厳しい時代

木下美月

厳しい時代

 

 あるバーのカウンター、端の席で男が嘆いている。


「ほんっとに厳しい時代だよ。街を歩けばカップルだらけ、くじの景品はペアの旅行券、レストランではお一人様は歓迎されない。一人でいることが悪い事だと、後ろ指刺されてるような気分だ」


「ええ、そうですよね…」


 男に答えるのはこのバーで働く青年。穏やかな微笑みを崩さずに話を聞く。それも彼の仕事なのだ。


「別に僻んでいるわけじゃない。しかし、男に媚を売ってお小遣いをせびる女、旦那に働かせ、昼間に集い楽しむその妻。こんな奴らを見ていたら、一人でいる事が素晴らしいと思える。なのにこの世界は一人では生き辛い。誰がこんな世界にした、少子高齢化のせいかなあ…」


「本当に、厳しい時代ですよね」


 男に答えたのは先ほどの青年ではない。いつの間にかやってきたこのバーのマスターだ。


「ですが、厳しい時代といえど、この時代は科学が進歩しています。あまり知らされていませんが、実は異世界に行くことも既に可能なんですよ」


 マスターは男にだけ聞こえる声で言った。それが信憑性を高めたのかもしれない。男は食いついた。


「ほ、本当か。一人で生きやすい世界があるなら、是非行きたいのだが…」


「まあ、落ち着いて下さい。これは高度な技術。当然費用も安くはありません。それから転移とは、身体に負担が掛かるものです。異世界へ行き、帰って来ることは出来ます。ですがそれまでです。それ以降、二度と別の世界へ渡ることはできません」


「ああ、構わないさ。二度とここには戻らないつもりだからな」


「では…」


 マスターは奥から紙を持ってきて男に渡した。そこに日時や費用、異世界の特徴が記されている。男はさっと確認すると大事そうに鞄にしまった。


「では指定された日時に、ここに来る」


「ええ、お待ちしております」


 マスターは薄く微笑んだ。




 数日後、昼間のバーにマスターと男の姿があった。


「本日はよろしくお願いします。身辺整理もしてません、きっと私は行方不明扱いになるのでしょうね。世間では私を気の毒だと言うでしょうが、私は楽しみで仕様がありません」


「私もあなたの表情を見たら、あの時話しかけて良かったと思います。これも縁ですかね」


 男とマスターは話しながらバーの裏口へ入り、廊下を歩いていた。そこにはいくつかの部屋があり、その内の一つに案内された。


「ふむ、普通の部屋ですね。あのカプセルベッドの様なものはなんですか」


「あれが異世界への転送機です。そもそも異世界は同じ宇宙に数多ありまして、しかしロケットで行くには何千年掛かっても辿り着けないほど遠くて、そこへの移動を可能にしたのがこの機械で……」


「わかった、わかった。難しい話は苦手なんだ。それで、僕が移動した世界には誰もおらず、自然が豊かで、食べるものにも生きることにも困らないと。間違いないか」


「ええ、万が一不都合等ございましても、再びこの転送機に入って頂ければこちらの世界に戻ってこれますよ。ただ、その場合は二度と異世界に渡ることはできませんので、こちらの世界で暮らす覚悟を決めてからお戻りください」


「ああ、わかった。きっと戻ることはないだろうが、覚えておくよ。それと君には感謝する。こんな素晴らしい技術があるとは、知らなかったからね」


「ええ、それでは良い暮らしを……」


 男は大金を払い、カプセルベッドに横たわった。すぐにフタが閉まり、男の意識は遠のいていく…。




 次に目を覚ましたのは、カプセルのフタが開くと同時だった。石畳の部屋の所々には苔が生え、開きっぱなしの扉からは柔らかな日差しが入り込んでいる。この幻想的な部屋の中央に転送機は置かれている。

 男は高鳴る鼓動をそのままに外へ出た。


「ああ…美しい……」


 色とりどりの花も、緑の葉も、青い空でさえ、男の知っている色と同じ様で、しかしそれより鮮やかに見えた。

 肌に感じる風は優しく、それに揺られる草花の歌声も、小川のせせらぎも耳に心地よい。汚れを知らない空気が肺を満たす度に、男はこの世界の美しさを感じる。

 男は歩き出していた。この美しい世界を全身で感じたかったのか。風に舞う葉の様に軽い身体を持て余したのかもしれない。

 腹が減ったら木になっている甘い香りの果実を齧る。果実は脳の奥を刺激するほど甘美であり、一つ食べ終わる頃には思わずうっとりしてしまう。小川の水を飲めば全身に力が行き渡り、頭も冴える。

 夜に見えるのは暗闇を照らす微かな光たち。それが星なのか月なのか、どちらでもないのか男には見当が付かなかったが、幻想的なこの世界に似合う幻の様な儚さを秘めていた。


 こうして男は幾日もこの世界で過ごした。時には魚を捕まえ、時には野草を摘み、時には動物を狩る事もあった。そのどれもが初めての事だが、何故か出来る気がしていたし、実際に上手くいった。味が良い事はもはや当然であった。


