第一話:和ヶ原、『日本刀』の広大さに悶絶する 

 唐突ですが皆さんに一つ、質問をします。

『魔法』って、使えますか?

 この場合の魔法とは、杖から火の玉を出したり、ホウキで空を飛んだり、動物と話をしたり、不思議な薬を作ったりという、そういう魔法です。

 きっとこれを読まれている方の大半は使えないと思います。

使える、という方、あとで私のところに来てください。

 

 次の質問です。

『魔物』や『妖怪』などの概念に類する存在に、直接的に接したことはありますか?

 インターネットで見た、とか、夢に立った、とか間に誰かワンクッション置いて、というケースはあるかと思いますが、意識がはっきりしている自分の目の前に彼らが降り立った、という人はいないですよね。

 降り立ったことがある、という方は、特に私のところには来ないで結構です。


 最後の質問です。

『剣』や『刀』や『槍』を直接見たことや触ったことはありますか?

 これは見たことある人多いですよね!?

 だって見ようと思えば、博物館とかに行けば割と簡単に見られますもんね。


 だったら、きちんと知らなきゃいけないなーって、思いませんか!?


                    ※


 初めまして。そして、お久しぶりでございます。

 電撃文庫で「はたらく魔王さま!」「勇者のセガレ!」などを書いております、和ヶ原聡司という作家です。

 唐突にぶしつけな質問、お許しください。

 意図をご説明しますと、魔法や超存在、そして刀槍類というものは、今や日本のサブカルチャーを語る上で、傾向的にはもはや無くてはならない存在です。

 電撃文庫で、ライトノベルと呼ばれるジャンルの作品を執筆している和ヶ原の作品も、例外ではありません。

 洋の東西を問わず、ファンタジーと呼ばれる要素を孕む作品にとって、これらの要素は作品を彩るエッセンスとして大きく作用します。

 しかし、残念ながら、現代の地球においては、人間は飛行機械の手を借りずに空を自由に飛ぶ能力は持っていませんし、手や杖から炎も氷も雷撃も出せません。

 そして『魔物のような』『妖怪のような』存在はいても、ような、と形容される概念存在そのものは、一部の伝承や言い伝えのみにその足跡が語られ、この乱れた現代においてもなかなか我々の目の前には降臨してくれません。

 ですが『武具』は違います。

 剣、と呼ばれる武具をはじめとした、西洋東洋のファンタジーに登場する数多の武器類は、確実にこの世界に存在し、今もなお生産され続けている、今まさにそこにある存在です。

 そして、社会的に許容される範囲において、これらについて我々は自由に触れ、調べ、知ることができます。

 ならば、そろそろ真剣にこれらを知りたい。


 その結果立ち上がったのが、電撃ディスカバ:Reポート「和ヶ原、日本刀を学ぶ」です。


 この大元となったのは、『刀』と『刀鍛冶』に憧れ、修学旅行先の京都で八千円の模造刀を買った、中学生の少年だった和ヶ原の憧れです。

『刀』と『刀鍛冶』、すなわち『日本刀』の知識を集めたいだけなら、このご時世、初学者向けから玄人向け、洋の東西、時代や地域、デジタルアナログを問わず、資料があふれかえっております。

 

 ですが、そういったものからはどうしても感じ取れないものがあります。

 いわゆる『ナマの感触』です。

 

 決して長くはない作家生活ではありますが、それでも和ヶ原がこれまで描いてきたあらゆるものの大きなファクターが『携わる人間のナマの感触』です。

 どう考えているか、どう動くか、ちょっとしたときの仕草、想いなど、そういったものを大切にした作品は、おかげ様で過分な評価をいただいています。

 そうやって創作してきた以上、いざ知識を得ようとするのなら、ナマの息吹を感じるべきと考えた末、この「和ヶ原、日本刀を学ぶ」は、専門家の方に直接お話を伺う、という要素が大変重要なのだと当初からぼんやりと思っておりました。

 

