月のおさがり
美尾籠ロウ
月のおさがり
ハンマーを振り下ろす。
もう一度。そして三度目に、左足で押さえた岩塊が真っ二つに割れた。
割れた岩を取り上げて、その断面にふーっと息を吹きかける。
幅およそ一・五センチ、長さは七センチほど。ちょうどぼくの中指より一回り太いくらいの、のっぺりした表面の細長い二枚貝が姿を現した。
ぼくは唾を飲み込んだ。
ほぼ完全な形のクルテルス・イズモエンシス。
昨夜、家で作った木工用ボンドの水溶液の入ったプラスチックの容器をバックパックから取り出した。金属製の小皿に注ぐ。太めの筆に含ませると、クルテルスの表面全体にそっと塗りつけた。化石の貝殻の表面はとても薄く、デリケートではがれやすいので、保護しなきゃいけない。
先ほど割った岩の片割れを拾い上げ、ハンマーで叩いた。すると、またしても貝殻の一部が姿を表した。今度は巻き貝だ。ツリテラか? いやもっと大きい。おそらく直径は三センチ近いはずだ。
――大物だ。
緊張と興奮を抑えつつ、岩を足元に置いた。腰に下げた帆布製のガチ袋から小型のハンマーを取り出す。鉛筆よりももっと細い、釘のような形のタガネを手に取ると、地面にあぐらをかき、岩を両足の裏で固定した。両手のひらの汗を、ズボンで拭ってからハンマーを握った。
クルテルスやアキラやマコマ、ソラメン、シクロカルディアなどの二枚貝の化石は、そんなに珍しくはない。今までにいくつも採集したことがある。それに比べると、ぼくは巻き貝の完全な化石標本をあまり見つけたことがない。形状が二枚貝よりも複雑なせいもあって、どうしても採掘の最中に壊れてしまう場合が多いのだ。
化石より数ミリ離れた部分の岩にタガネの先端をあてる。そして、慎重にハンマーでタガネのお尻を叩いた。
四度目に叩いた瞬間だった。不意に岩が斜めに割れた。タガネが滑った。その先端が巻き貝の化石に食い込んだ。真っ白な貝殻が砕ける。地面に細かい殻の破片が飛び散った。
「うわっちゃあ! 何やってんのヴィカリエラだよ! ヴィカリエラだったのに何やってんの自分! バカかバカかバカか! ヴィカリエラなのにぃ!」
思わず大声でわめいていた。
その声に驚いたのか、頭上のシイの枝から、短く鋭い「ギッ!」という声を上げながらコゲラが飛び立っていった。
ぼくは「はぁはぁ」と野良犬みたいに息を切らせながら、地面に散らばる化石の残骸を見下ろした。
――なんてこった。
悔しい。めちゃくちゃ悔しい。涙が出て来そうなほど、腹が立つ。この怒りを誰にぶつければいいのか。
ほぼ完全な形の巻き貝、ヴィカリエラ・イシイアナの化石だったのに、全長は五センチもあったはずなのに、ぼくのハンマーはどうして意に反した動きをするんだ? どうして風化した凝灰質頁岩は勝手に割れる?
