彼岸の彼方で君に触れ、
夢埜ハイジ
はじまり。
「…………」
茹だってしまいそうな蒸し暑い日のこと。当時六歳だった彼はさんさんと眩しい夏の日差しを避けるように公園の隅の大きな木の影に座り込んでいた。
木の下で座り込んだまま動かない彼。それが僕には彼だけが夏という季節に乗り遅れてしまった風に見えた。彼と彼の身に纏う空気は、じめじめとして薄暗い。長い前髪の隙間からは、どこを見てるかも定かではない虚ろな瞳が微かに覗いている。その瞳から彼の感情を読み取ることは出来そうにない。彼は一体何を見て、何を考えているのか。分からない。でも、分かってみたいと思った。特に理由があるわけじゃない。もしかすると、周りの人の中では見ることのなかったその"何もない"瞳に僕は魅せられてしまっていたのかもしれない。昔、とある哲学者は言った。『深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている』僕は彼を通して深淵を見ていたのかもしれなかった。そしてまた、彼に僕を見て欲しかったのかもしれなかった。
「………………」
その時、僕は友人と鬼ごっこをして遊んでいた。鬼になった子は今は別の子を追いかけているらしく、随分と離れた場所にいる。僕はチャンスとばかりに木の下の彼の元にこそこそと挙動不審に歩む。
「…………」
「ね、ねぇ!」
意を決して話しかけると、虚ろだった瞳がしっかりとした意思を持って、こちらに向けられた。目は見開いて、口はぽかんと開いている。
「……おれ、に、はなしかけてる、の?」
思っていたより可愛らしい声が彼の口から零れる。そして続け様にこう言った。
「おれが、きもちわるくないの?」
心底信じられない。そうとでも言いたげなそんな様子だった。僕はこくりと頷いた。彼の不思議な雰囲気に惹かれこそすれど、気持ち悪いだなんてそんなこと思うワケがない。
それでも彼は信じられないようで、不安に満ちた懐疑的な瞳で僕を見ている。その目に子ども特有の無邪気さは感じない。彼の目は未だ感情こそあれど、ひたすらに虚ろだった。
少し考えるような仕草の後、彼はぽつりぽつりと絞り出すように言う。
「……とうさんは、いつもおれのこと、きもちわるいっていうよ。うすきみわるい、って。そういって……たたいてくるときもある」
「それは、きみのおとうさんがおかしいんだよ。きみはきもちわるくなんかない」
「……で、でも。おれは、"みんなみたい"じゃない……んだって。みんなみたいにはしりまわると、すぐにつかれちゃうし、それに、みんなのまえでしゃべるのもにがてで、」
「ぼくとはしゃべれてるじゃん。……それに、"みんな"ってだれのこと?ぼくのおともだちにもはしったりするのにがてなこ、いるよ。それってぜんぜんおかしなことじゃないよ」
「…………ほん、とうに?」
他所の家のことをとやかくいうのはいけないけれど、きっと今でも僕は彼に同じ事を言う。彼はおかしくなんかなかった。おかしいのは彼の父親の方だ。彼をこんな風に"虚ろな瞳"にしたのは、他ならぬ彼の父親だ。
きっと無邪気で子どもらしい瞳をしていたはずの彼を、多少自分の理想通りに振る舞わなかった、ただそれだけの理由で、彼の父親は彼を壊した。圧倒的な暴力によって。
一見、殴られた痕なんて見当たらない白くて綺麗な彼の身体。きっと見えない位置には無数の傷痕が残っている。狙ってその位置を傷つけたのだろう、彼の父親は。衝動的な暴力だったとしても、保身に走ることだけは忘れなかったのだろう。その行為こそがとても"気持ち悪い"もので、真の邪悪だと、僕は思う。幼い彼を傷つけた、彼の父親を、僕は今でも許していない。
「……ありが、とう…………!」
僕の言葉を聞いて、ぽかんとしていた彼だったが、暫くすると感情の堰が溢れたように泣き出した。嗚咽と共に伝えられる感謝の言葉。そんな大したことを言ったつもりではなかった僕は戸惑う。僕は、ただ、ただ君と。
あ。
ここになってようやく僕は彼に言いたかった言葉を思い出す。僕が彼の元に近付いた理由。それは、ただ、ただ。
彼と、友達になりたくて。
「ね、ねぇ!ぼく、きみとともだちになりたいんだ!ぼくとともだちになってよ!」
ようやく言ったその言葉に彼は、またぽかんとした。そしておずおずと自信なさげに彼は僕に尋ねる。
「……おれ、なんかでも、きみの、ともだちになれる「もちろん!」
即答だった。
僕が君の友達になってほしいのだ。そのことを伝えると、彼はとても嬉しそうに笑った。虚ろな瞳の中にほんの少しだけ光が灯ったような、そんな気がした。
「……おれ、なるくてみずほ」
「ぼく、とうどうかじの。よろしく、みずほ!」
「……よろしく、ね」
とある蒸し暑い夏の日のこと。
"僕"は"彼"と"友達"になった。
これは、"僕"──百々鍛埜(とうどうかじの)と、"彼"──鳴湫瑞穂(なるくてみずほ)の出会いから、いつか来るだろう別れまでのお話。
これは、その始まりの話。
まだまだ暑さが残る彼岸の日のことだった。
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