 が、それはそれとして。


 意気揚々と企画を立ち上げたは良いのですが、結局和ヶ原は、刀に憧れてたくせして刀のことなんか全く知らないと言ってよいド素人。

 編集部パワーを使って普通よりディープなものを調べる過程では、先ほども述べた通り、あこがれの専門家の方とお会いする機会を設けたい。

それなのに頭スッカラカンな状態で伺って、

「かたなのことおせーてくらさい!」

 ではさすがに先方に失礼ではなかろうか。

 最低限の基礎知識、基礎の用語くらいは頭に入れていかねば会話にすらなるまいと考えた和ヶ原、まずは予習に取り掛かりました。



 そして、第一歩で躓きました。


                   ※


『五箇伝』という言葉があります。

 日本刀の作風を、大別して五つのグループに分類したもので、それぞれのグループは旧国名に「伝」をつけてまとめられたものです。

 山城伝。

 大和伝。

 備前伝。

 相州伝。

 美濃伝。

 この分類は明治期以降に成立したものでした。

 なぜこんな分類が可能になったかというと、諸国の大名家や有力武士の持っていた刀が廃刀令によって召し上げられ競売にかけられ、それまで表に出なかった大量の刀が浮かび上がってきたことで研究が可能になったからです。

 明治の廃刀令は日本刀三大危機の一つ(残る二つは連載後半を待て!)でした。

 それまで国全体に存在した刀の市場が消えたわけです。

 国中に分布していた産業が消失したことで、急激に日本刀の文化全てが衰退します。

 ただ、この衰退を経なければ日本刀の体系的分類が為されなかったのは、なんとも皮肉な話です。

 で……ですね。


 もう、何か既に色々難しくないですか?


 ほら、皆さん、自分のご贔屓の刀って、なんかあるでしょ?

 ちょっとここで、有名な刀の名前や、歴史上の人物が持ってた刀の名前知ってるぜ!くらいの方に伺います。詳しい方や、刀剣が乱れ舞う世界で審神者として覚醒された方は、ここはこらえてください。

 

 ご贔屓の刀、見て分かりますか?


 ここで一つ、非常に有名で、いろいろな小説や漫画やゲームに引っ張りだこで、東京国立博物館に所蔵されており、天下五剣の一振りと称される名刀、銘安綱『童子切』、通称『童子切安綱』の姿を解説した言葉をウィキペディアさんから引用いたします。

 敢えて、読み仮名はふっていません。

 どうぞ。


刃長二尺六寸五分、反り鎺元にて約一寸、横手にて約六分半、重ね二分。造り込みは鎬造、庵棟。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸が厚くつき、地斑まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し、金筋入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎は生ぶ。先は栗尻。鑢目は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。

引用元:「童子切」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(http://ja.wikipedia.org/)2019年4月8日21時(日本時間)での最新版を取得



読めますか。



 和ヶ原は、読めませんでした。

 というか読める部分も、つまりどういうことじゃい、というものばかり。

「造り込みは鎬造」はどこかの造り込み法が鎬造って名前なんだねー分かる分かる。

「刃文は小乱れで」も、そっかー刃の文様が小さく乱れてる感じなんだねー分かる分かる。


 みたいな。


 みたいな!!



 最後にもう一つ、問題です!

 某刀剣が乱舞してるゲームのパッケージキャラでもあり、天下五剣の一振である三日月宗近の日本刀の分類は…………太刀、ですがぁ……国宝指定名称はなんでしょう!?

 はい、これは簡単ですね!


「太刀 銘三条(名物三日月宗近)附 糸巻太刀拵鞘」


 ですね!



 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!


 読めそうで読めないいいいいいいい!!!!

 文字情報から映像が分かりそうで一切分からないいいいいいい!!!!


 童子切や三日月宗近に限らず色々な刀の写真と解説を合わせて読んでみるのですが、刀の姿の解説になると突然固有の表現が初学者に牙をむき始めるのです。

 どの刀も匂ってたり沸いてたりつんでたり何かと何かが交じって華やかになってたりして、すぐ隣に写真があるのにもうあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!



 ここまでで挙げたのは、本当に、本当に数多当たった資料の中の、表面の一つまみの何分の一かの情報にすぎません。

 実際に日本刀を取材しようと決めてから、とりあえず読める本は読み、都内の博物館をスケジュールが許す限り巡り、刀剣に関する様々な資料に当たりました。


 そして、何も分からんことが分かりました。


 いや、それも進歩なんです。進歩なんですよ。

 ただですね、あのですね。

『日本刀』とただぼんやりと言うだけでは、あまりに調べなきゃならん対象が広すぎた。


 そもそも皆さん『日本刀』って聞いてどんなビジュアルを思い浮かべます?

 こんな感じじゃないですか?