今までに、いくつかのヴィカリエラの化石を見つけたことはあった。けれど、これは今まででもっとも大きい個体になるはずだった。
「こんなの見つからなかった! なかった。存在し・な・かっ・た!」
ぼくは雑木林の奥深くに向かってわめき散らしながら、壊れた巻き貝、ヴィカリエラにハンマーを何度も何度も何度も叩きつけた。
ため息をつき、露頭の前に座り込んだ。
バックパックから水筒を取り出し、ぬるくなったウーロン茶を喉に流し込む。シイの枝の間から流れてくる風が、汗で濡れた顔に吹き付ける。熱くなっていたぼくの頭が、少しはクール・ダウンできた。
ぼくは地面の上に仰向けに横たわった。
静かだった。人工的な音は何も聞こえない。耳に入ってくるのは、木の葉が風に揺れる音。何か虫が飛び去る羽音。
化石採集で山の中に来たときには、周りの空間は全部ぼくのものになる。おそらく今この瞬間だって、半径二〇〇メートル以内に、人間は一人もいない。街では絶対にありえないことだ。そんな贅沢な場所を独占して、ぼくは何をやってもよかった。何を言ってもよかった。何をしなくてもよかった。何を言わなくてもよかった。誰にも責められることはない。誰も傷つかないし、誰にも傷つけられない。
ここにいれば、ぼくやようやく誰にも気兼ねすることなく、ぼくはぼくに戻ることができる。昨日終わった期末テストのことも、家を飛び出して半月帰って来ないお姉ちゃんのことも、焼酎の瓶を手放せないお母さんのことも、ここにいれば思い出さなくて済む。
自分の今いる空間を自分で支配できるなんて、なんて贅沢なことだろうか。
起き上がって、地面に拡げた新聞紙の上に並べた貝の化石を眺めた。さきほどのクルテルスを含めて、大小の二枚貝が六個、半分に壊れた巻き貝が一個だけ――不作だった。見れば見るほど、みすぼらしく、つまらない石のかけらのように思えてきた。
今日は、朝五時半に起きて電車を乗り継いで片道二時間半かけて、三ヶ月ぶりにこの
この
ハンマーで岩をたたき割った瞬間、曲線を描く下顎骨と、海苔巻きを並べたような奇妙な形の臼歯が、ごろっと現れるのだ。そんな夢想をすると、ついつい唇がほころんでしまう。ここは、ぼくだけが独占できる宝の山――のはずだった。
時計を見た。午後三時を少し過ぎていた。四時間近くも、この場にかじりついていたことになる。
バックパックから、縮尺二万五千分の一の地形図を引っ張り出した。
今ぼくがいる林道は、地形図には載っていない。十五分ほど北に歩いた場所にある田んぼの奥に「穴場」的な露頭があったのだけど、春休みに来たときには高速道路延伸工事のため、跡形もなく崩されていた。来るたびに、少しずつ化石を産出する地層が失われている。
場所を変えたほうがいいか。それとも、もう少しこの露頭で粘ってみるか。
「追い詰められてんな……」
つぶやいた。声に出すと、その言葉はより重い意味を持っているような気がしてきた。
「いいや、そんなことない。まだまだ大丈夫。まだ化石は採れる。追い出されたりしないって!」
ぼくは雑木林の奥に向かって――いや、自分に向かってつぶやいた。
ふと足元に眼をやると、さきほど壊してしまったヴィカリエラの殻の一部が転がっているのが視界に飛び込んできた。にわかに怒りが沸き起こってきた。
「死ねよおまえ死ね! 消えろ!」
何度もハンマーで殴りつけた。ヴィカリエラ・イシイアナが粉砕されて砂に同化するまで、ハンマーを振り下ろした。粉々になると、そこをさらに足で踏みつけた。ヴィカリエラが、完全にその姿を消し去るまで、ぼくは罵りながら、靴で踏みにじった。
「ざまあみろ! もう死んでるけど何度でも死んじゃえよバカめバカめバカめ!」
「誰?」
不意に人の声が耳に飛び込んできた。
焦りと恐怖が一気にせり上がり、全身が凍り付いた。息を飲み込んだ。
足音が近づいてくる。
焦った。息が止まりそうになる。
地形図をくしゃくしゃにたたみ、クルテルスやほかの化石を新聞紙で乱暴に包んだ。ハンマーとタガネをガチ袋に突っ込む。
立ち上がって林道を戻ろうとした。が、そこには人が立っていた。
