第167話

 GⅠマイルチャンピオンシップの発走時間が迫って来た。栗東の名伯楽・明智師が送り出すコインズパーシバルには明智厩舎所属で7年目になる若手騎手が騎乗している。これが初のGⅠ出走だ。

「あの御蔵の馬にやっと乗れたんだ、頑張らねえと」

 明智厩舎に桜牧場産の馬は何頭かいるが、彼にその鞍が回ってくることは滅多になかった。勝負の時には有力騎手に回るし、せめて賞金を狙える時なら中堅以上の騎手に回る。若手騎手である彼に回って来ることはない。

 今日の騎乗とて、今まで主戦だった一流騎手が他の馬を選んだから急遽、お鉢が回って来たのだ。そんな恵まれない騎手の名は羽地谷満人はちたにみつとという。

「満人、まずは回ってこい。勝負を焦るのは三流のすることだ」

 師匠の明智師が言い聞かせる。泰然一流・拙速三流、とは明智厩舎の舎是だ。

「羽地谷騎手、無理はしないでほしい。君も馬もまだこれからなはずだ」

 オーナーの犬養さんも同様に言う。緊張からか、もう既に滝のように汗をかいている。

「先輩」

 いくつも下の後輩、生産者でもある御蔵まきなが手を伸ばしてきた。

「震えすぎです」

 ムチを握る右手を上から握る。本人としては武者震いのつもりだったが、傍目にもわかるほど、露骨にガタガタしていたらしい。

「馬が怖がりますよ?」

 コインズパーシバルは今は平静だが、この動揺を感じ続けてなお平静でいられる程、馬はそれほど鈍い動物でもない。

「言うなよ。俺、重賞すら1,2回の経験なんだ」

 既にGⅠ勝ちのある後輩に言うのも情けなくなるが、隠しても仕方ないことだ。去年、夏にGⅢの重賞、小倉記念と2年前に3歳限定重賞のGⅢきさらぎ賞にしか騎乗経験がない。

「こんなことなら、もう少し場数を踏ませておけば良かったか・・・」

 明智師も普段は厳しく当たる弟子に、さすがに7年目なのだからそろそろGⅠの空気を、との親心を出してしまった。心技共にそろった騎手を用意することはできたが、彼なら何か掴むと信じて送り出した。

 師の心、子知らずと言った状態で、騎乗命令がかかった羽地谷は騎乗し、本馬場へと出て行った。


「羽地谷先輩、どうだった?」

 馬主席では霧生かなめが待っていた。まきなが自分の馬主資格で入れたのだ。なるべく、彼女自身の世界を広げてほしいというまきなの友人心をかなめは汲み取り、営業と行かないまでも馬主や調教師と交流を試みていた。

「うん、固かった。かなちゃんは何か収穫あった?」

「来週、1鞍増えた!」

「やったあ!」

 来週はジャパンカップデーのため、関東、東京競馬場に騎手が集まる。関西・京都は手薄になることを見込んで、馬主たちの前にかなめを引き出したのだ。

「あーあ、どうせならあたしが乗って見たかったわよ」

「後、4勝してくれてたら推薦してたのに」

 混じり気無し、本心から言っているのでかなめも憎めない。隣の同期に感謝しながら、コースを眺めた。

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