 違うんですよ。


 これなんです。



 ちなみに一枚目と二枚目の写真は和ヶ原が学生時代に誕生日プレゼントとして親に買ってもらった模造刀大小で、三枚目はこのあとにも出てくるある岡山県立博物館所蔵の長船祐定の姿です。

 鞘とか柄など刃以外の部分は「刀装具」と呼ばれ、日本刀の一部として見られがちですが、文化的にも市場的にも別系統の存在です。

これにはそれぞれまた非常に奥深い歴史や名工たちの蓄積があるのです。



 うん! 無理!!



 このままただ漠然と『日本刀の知識』を追い求めたところで、なーーーーーーーんにも身にならないばかりか、専門の人に対して失礼になるまである。

 というか、多分このスタンスは一人の人間が一生かけて研究をして尚、道半ばで終わるようなやつだ。

 知識は欲しいが、和ヶ原は小説家であって研究者ではない。

 和ヶ原が書くのは小説であって解説書ではない。

 必要なのは『日本刀の専門知識』ではなく『小説を書くのに必要な日本刀の知識』だ。


じゃあ『小説を書くのに必要な日本刀の知識』とはなんだ。

ここで改めて、冒頭の原点に立ち返ります。


まず求めるべき知識は、


1、刀を作る「人」と「環境」

2、刀を使う「人」と「環境」


 以上二点である!

 小説の中で、特定の事柄について解説にページを割くことはもちろんあります。

ただ多分今のスタンスで知識を収集していくと、とても半端な状態で300ページ中150ページくらい刀の解説をする本が出来上がる!

 和ヶ原がこんな遠回りをしたのには理由があります。

 実はこの企画、まず取材企画が先にあり、そこに「日本刀をきちんと知りたい!」と乗り込んでいったため、この時点では日本刀が重要なファクターになる小説を書く予定はありませんでした。

 先々の作家生活で重要になる普遍的な教養を得たい、という考えが出発点だったんです。

 これは『知識欲を満たす』とか『勉強』に類するものであり『取材』ではないんですね。

 もちろん最終的には総合的な意味での『学び』には落ち着くのですが、スタートがこんな頭がちがちでは今後の作家生活やっていけません。

 和ヶ原は小説家です。

 そして、和ヶ原は小説に必要な『日本刀』のあれこれを取材に行くのです。


和ヶ原「もしもし、日本刀が重要なファクターの小説、書いていいですよね」


編集部「取材企画の形として美しいから大歓迎」


 速攻で編集部にOKを取り付け、即、プロットを複数本組み立てる。

 そうすると不思議なもので、これまで訳が分からないと嘆いていた部分まで、色を得て物語に飛び込んでくるのです。

『取材に当たっては、まず物語ありき』

 今回取材企画にあたり学んだことの第一歩です。


 そして様々な資料収集、打ち合わせの結果、取材先は岡山県瀬戸内市が最適であるという結論に達しました。

 多くの現役刀匠が鎚を振るう土地であり、『備前長船刀剣博物館』という、剣の歴史を体系だって追体験できる素晴らしい施設があるのです。

 そしてなにより、岡山県にお住いの刀匠の方に、編集部が取材の約束をとりつけてくれました。

 具体的な取材日程、取材先も決まり、あとは先方と編集部のスケジュールが合う日を探せば本番開始です。

 胸が高鳴ります。

 幼いころの憧れの核心に、一挙に迫ることができるのです!


 やれやれ、さんざんすったもんだしたけど道筋も立ったし、ようやく一安心だぜ!

 一安心だぜ!


 ……本当にそうか?


 ここで、これまで散々知識の沼地でもがいてきた和ヶ原の脳内に警戒信号がともります。

 取材日程は一泊二日で決まりました。

 この取材は相手のある取材。時間割は先方のスケジュールが最優先です。

 そして、求める情報が明確になっている現在、取材させていただく方には、それこそ朝から晩までかかってもなお聞き切れないであろうことを根ほり葉ほり聞き倒したい。

 そうすると、東京=岡山間の行き帰りの新幹線移動で半日近く消費する一泊二日の日程では、「人」については取材できても「環境」には全く手が出せないのではないか!?

 特に環境に関しては、これまでの取材経験から、通常の観光でそんな場所に行かねぇだろうってところもブラつくことが決して少なくありません。

 徒歩、自転車、車、鉄道等色々な交通手段を使い、あ、ここなんかありそう、というところで途中下車したりふらふらふらふらします。

 この取材……二月の一泊だけで、足りるか?

