き物だ。

「雛田桜のこと、聞いたか?」

 そいつから彼女の名前が出て、内心びっくりした。そいつは彼女とは違うクラスだし、彼女との接点などないと思っていた。彼女が浮いた存在であったのは確かだが、無視されるとか、いじめられるとか、そういったことはなかったと認識している。

「違うクラスのやつでも、用事なかったら探してんだよ」

 彼女をよく知りもしないやつまで探すって、よっぽど暇なのか、馬鹿なのか。彼女のためと思ってしてるのかもしれないが、所詮自己満足の行為。偽善にすぎない。桜の気持ちは置き去りだ。少なくとも、彼女は見つけてほしいと思ってはいない。

「まあ、お前はこれから塾だし関係ねえか。お前、誰にも興味なさそうだもんな」

ようやく肩から手を離され、僕は小さくため息をついた。無反応の僕にそれ以上のことは起きず、大声で話しながら三人組は去っていった。


 休みが明けても雛田桜は発見されず、警察は事件、事故の両方を視野にいれて捜査しているとニュースで流れた。それからほどなく、彼女の両親の逮捕のしらせを母さんからいち早く聞かされた。虐待なんて許せないわ、と洗濯物片手に鼻息荒くわめいていた。でも、僕が遅い朝食を食べ終わる頃には、今日のテストも頑張ってねと、にっこり笑うのだった。


 僕はけして嘘は言わない。しかし、事実を話すこともしない。これは僕らだけの約束だから。

「キレイだよ、桜」

 今日も僕は一本桜に会いに行く。薄紅色は一層濃く、幹は黒々と厚みを増し、散っては咲くを繰り返す度に元気になっていくようだ。暖かい風が吹き、落ちてくる花びらを捕まえて口づけする。

「僕の桜…」

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いつかの桜 のまま @nomama

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