 そして更に数日後、男はとうとうこの美しい世界に慣れた事を自覚してしまった。景色の色も美しい事が当然、空気が綺麗な事も当然、食事が美味しい事も当然。こうなったら世界が退屈に見えてくる。

 もし人がいたら、共にこの世界の素晴らしさを語り合える。そうなったらきっと退屈はしないだろうと男は考えたが、一人になる為にやってきた世界に誰かがいるわけがない。

 最早かつての世界に帰るべきか、男は考え始めていた。


「だれか…助けて……」


 そんなある日、透き通る声の悲鳴が聞こえた。人がいる事に驚くよりも先に、正義感に駆られた男は走り出した。辿り着いた場所は少し大きめの川で、女が流されまいと大きな石にしがみついていた。それを見た男は迷わず川へ飛び込み、片手で女を抱きながら無我夢中で岸まで泳いだ。


「助かりましたわ、ありがとうございます。あたし川のこちら側に来たくて、無理をしてしまいました。でもあなたったら素敵で、物語の白馬の王子さまより格好良かったわ…」


「こちらこそ素敵な女性に出会えて胸が高鳴っているよ。しかし不思議だな。この世界には人はいないはずだったが…」


「あら奇遇ね。あたしもそう聞いていたのよ。なにか手違いがあったのかしら。でもそんな事いいわ。あたし誰かと話がしたかったの。そんな時にあなたと出会えるなんて、運命を信じるわ」


 こうして二人の生活が始まった。男が狩った肉を女が野草と調理したり、行く先々で咲く可憐な花を二人で愛でたり、二人の暮らしは幸せに満ちていた。


「おや、ここは……」


「どうかしたの」


 ある日、いつもの様に散歩をしていた二人は石畳の小屋を見つけた。それは男が使った転送機がある小屋だった。


「そう。あなたはここに転送されたのね。あれ、でもおかしいわ。どうして転送機が二つあるのかしら」


 開いたドアの奥には、女が言う通り二つの転送機が並んでいた。


「確かにおかしいな。僕が使った一台しかなかったはずだが」


「でも、丁度いいわ。今までは元いた世界のこと好きになれなかったけど、あなたとなら帰ってもいいと思うわ。結婚式も挙げたいもの」


「言われるとそうだな。この世界は美しいけど、君とならもとの世界にも美しさを見出せるだろう」


「少し怖いわね。きちんと二人揃って帰れるかしら。でも、きっと私達なら平気よね。運命の出会いを果たしたんだから…」


 そうして二人は、元の世界に共に帰る事を決めた。






 バーで働くその青年は、裏口から出勤し、廊下を歩いていた。

 すると見覚えのある女が部屋から出て来て、続いて別の部屋から見覚えのある男が出て来た。二人は興奮し、手を取り合っている。


「おや、お二人とも戻られたのですね」


 なにが起きているのか理解できない青年の後ろから現れたのは、このバーのマスターだ。


「マスター。実は辿り着いた世界で彼女と出会いまして…」


「それはそれは、一人の世界に案内した筈が、機械の不具合か、私の手違いで大変な事をしてしまいました…」


「いえ、それはいいんですの。寧ろあたし達出会えて良かったと思っているもの。マスターにはいくら感謝しても足りません。そうだわ、あなたマスターも結婚式に呼んで差し上げたら」


「ああ、もちろんだよ。マスター、僕たちはこの世界で生きて行く事に決めたんだ。これもあなたのおかげだ、ありがとう」



 幸せそうな二人の背中を見送った青年は、遂に疑問を口にした。


「一体どういうことです。確かあの男はついこの間、あの女はしばらく前に孤独を嘆いていて、そこでマスターが別の世界に案内した人達ですよね。違う世界へ行ったはずなのにどうして知り合っているのですか」


 マスターは考える仕草をしてから、話し始めた。


「実は私は異世界の行き方など知らないし、行けるかもわからない。本当の事を言うと、彼らには仮想現実空間に入ってもらったのさ。そこは美しい世界だが、人間が一人もいない。やがて人恋しくなってきたところで、同じ心境の異性を同じ空間に送り込むんだ。するとお互いが運命を感じ、瞬く間に仲睦まじくなる。そうなったら現実世界に戻ってくるのも自然なことだ」


 全てを理解した青年が抱いた感情はマスターへの尊敬であった。


「なるほど、大変な計らいではありますが、先の二人の表情を見たらマスターの行いは素晴らしい事だと思えますね。更に言えば、少子高齢化という国の問題の解決にも貢献していますしね」


「ああ、やり甲斐があるよ。しかしこれを思い付いたのは、国の別の問題がきっかけでね、働き方を見直した時なんだ。労働法が改正されてから稼ぎが少なくてね、副業として今回の様なことを行なっているんだ。どちらにせよ国の問題のおかげかな」


 マスターはそう言ってから、お店へ出て行った。開店準備を始めるのだ。

 後に残された青年は一人呟いた。


「マスターは国の問題について考え、上手いことやってるけど、俺は将来どうかな。きっと更に問題が増えてゆく世の中で、問題解決に貢献できる発想がなければ、時代の荒波に飲まれ淘汰されてしまう。いやはや、厳しい時代だな………」

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