 そうこうしている間に、先述した備前長船刀剣博物館の、とある催しのお知らせが目に入りました。


 一月第二日曜。打初式。


 備前長船刀剣博物館は毎月第二日曜に、古式鍛錬と呼ばれる昔ながらの手作業による鋼の鍛錬作業を公開しているのですが、この日は一年の打ち始めの神事である「打初式」が行われ、その後に古式鍛錬が行われるらしい。


 見たい。


 ということで、和ヶ原は企画からは全く求められていないのに、この打初式と古式鍛錬を見たいというただその一心だけで、急遽岡山へ飛びました。

 編集部には特に何も断っていません。費用も自腹。

 ですが、既に取材企画関係なしに備前の刀をベースに物語を作りたいと強く考えていた和ヶ原はもう止まらない。

 そして、せっかく行くなら、恐らく取材企画本番当日にはできない、和ヶ原未踏の地、岡山を可能な限り歩き回ってみようじゃないか!!

 思い立ったその場で新幹線の切符を予約し、一月十二日の土曜日、和ヶ原は岡山駅に降り立ちました。



 初!中国地方上陸いいいええええい!!

 駅近くのホテルに荷物を預け、さっそく行動開始。

 事前にる〇ぶ岡山・倉敷で調べた見どころの中に一つ、面白そうなものがあったので初日の探索はそこをメインに据える。

 JR桃太郎線の備前一宮駅から総社駅を結ぶサイクリングロード。

 もう、桃太郎線という路線名からして興味津々だが、岡山と言えばやはり桃太郎伝説発祥の地。

 香川県T市や愛知県I市、奈良県S郡の皆様には大いに異論があることは存じておりますが、やっぱ吉備の国に、日本刀についての取材に来たのだから、桃太郎さんは外せない。

 ついでに明日、博物館に行くための播州赤穂線の時刻表だけ確認してから、今日は桃太郎線だ!桃太郎線……もも……。



 なにこれつよそう。


 乗ってみると車内放送がかかる度に「もーもたろさんもーもたろさーん♪」の予告メロディつき。

 和ヶ原は以前A県犬山市の桃太郎神社に行ったことがあるのですが、なんというかもうこの時点で「桃太郎」に対する力の入れ方が違う。

 これから向かうサイクリングロードは桃太郎伝説にゆかりの深い吉備津彦神社や吉備津神社がお出迎えしてくれるので、否が応にも期待が高まる。

 備前一宮駅で下車し、駅前のレンタサイクルで自転車を借り出すと、大人の足で漕いで終点の総社駅まで三時間ほどかかるという。

 結構かかるな、という印象と、貸し出された変速機無しのママチャリを見て、一抹の不安がよぎる。

 お値段は特定のポイントで乗り捨てられるプランが千円だったのでとてもお安い。

 まずは岡山取材の第一歩として備前一宮駅からすぐの吉備津彦神社にて、土地に踏み入ったこと、もしかしたら小説の題材に使わせていただくかもしれないことを報告しつつ、この取材全体がうまくいくことを祈願。

 御朱印もいただき、お守りも購入し、いざサイクリング開始。

 レンタサイクルでいただいた地図を見ながら順路に従って走るのですが、最初に抱いた「ママチャリだと結構大変なんじゃないか」という不安はすぐに解消されました。

 特別山側に寄ったりしない限り、大体こんな感じのとことん平坦な道が続くからです。

 


 噂程度に、岡山は水路があちこちにあって、大雨のときには道と水路との境が分からずに車や自転車が嵌まったりするなどと聞いたことがありましたが、



 なるほどこれ結構怖いな。手前の籠は乗ってたママチャリの籠。

 この道はサイクリングロードの途中なのですが、写真の後ろ側は普通に歩道が続いていて、ここで唐突に歩道の幅が狭まってこんな感じになっているのです。



 水路の街だということは知っていましたが、水路に水門があるこういった光景は知りませんでした。

 地域の人にとってはあまりに当たり前すぎる光景なのでしょうが、そうでない地域の人間には極めて目新しく、街中にあるこういった設備が、小説の中で子供の遊ぶ約束をするときの待ち合わせ場所とかになるわけです。

「〇〇んちの水門前なー」

 とかそういうシーンが頭に浮かびます。

 これらの水路や水門は農地や住宅街にも当たり前に見られるので、こういった何気ない生活のリアリティを知ることが、取材の大きな醍醐味だったりします。

 


 ところが、順調に進んでいたサイクリングロードを、和ヶ原はこの鯉喰神社に至ったところで引き返すことになりました。

 地元の方やこのサイクリングロードを通ったことがある方なら、また随分前半で折り返すことになったな、とお思いでしょうが、じつはここに到達するまで既に三時間要していました。