女の子だった。学校の制服姿だ。ぼくと同じか、少し年上だろうか。髪は短く、紺色のセーラー服姿だった。ぼくの街の中学生や高校生たちの制服に比べて、ちょっと古くさいデザインに見えた。スカートの丈も長くて、膝下まであった。もう少し髪が長ければ、ちょっとぼくのお姉ちゃんに似ていなくもないな、と思った。こんな山道だというのに、焦げ茶色をした革のローファーを履いている。
「何してるの、こんなとこで?」
女の子は、ぼくに向かって歩み寄ってきた。ぼくは急いでバックパックを背負った。あまりに慌てていたので、腰のハンマーが飛び出して、地面に転がった。ますます焦りながら、ぼくはハンマーを拾い上げた。
「石、とってるの?」
女の子は、べつに警戒した様子もなく、ぼくに尋ねた。「とってる」という単語を「
「いや、盗ってるというか……石っていうか……化石を……」
しどろもどろになりながら、額から噴き出る汗をこぶしで拭いつつ、女の子の脇を通り抜けようとした。
「化石なら、たくさんある場所を知ってるよ」
女の子は言って、林道の上を指さした。
「この奥。ちょっと離れてるし、外からはわかりにくいんだけどね。こんなの、見つけた」
女の子は、左手を伸ばし、その掌を開いた。
いったいどこにしまっていたのか、それは乳白色の、十センチほどの、ドリルのような形をした巻き貝の化石だった。ヴィカリアだ。昼過ぎの陽光の下、それは淡い光を放っているように見えた。
ぼくは口を半開きにして、女の子の手の上の巻き貝から眼が離せなかった。心臓の鼓動が速まるのがわかった。
「つ、つ……月のおさがり」
ぼくは思わずつぶやいた。
「あ、目の色変わった」
「あ、あの……うん」
「これ『月のおさがり』って言うの?」
「う……うん。そう」
この時代の地層でまれに見つかる、とても貴重な化石だ。その神秘的な見た目から、「月のおさがり」と呼ばれている。ヴィカリアという細長い円錐形をした巻き貝の内部に、長い年月のあいだに石灰質成分が蓄積して、オパール化して固まった。そして外側の貝殻だけが何百万年のあいだに溶けてしまって、螺旋の形をしたオパールだけが残ったのが、「月のおさがり」だ。今まで図鑑や博物館やインターネットでは見たことがあった。けれど、実物を目の当たりにするのは、生まれてはじめてだった――と、ぼくは説明しようと思った。けれど、何からどう話せばいいか、さっぱりわからなかった。そんなことを考えているうちに、女の子はさらに言った。
「まだほかにも埋まってるかもしれないよ。こっち」
女の子はそう言って林道の上を指さした。ぼくはさらに狼狽した。
「えーっと……」
「早く来なよ」
女の子は言う否や、くるりと背を向けて、林道を上り始めた。ぼくは二秒ほど
女の子の足取りは、驚くほど速かった。学校の制服姿だというのに、軽々と林道を進んで行った。ぼくは小走りで追いかけたが、どういうわけかなかなかその距離は詰まらなかった。
女の子は、そんなぼくを振り返りもしなかった。林道の左側の熊笹の茂みに軽々と駆け込んで、姿を消した。
ぼくが熊笹の茂みに追いついたときには、もう女の子の姿は見えなかった。足音や気配すらも感じられない。どこに消えてしまったんだろう? いぶかしく思いながら、ぼくは熊笹の葉をかき分けて、その中に体を押し込んだ。思いの外、熊笹は密集していた。葉がむき出しの腕にあたってひりひりと痛い。まるでトンネルだった。
十歩も進まないうちに、ぼくの足は宙を踏んだ。一瞬、重力が消えた。いや、ぼく自信が重力に引かれていた。ぼくの体内で、内蔵がふわっと浮かんだ――と感じた一瞬後、ぼくは尻餅をついて、じっとりと濡れた斜面を滑り落ちていた。
我に返って、周りを見回した。いつのまにかぼくは、小さな沢のほとりに座り込んでいた。せいぜい五十センチ程度の幅で、一歩で飛び越えられるくらいだ。深さも、くるぶし程度しかない。そこを透明な水が流れていた。両岸には濡れた泥岩層が露出していた。どうやらぼくは、ちょっとした岩の段差を滑り落ちたらしい。ぼくはぼんやりと地形図を思い出そうとした。この山から流れる川なんて、載っていただろうか?
