第110話

 秋華賞のスタートは、意外な形で切られ損なった。

「こっこら!?」

 4番人気のマカデミアナッツ―――クラシック前には武豊莉里子とコンビを組んだ重賞馬がゲートから放馬した。18頭が収まりきる寸前のことで、鞍上の騎手は宥めるが悠々と走る脚を止めはしない。淀の芝を2周して満足したのか止まったが、馬体検査が行われ、長い距離を走った当馬は競走を除外の憂き目に遭った。

 15分近い中断で、各馬、騎手ともに集中を切らし浮き足立つ中、ファントムレディの莉里子は馬を完全に御していた。

「競馬、それもGⅠだからね。あり得るよ」

 こういうトラブルがあれば波乱は起きやすいが、今の莉里子を見て、それを期待するのは望み薄だった。

 火浦光成のコーラルリーフは、少し、イレ込みはじめていた。人馬ともGⅠ経験に乏しく、だいぶストレスがかかっている。あまり良い兆候ではない。

 御蔵まきなのミラクルフォースはと言うと、何とも言えない。リラックスしてはいるが、気が抜けすぎているように見え、危なっかしい。

「大丈夫なのかね、先生?」

「ごめんなさい、私にもどうとも…?」

「リラックスできてて、ええと思うで?」

 そんな様子に喜多方オーナーが心配のコメントを漏らし、唐橋調教師は擁護し切れず、弥刀は肯定的に捉えている。


 鵡川の桜牧場では、

「ムムム…!」

「哲三さん、テレビ見えませんよー?」

斎藤哲三が画面に張り付いていた。珍しく、休憩室に顔を出した勝子もいたが、我を忘れた哲三は構わず血走った目で画面に集中している。

 すると、突然立ち上がった勝子が、パァン!と気味の良い音を響かせる。その足元では哲三が禿げた頭を抱えて揉んどり打っていた。

「女将さん!?痛いです!」

「哲三。皆がテレビを見たいん。独り占めはいけません」

 哲三の後頭部には、勝子の手形がくっきり付いていた。まるで、桜の花びらだ。彼の頭の様子は、桜牧場がひっそりと運営するSNS(1000フォロワー)とまきな公式SNS(10000超え)のサムネイルにしばらく使われた。

「まきなちゃん、大丈夫そうやね」

 手形が付いた頭を撮られてからかわれる哲三を尻目に、勝子は焦らされているはずの孫娘の様子に満足していた。


 さて、頓挫があった秋華賞の発走準備がようやく整ってきた。イレ込み気味のコーラルリーフが優先的に引き入れられ、のんびりした様子のミラクルフォースも収まる。最後に怪しい気配のテンシノナミダが18番ゲートに収まって…


 秋華賞、発走となった。

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