 備前一宮から総社まで三時間と聞いていたのですが、吉備津神社に吉備津彦神社、そこに付随する脇本殿、街中の様子なんかを観察したりときには足を止めたり写真に撮ったり動画を撮影したりご飯食べたり……なんてことしてたらもう午後二時半です。

 このあと、総社まで向かったら一体何時になってしまうのか。

 というか、まずたどり着いたタイミングで総社駅から岡山駅に戻れるのか、という問題が発生しました。

 どこにもよらずに総社駅にたどり着いたとしても時間は四時半を回るでしょう。

 冬なので色々な施設が閉まる時間が早く、このままではこの日はどこにも行けなくなります。

 その上ここで突然大雨に降られました。

 天気予報は小雨だということで、レンタサイクルのおばちゃんから雨合羽もお借りしていたのですが、これが、なんかやたら小さくて着られない。

 泣く泣く鯉喰神社へのご挨拶を最後に備前一宮駅に撤収。

 時刻表を狙いすましたおかげで、なんとか四時前には岡山駅へと帰還。

 


 岡山駅バスターミナルに群れ為す、回送中は妙に腰の低いバスたちの中から、岡山後楽園直通シャトルバスに乗り岡山県立博物館へ。

 この時点で既に四時だったので、後楽園は明日に回し、博物館見学を選択。

 この時期の展示は大体こんな感じでした。



 これらの特別展は写真撮影NGでしたが、「備前刀(名品選)」なんて実に心躍るじゃありませんか!

 ん? じゃあ、さっき出てきた長船祐定は何なんだ? となりますよね。

 そこは備前刀の地。かの一振りは常設展の撮影可能ゾーンで迎えてくれたんですね。



 銘、備州長船祐定!

 さすがは岡山県立博物館。常設展にも刀の展示が豊富です。

 特別展の備前刀名品選、文化財としてより貴重な、心躍る刀たちの展示が山のように。

 良い時期に来ました!

 さらには刀の歴史、鑑賞の手引き、産業との関わりなどが詳細に記されたフリーペーパーの数々。

 もう宝の山です。

 本やネットをあたれば似たような資料は出てはくるのですが、こうして現地で体系だって収集できる資料と、ネットで手軽に手に入る資料とでは、思考に与える影響が段違いです。

 執筆時に体験や記憶にある映像と結びつけて描写ができるようになることが、小説にとってどれだけ素晴らしい栄養になるかは今更語るまでもありません。


 と、ここで和ヶ原、ある展示物に気づきます。

 


 備前焼……?


 あ! そうか! 焼き物の備前焼の備前ってここか!!


 これまで刀のことで頭がいっぱいでしたが、よくよく考えてみると一般的には刀よりもこっちの方が有名なんじゃないか!?

 そこで慌てて〇るぶ岡山・倉敷を読み直すと、確かにありました、播州赤穂線長船駅の更に先、伊部に備前の焼き物の里!

 これは……これはスルーしちゃいかんやつだろ。

 もし岡山のこのあたりを舞台にする小説を書くなんてことになったら、これは絶対にスルーしちゃいかんやつだろ。



 今更なことではありますが、取材したからといって、その取材対象全てが完璧に小説に落とし込まれるなんてことはありません。

 体感ですが、100取材して、一冊に10も使えれば御の字、というのが実態です。

 なのでここで備前焼の知識を仕入れたところで、それが実際に小説に登場するかどうかと言われれば、多分出ない公算の方が高いです。

 でもですね。


 知らずに間違うことと、知ってて外すことの間には、天と地ほどの差があります。


 備前焼を関係ないと切って捨てて全く調べずに岡山市や瀬戸内市を舞台に物語を書いたとしましょう。

 その地域に備前焼という文化が根付いていることを失念したまま書き進めれば、どこかでリアリティが喪失し、知見を疑われる事態が発生します。

 実在の場所を舞台にするときに、これを見誤ると舞台にした場所にも失礼ですし、自分でも後悔で頭を抱えて死にたくなります。

 だからこそ、和ヶ原はここでまた一つ、取材によって『小説に必要な要素』に気づけたということです。

 これもまた取材の醍醐味ですね。

 後に、焼き物と刀は切っても切れない関係にあると判明しました。(この詳細は次回以降の連載で!)