視界の片隅で、何かがひらひらと動いた。昆虫だ。見たことのない種類のトンボだった。羽根が真っ黒で、胴体は針金のように細く、メタリックな緑色に鈍く光っている。よく見ると、沢の水面ギリギリに同じ仲間のトンボたちが五、六匹舞っていた。
さきほどまでいた林道とは、明らかに温度が数度低かった。まったく匂いの違う空気が、ゆっくりぼくの周りを流れている。ぼくは、沢の水に手を入れた。あまりの冷たさに、思わず手を引っ込めた。我慢できず、手ですくって口に入れた。少し甘かった。
こんな別世界があるなんて、信じられなかった。文字通り、土足で踏み込むことが少し後ろめたく、申し訳なく感じられた。
「こっちこっち。日が暮れちゃうよ」
女の子の声が聞こえ、ぼくは急いで立ち上がった。女の子は、十メートルほど上流の川岸に立っていた。その背後では、沢が右に大きくカーブしていた。女の子の髪も制服もまっさらの綺麗なままだった。熊笹のトンネルをくぐり抜け、濡れた崖を降りたとは思えなかった。
女の子は軽々とした足取りで川岸の岩を踏み、カーブの向こうに姿を消した。
ぼくは慌てて追いかけようとした。けれど泥岩の表面は流水で削られて摩耗し、さらに濡れているので、トレッキング・シューズの靴底ではひどく滑りやすかった。ぼくは、山道をそれなりに歩き慣れているほうだ。しかしあの女の子の歩き方は、まるでスキップでもしているかのようだ。
かろうじて転ぶことなく、カーブを越えた。一気に視界が開けた。泥岩層の川岸が、急に広くなっていた。二十畳ほどの広さはあるだろうか。その向こう、高さが三メートルほどの崖の前に、女の子が立っていた。ちょうど頭の高さ辺りを、指で示している。
「ちょうどここで見つけたんだよ。この『月のナントカ』を」
「おさがり、だけど」
ぼくは女の子に――正確には崖に歩み寄った。
さきほどの露頭よりも粒が少し粗い
「まるで学者みたいだね。その目付き」
女の子は少し茶化すように言った。たぶん、ぼくの顔は真っ赤になっていたと思うが、あえて女の子の言葉は無視した。ガチ袋からハンマーを取ると、崖の泥岩層を叩いた。表面の岩が割れて剥がれ落ちる。拾い上げた瞬間、ぼくは思わず「あっ」と声を上げてしまった。
泥岩から顔を見せた二枚貝の貝殻が、虹色の光を放っていた。貝殻の縁から、中央に向かって光がじわじわと集まる。虹色がきらめき……あっけなく光は弱くなっていった。そして消えた。ただのありふれた白い貝殻だけが残った。
「なにこれ……?」
すぐ耳元で女の子の声が聞こえ、ぼくはびっくりして五十センチほど身を引いた。
「なんで光ったの?」
「えーと、久しぶりに空気に触れて、表面で化学変化か何かが起きたんだと思う」
「久しぶりって、どのくらい久しぶり?」
「だいたい、千六百万年くらい」
「千六百万年? マジ? 千六百年じゃなくて?」
「う、うん」
「へえ、詳しいんだね。この化石にも名前あるの?」
もちろん、すべての生物には名前がある。
「クルテルス・イズモエンシスっていうんだけど」
「ヘンな名前」
「和名……えーと、日本語の名前は『ユキノアシタガイ』」
「ユキノアシタ……ああ、『雪が降った朝』っていう意味だね。そっちのほうがいいよ」
少し虚を突かれた。日本語の意味なんて考えたことがなかった。「アシタ」って「明日」じゃなくて「朝」っていう意味だったのか。知らなかった。
けれど、何て返事をしていいのか全然わからくて、ますますぼくは動揺した。話の接ぎ穂が見つけられなくて、結局、黙ったままハンマーで崖を叩いた。
会話というものは、ぼくにとって一番の苦手科目だ。家族以外の他人とは、学校でもほとんど会話をした経験がないんだから。
いや、今のは正しくなかった。最近はずっと家族とも話はしてない。お母さんはパートから帰ってきたら、すぐに焼酎を飲み出してしまうから会話にならないし、お姉ちゃんは自称「起業家」の大学生の彼氏の家に行ったっきり、帰って来ない。
ぼくは
岩が割れると、さらにサッケラ・ミエンシスのほぼ完全な貝殻が二つ姿を見せた。ここの露頭は「当たり」だ。
「ねえ……これって、骨だよね」
少し離れた背後から不意に女の子の声が聞こえた。
「え? 骨?」
ぼくは反射的に振り返った。女の子はいつの間にか、沢の向こう岸の泥岩の上でしゃがんでいた。
骨ならば、デスモスチルスか、パレオパラドキシアだろうか。新発見じゃないか? いや、そうでなくてもこの時代に生息していたサイの先祖、キロテリウムや、ひょっとしてゾウの仲間のゴンフォテリウムの可能性だってあるぞ。
