第120話

 重苦しい沈黙の後、御蔵まきなは口を開いた。

「それは、無理だよ」

「なんでよ!あんたが乗れば、クラハならなんとでも!」

「うん、でも、私はかなちゃんじゃない」

 まきなは、じっと霧生かなめの目を見て言った。

「ユングフラウさんが一緒にと言ったのは、かなちゃんのクラだよ」

 かなめは黙り込んだ。自分がどれほどの思いで、と怒り出したいのを抑えられたのは、まきなの言い分も理解できるからだ。そして、自分はまだ、かの馬の手綱を手放したくない。

「どうしろって言うのよお…」

 かなめは泣き出した。男ども2人が慌てる中、服部隼人は冷静に、かなめに語りかける。

「乗りたい馬がいるんだ。頑張れよ」

 服部はただ、そう言った。彼は、まだ自身で騎手としてスタートラインにも立っていない。それは知っている。でも、かなめは少なくともスタートを切って、立派に14勝している。

「もしかしたら、手が届くかもしれない。ダメになるその瞬間まで、追いかけてみろよ、霧生」

 そう言って、服部はまきなに頭を下げた。

「たのむ、御蔵。なんとか、こいつがあと17勝できるようにしてやれないか?」

「なっ!?」

 かなめは絶句した。頭を下げるのは自分のはずだ。なぜ、関係ない人に頭を下げてもらっているのか。くだらないプライド、見栄だ。

「隼人…なんで」

「お前にとってはただの同期だろうけどね。僕にとってはいい友達だ。友達のためなら、頭ぐらい下げるさ」

「隼人、お前」

「更に人間出来てきたな…?」

 元々、まきなたちの同期生で人格面が一番、成熟しているのは服部隼人だと目されていた。彼は療養生活の中で、周囲の人に支えられる心強さを学んでいた。家族だったり、主治医だったり、町の人々。騎手課程を出たのに騎手になれなかった自分を、もう一度、送り出すから頑張ってみろと励ましてくれた。

「無理って言うのは簡単だ。できなかったならできないで仕方ない。でも、できない理由を探すのは、ダメだ」

 服部は、かなめに懇々と語りかけた。かなめも、頑張ろうと思えるようになったらしい。まきなに再び頭を下げた。

「あたし、頑張りたい。クラハと、GⅠ走りたい。まきな、お願い…」

「うん、わかった。一緒に頑張ろう?」

 まきなはかなめが絞り出した言葉の意味を非常によく、理解していた。厩舎や牧場、競馬サークルなどに全く関係の無い家庭の出身だ。彼女に後ろ盾は無い。自分1人でもがいてきたかなめが、最初から恵まれたまきなにお願いをした意味が。

「明日から、営業に行こう。忙しいよ?」

「うん…!」


 復活の兆しが見えた彼女らの関係に、男どもの顔も明るくなった。

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