                    ※


 岡山県立博物館を閉館時間いっぱいまで堪能し、『備前刀 日本刀の王者』なる備前の刀の現在を知るのに最高の資料を買い求め、さすがに疲れたのでいったんホテルに戻る。

 夕食には駅近くの徳島ラーメンをいただき、そのあとは岡山駅すぐそばのイ〇ンモールで、

「この辺の学生さんとか若い人はこういうとこに遊びに来るのかなー」

 などと夜散歩のような取材をしていると、一通のメッセージを受信しました。


???「わがさん、今岡山いるってマジ?」


和ヶ原「来ちゃったんですわこれが」


???「でもなんでこんなタイミングで? 例の取材企画の一環?」


和ヶ原「そうなんだけど、今回は完全に一人。準備視察みたいな感じ。実は明日、備前長船刀剣博物館でこういう催しがあってな」


 和ヶ原は、今回の先行取材のメインイベントである打初式の情報を話します。

 すると、


???「面白そうやん。見てみたいな」


和ヶ原「明日の朝〇〇時に岡山駅から出ると丁度いい感じなんだけど、来る?」


???「……行けるな。行くわ」


和ヶ原「マジか! 助かる! 明日の朝、岡山駅のホームで待ち合わせでよろしい?」


???「OK!」


 会話の流れから察せられる通り、この人物は和ヶ原が『日本刀』をテーマに取材をすること。そして主に備前の刀を取材しようとしていることを既に知っています。

 そして、まだ和ヶ原が日本刀の何をどう取材するべきか、何を知らなければいけないのか分からず大混乱に陥っていたとき、日本刀に関する様々な資料やものの考え方、関東の重要な展示などの情報を余さず教えてくれた人物でもありました。

 そしてさらに重要なのは、この人物が日本の『神様』について、非常に詳しい人物であるということ。

 そしてこのとき「来る?」と誘った判断が、最終的にはこの取材企画全体のクオリティを何段階も底上げする英断となりました。


                     ※


 翌朝、七時五十分。

 JR岡山駅改札にて。


和ヶ原「いや朝早くからお疲れっす。本当もう最初から色々迷惑かけて申し訳ない」


浅葉なつ(以下、浅葉)

「大したことはしてないよ。色々役に立っているなら何よりですわ」


 第十七回電撃小説大賞で『空をサカナが泳ぐ頃』にてメディアワークス文庫賞受賞。

 大ヒット小説「神様の御用人」の生みの親にして、和ヶ原と同期デビューである作家仲間にして友人、浅葉なつの合流である!

 

 作家というのは、結構横のつながりも重要だったりします。

 特に電撃文庫やメディアワークス文庫の場合は「同期・同年デビュー」という関係で最初に横のつながりができるケースは多く、和ヶ原と浅葉もその例に漏れずでありました。

 さらにこの浅葉なつ。とにかくフットワークが軽く、コミュニケーション能力が高く、なおかつ取材能力が群を抜いているのです。

「神様の御用人」に限らず、浅葉なつの著作はどれも、極めて緻密な取材活動に裏打ちされた作品ばかりです。

 なので、編集部から最初に取材企画を持ちかけられたとき、真っ先に相談したのがこの浅葉なつでした。

 だから実は日本刀というアイデアが出る以前から取材についてのアドバイスなどをもらっていたのですが、テーマが日本刀に決まったとき、彼女のボルテージが一段階アップしました。


 浅葉なつ先生、刀剣乱舞―ONLINE-の世界で審神者として覚醒されております。


 ただでさえ日本の神様、日本の歴史に詳しい浅葉なつが審神者になったことで、日本刀に詳しくなっているのです。

 こんな人が日本刀取材についてきてくれるとか鬼に金棒どころじゃない。

 

 岡山駅から播州赤穂線に乗り、長船駅へと向かう車中。

 改めてこれまでのアドバイスのお礼を述べ、それまでの勉強やら創作やらの話をしつつ、長船駅に到着した二人。

 タクシーに乗って備前長船刀剣博物館へ向かいます。


 

 兵庫住まいながら日本中の刀剣展示を行脚する浅葉も、この博物館に来るのは初めてらしい。

 到着すると、既に駐車場は打初式が目当てと思われる刀剣ファンの皆様の車でいっぱい。

 博物館の敷地内では打初式の準備が始まっているらしく、大勢の職人さんと思しき方々が忙しく動き回っておられる様子が見て取れました。

 