やにわに心臓の鼓動が速くなった。ぼくはクルテルスとサッケラを含む岩を地面に置くと、女の子のほうへ駆け寄った。沢を飛び越えようとしたが、靴の踵が水を踏んでしまい、しぶきを上げた。靴下もズボンも濡れてしまったが、気にしていられない。
「見て、骨だよ」
女の子は無造作に掌をぼくに突き出した。そこに載っていたのは、間違いなく真っ白な骨だった。
けれど、それは化石じゃなかった。
まだ新しい、最近死んだばかりの生物の骨だった。直径三センチほどの、短い円筒形をしている。純白で、その表面は滑らかだった。
最近死んだ生物――胃の奥のほうがキュッと縮まる感覚があった。十秒前の高揚感は霧消した。にわかに緊張してきた。口の中が一気に渇く。
「ほら、まだいくつもあるよ」
女の子の言葉に、ぼくは辺りを見回した。確かに、黒く濡れた足元の泥岩のそこここに、白い小さな骨が散らばっている。すぐには数え切れないほどの数だ。
ぼくと女の子は黙り込んだまま、骨の散乱した岸辺をゆっくりと歩き回った。何を探しているのか自分でもわからなかった。けれど捜し物が見つかるのも、どこか怖かった。
しかし、それを先に見つけたのは女の子だった。
「これ……頭蓋骨、じゃない?」
女の子が、沢の中を指し示した。ぼくはおそるおそる、その指の先に目線を移動した。
透き通った水に、白い骨が洗われていた。黒い羽を持ったトンボが、ひらひらと水面を通り過ぎていく。二十センチあまりの長さのV字型をした骨で、その上には複雑な形をした出っ張りがいくつも見て取れた。
「カモシカだね、これ」
女の子がつぶやくように言った。顎の先端に門歯が並び、少し離れた奥のほうに、頑丈な太い臼歯が埋まっている。V字型をした骨の正体は、草食動物の
「そっか……」
ぼくは、思わず安堵の息を漏らした。
「やっぱ緊張した? するよね。骨なんて生々しいもんね」
そう言いながら、女の子は沢の中に手を突っ込むと、カモシカの下顎骨を拾い上げた。
「
女の子は尋ねた。ぼくは「さあ」と曖昧に笑顔を作って、周りを改めて見回した。すると、まるで待機していたかのように、黒い泥岩とコントラストを作る真っ白な塊が二つ、視界に飛び込んできた。ぼくが歩み寄るよりも先に、女の子はそれらの骨にたどり着いていた。セーラー服にローファー姿だというのに、悪い足場をスキップするみたいにひらひらと渡った。そして、ためらうことなく二つの白い塊を拾い上げた。
「どっちも上顎じゃなかったよ」
女の子は二つの骨を両手でぼくに向かってかざした。確かにそれらは、カモシカの上顎骨ではなかった。
両方とも、V字型をした下顎骨だった。
女の子は、ぼくの足元に三つの下顎骨を並べた――三体のカモシカ。
消えたはずの胃の奥の塊が、また大きくなりつつあるのを感じた。この川岸のわずか五メートル四方程度の空間で、相次いで三体のカモシカが死んでいる。
まるでゾウの墓場みたいだ、とぼくは思った。
「墓場? なにそれ?」
不意に女の子が訊いた。どうやらぼくは無意識に言葉として発していたようだった。
「いや、あの……都市伝説みたいなやつだけど」
「どんな墓なの? 教えてよ」
女の子が真剣な目でぐいっとぼくに向けて覗き込んできた。ぼくはうろたえながら、あとずさった。顔を直視できなくて、くるっと女の子に背中を向けた。泥岩層の崖を見やりながら、ぼくは答えた。
「ゾウは自分の死期を悟ると、一人で群れを離れて『墓場』に移動して、そこでこっそり人知れずに死ぬ……っていう、ホントかウソかわからないし、科学的根拠のない都市伝説なんだけど」
少しの間、沈黙が落ちた。空気の温度が、急に下がったような気がした。
「そっか。確かに墓場だね」
背後で女の子の、少し沈んだような声が聞こえた。何か悪いことを言ってしまったのだろうか、とぼくはさらに狼狽した。
不意に、冷たい風が背後から吹いた。その風に乗って、黒い羽根のトンボが四、五匹、相次いでぼくの脇をすり抜けるようにして飛び去って行った。西日に照らされて、その胴体がまたたくように光るのが見えた。
「あの――」
ぼくは背後を振り返った。
女の子はいなかった。一人で林道へ戻ってしまったのだろうか。足元に並べたはずの、三つのカモシカの下顎骨も、見当たらなかった。
「帰らないと」
ぼくは口に出してつぶやいた。
やっぱり、ここはぼくが土足で踏み込んではいけない場所だったのだ。そのことを、ぼくはようやく悟った。
太陽は沈みかけていた。黒い羽根のトンボは、もう一匹も見当たらなかった。
「月のお下がり」完
月のおさがり 美尾籠ロウ @meiteido
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