後半
次の年(2011年)になると、当然かのようにまた春が来た。
何かと胸がざわめく季節だ。
わたしたちは大学二年生になった。これもまた当然かのように。
葵は相変わらず何事もうまくこなしていたし友達も多かったけど、背伸びしている部分があるようにも見えた。スケジュール帳にはいつも予定がびっしり埋まっていて、わたしだったら絶対にこなせないだろうなと思っていた。
そのせいか最近は二人で話せる時間も減ってきていた。一年生の今頃を振り返るとしみじみしてくるくらいに、わたしたちは仲良くなっていたんだけどね。
彼女のハードスケジュールとは対照的に、わたしには葵関連以外の予定はほとんどなかった。
どこか取り残されているような気もしていた。
彼女はどんどん綺麗に、頼りになるお姉さんの雰囲気をまとっていく。
長期休暇にわたしが家にいることが多くなると、母に「大学楽しい?」とよく聞かれた。
「楽しいよ。」とその度にわたしは答え、葵との思い出の良い部分だけを切り取って話した。
釈然としない気分にもなったけど、これで満足してくれるなら十分だ。
その言葉は人のことを気にかけているという形を取っているものの、本質的には自分を安心させてほしいという意志表示なのだから。
とはいえ夏休みには学科の他の友人たちも呼んで旅行にも行ったし、冬には下宿している子の家で同じこたつを囲んで鍋パーティーもした。
わたしはこれぐらいでちょうどいいと思いつつも、どこか自信が持てなかった。
***
そんな思い出の中でもずっと胸中に留まり、尾を引いている劇的な瞬間があった。
あの冬の鍋パーティーのときのことだ。
皆お酒もいい感じに回っていて、宴もひとしきり盛り上がり終えた後の、ほどけた空気の時間帯。
――同じ学科の男の子がこたつのふとんの端にあった葵の手に、密かに触れた。
偶然を装っているようで装えていない、そんな臆病な指先だった。
周りは誰も気づかない様子だったが、葵のことばかり気にしているわたしはそれを見てしまった。
大切なものが害されたような強烈な感情が一瞬にしてこみ上げてきた。
言葉にはならなかった。唇だけが微かに開いたまま時間が止まっていた。
しかし真に劇的な瞬間は、この次だった。
葵はその挑戦を受け入れたかのように、彼と指先を絡めた。
その数センチに過ぎない動きの中に、彼女の明確な意志の発動が込められているように見えた。
このとき、自分という存在が根底から大きく揺らいだ。中心にある支柱が致命的な角度へ傾き、積み上げてきたつもりの何もかもが倒壊しそうな感覚を覚えた。
周りは誰も皆気づかない様子で、相変わらず楽しそうに笑っていた。
わたしが本格的にこの世界のスピードに着いていけなくなり始めたのは、このあたりからだったと思う。
***
二年生の新学期になって最初の授業も彼女と同じだった。専門の科目なので、今は同じ学科の二十人くらいしかこのこじんまりとした教室の中にいなかった。
わたしはやや後方の窓に近い席に座ってぼんやりと外を眺めていた。春休みが開け、葵と一か月ぶりに会えると思うと、何はなくとも胸が高鳴った。
昨今は鬱々とした気持ちで過ごすことが多かったが、それだけで救われる気すらしていた。
教室の扉が開いては閉じ、人が入ってくる。その度にわたしは視線を向ける。
彼女かどうかを確認した後、また窓の外へと視線を戻す。そんな動作を幾たびか繰り返していた。
そして長く感じられたわずか十分間の後、やや遅めに入ってきた彼女の姿をやっと見つけることができた。
久々に見る葵は印象が少し変わっていた。戸惑ってしまった。
彼女は前に見たときよりもさらに綺麗だった。今が人生のピークと言わんばかりに、更なる盛んな輝きを全身から放っていた。
教室へ春一番が吹き込んで来たかのようで、誰もが彼女のことを見つめていた。
明るすぎず程よく茶色に染められた髪とか、メイクの感じとか、紺のデニムジャケットからオリーブのスカートまで、全てが完全に調和していた。
一個の芸術作品のようにすら見えた。もともとはわたしとそれほど変わらないような雰囲気だったのに。
中でもわたしを最も圧倒したのは、その姿がただ単に美人だというより、自分がもともと持っている良さを丁寧に磨き上げて、生け花のようにバランスよくまとめ上げたという風に感じられたことだった。
すぐに葵は数人の人垣に囲まれた。わたしが話しかけられる状況でもなかった。
少しの間隔を置いて、向こう側で何度か歓声が上がった。
騒がしいな、と思った。
結局その日、わたしたちは目を合わせることすらなかった。
***
ぜんぶ、昔の話だ。
さすがにこの一連の出来事だけで別れを告げたわけじゃない。
この後は一応、また葵とも話したり遊んだりするようになった。多忙なスケジュールの中、時間を作ってもらってね。
しかし結局のところ、こういう結末になってしまった。
青々しい葉を付けた桜がその生命力を存分に発揮している中、わたしの身体の表面は汗をかいているのに、身体の内側には寒気を感じている。そのアンバランスさがなんとも不愉快だ。
もしかすると風邪でもひいたのかもしれない。せわしない蝉の声がいやにうるさく感じられる。一匹ずつ捕まえて、掌で握りつぶしてやりたい衝動に駆られた。
重い身体を持ち上げて、どうにか立ち上がる。もちろんそれは町内の蝉を退治して回るためではなく、水を飲みに台所へと向かうためだ。
こじんまりとしたテーブルの脇を抜けて、今どき珍しい格子戸を横へ引こうとした。その戸にはめ込まれたすりガラスの向こう側の景色の曖昧さに何かが浮かび上がりそうな気がして、引く手に不意の力がこもった。
やや足早に廊下を行き、蛇口をひねろうとする。しかし清潔なコップが一つも残っていなかった。流し台には、汚れた皿やコップがそのまま山積みになっていた。
今はそれを処理する気にもならなかったので、昨晩使ったコップを簡単に水で洗って再使用することにする。
蛇口をひねると、水が流れ出した。
上から下へと重力に導かれた水流が光を反射してきらきらと輝いていた。
わたしはそれを茫然とただ眺めた。
わたしはそれを茫然とただ眺めていた。
水を飲むことも、左手にコップを持っていることも、忘れてしまっていた。
(終)
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