 昨日とは打って変わって晴れ渡った天気の下、いよいよ博物館が開館し、打初式を目指して我々は古式鍛錬場へと集まります。



 鍛錬場では、神棚に向かって祭壇が設えられ、神職と職人の皆さま、そして瀬戸内市長が待機し、地元テレビのカメラも入っていた。

 時間になると、神職が厳粛な面持ちで新年の祈りと祝詞を捧げる。

 それを聞きながら、浅葉なつがぽつり。


浅葉 「これってたぶん、普通の大祓詞とかじゃないなあ」


和ヶ原「え、聞き分けられるの?」


浅葉 「多少だけどね。博物館の名前が入ってるし」


和ヶ原「途中、神職が『オオオオオオ……』って長く声を伸ばしてたのは、あれは何だろう。神社とかでは聞いたことない」


浅葉 「あれは『警蹕』だね」


和ヶ原「ケイヒツ?」


浅葉 「儀式の先払いなんかで神職が出す声のことだけど、調べればもう少し詳しく出てくると思うよ」


 これもまた『取材』の醍醐味ですね。

 もし和ヶ原が一人で来ていたら、神職が発した長い「おお」の声を一体どうやって調べたものか、見当もつきませんでした。

 せいぜいがネットで「神職 おお 長く言う」と検索するのが関の山だろうと思います。

 ちなみにこれでグーグル先生に検索をかけても『警蹕』という単語にはたどり着けません。

 この一件は和ヶ原にとっては実は尾を引いている出来事で、一体どうすれば自分一人で『警蹕』という単語にたどり着けたのか、未だに答えは出ていません。

 自分が知らない言葉にたどり着く難しさを象徴する出来事でした。

 ともかくこれから先、こうした浅葉なつの存在に助けられることだらけになってきます。


 神事が終わると、いよいよこの年最初の古式鍛錬開始。



 火床(ほど)と呼ばれる炉に火が入り、鞴(ふいご)が吹かれ、刀の原材料となる玉鋼が熱され、赤熱し、金床に置かれ、鎚が振るわれます。


 このときの音を聞いた衝撃は、忘れようがありません。


 どんなに美しく録音された音源を最高のヘッドホンで聞いても、ライブ会場で全身に受ける圧倒的な音の衝撃には勝てない、と言えばお分かりいただけるでしょうか。

 これまでメディアを通して、鉄を叩く音は何度も聞いていました。

 この取材に先駆けて、そういった映像もたくさん見ました。

 その全てを過去にする、金属はこんな綺麗な音を立てるのか、と叫びたくなるような、美しく澄んだ、それでいて力強い音でした。

 初めは手持ちのカメラで音を録音しようとしていたのですが、この年最初の鍛錬の音を聞いて、これは記録ではなく記憶にとどめるべき音だと考え、何枚か写真を撮ったきりであとはひたすら目と耳を澄ませていました。

 この音の美しさは、実際に現場で聞いて体験してください、としか言えません。

 そして、この日は予想だにしなかった、素晴らしい出来事が待っていました。

 鍛錬をされている刀匠の方が、こんなことを仰ったのです。


「打初式にご来場いただいたみなさんに、今からこの玉鋼を打っていただきたいと思います」


 え!?

 打たせてくれるの!?


 会場のどよめきも半端じゃありません。

 我々は順番に並んで、刀匠の方の指導で鎚を握り、金床の玉鋼に鎚を振り下ろします。

 鎚、重いです。

 緊張していたせいで余計そう感じたのかもしれません。

 鍛錬の間、刀匠のみなさんは実に軽快に鎚を振るっておられましたが、一体こんな重いもの何度振ればいいんだ!? と一瞬で思うくらいには重いです。

 緊張の、玉鋼との初コンタクト。

 刀匠の方に鎚の持ち方をご指導いただきながら、掌にずっしりと感じる重みに驚きました。

 そしていよいよ和ヶ原の番。

 あくまで儀式ですので、職人さん達のような大きい振り方ではなく、十数センチ上から赤い玉鋼に向かって、三度、鎚を下ろしました。

 とても澄んだ音でした。

 こんな貴重な経験をしておきながら、最初に抱いた感想は、

「……硬い」

 でした。


 赤を通り越して白くなった玉鋼。

 そうなった金属って、なんか柔らかいイメージありませんか?

 でもね、硬いんです。

「そりゃ鋼なんだから硬いの当たり前だろ何言ってんだ」

 と思われてる方もいると思います。

 多分あなたのその想像の50倍は硬いです。

 先ほど感動した音が、鎚を置きに行く程度のほんのささやかな力で打っているにも関わらず、鎚を通して全身に響いてきます。

 もちろんこれは『古式』鍛錬であり、現代の刀匠の多くは鍛錬には機械を使います。

 ですが機械が生まれる以前、刀匠はこの何倍もの力で鎚を振るって数多くの鋼を打つことにより、一振りの刀を完成させてきたわけです。

 もちろん一緒に来ている浅葉もこの玉鋼打ちを体験しています。

 終わった後、彼女がこんなことを言いました。


浅葉 「めっちゃ重かった。あれをどんだけ振り下ろすんやろ……。女性にはきついやろな」


 歴史上、様々な事情によって女性の刀工の記録は、ごくわずかです。

 時代や地域によってその理由は様々だったでしょうが、間違いなくその一つであろうことが、鎚の重量と、振るう回数です。

 今後の連載でも詳しくお話しますが、とにかく原材料の玉鋼と完成品の刀の間には、恐ろしい回数、鎚を振るう必要があります。

 そして、先ほどの職人さんの写真をご覧いただければ分かる通り、めいっぱい振るって打っても、素人目には灼熱した鋼の形はほとんど変わったようには見えません。

 これを人力で延べるのに、一体どれほど振るい、叩き、振るいを繰り返す必要があるのかと考えると気が遠くなります。

 今回我々が握った鎚の重量は、約八キロ。

 しかもその重量は、先端の金鎚部分に集中しているのです。

 それを鋼が熱されているほんのわずかな間、一定のリズムで正確に打ち下ろさねばならないのです。

 そして、古式鍛錬が全盛の時代、日本人の体型は男女ともに、現代とは比べ物にならないほど小柄であり筋力も体力もそれに比例していました。

 逆に言えば、古式鍛錬に拠らず機械を用いる現代の作刀環境であれば、女性の刀匠も十分存在しうる、という考え方も可能です。

 自分が打っただけではこの感想には絶対たどり着けませんでした。

 これもまた、自分一人ではたどり着けない、大きな知見の一つでした。

 そしてこの、現代と昔では日本人の体型が違う、ということは、本番の取材の際にも意外なところで効いてくることとなりました。


                     ※

  

 この、鋼と向かい合い、鋼を打ったわずか五秒間こそが、今回の事前取材で最大の収穫でした。

 熱された玉鋼を打ったことがある、という経験は、今後小説を書く上で、文章にするにしろしないにしろ絶対に血肉となる。

 そう確信するほど衝撃的な経験でした。

 

 この後、博物館で作業をしていらっしゃる刀匠以外の職人さんにもお話を伺うこともできました。

 

 先述した通り『刀』とは刀身部分のみを差し、それ以外のパーツにはそれらを作る専門の職人さんがいらっしゃいます。

 日本刀を磨き上げる研師。

 鞘を作る鞘師。

 鞘に漆を塗る塗師。

 刀身に彫刻を施したり鍔を作る装剣金工師。

 柄を作る柄巻師。

 日本刀の刀身を鞘に固定する鎺(はばき)と呼ばれる部分を作る白銀師(しろがねし)。


 こういった大勢の職人さんの手によって、我々が良く知る拵に収まった「日本刀」が完成するのです。

 職人さん方の作業を見学し、お話を伺い、そこでまた知らないことを知り、その話がまた二月の本番の取材で基礎知識として生きました。



 このときも二月の取材時も『赤羽刀』と呼ばれる刀剣群が展示されていたのですが、この赤羽刀についてのあれこれは連載後半をお待ちください。


 最後に博物館の西側に位置する、靱負神社(ゆきえじんじゃ)にお参り。

 この神社は眼病平癒の御利益があるとされ、鋼を熱した時の温度を見るために鋼の色を見ることや、火の温度を見るために火の色を見ることが大切な刀匠の信仰を古くから集めています。

 この靱負神社、正面から見える拝殿の裏手に回ることができるという、なんとも不思議な造りをしていました。

 このときの和ヶ原と浅葉は、なぜこのような形で建てられたのか分からなかったのですが、この理由も二月の取材で判明します。


 たっぷり刀を堪能した和ヶ原と浅葉は岡山駅に帰還し、遅い昼食を取ってあれやこれや感想を言い合いました。

 その後、二月の本番取材に正式参加をお願いして快諾してもらい、いったんこの日は解散。

 その後和ヶ原は前日行けなかった岡山後楽園と岡山城を散策し、ほぼ終電の新幹線に乗って東京に戻りました。



 岡山後楽園には成人式の時期ということもあり、着物姿の女性がたくさんいました。

 城のお堀には、さすが岡山。スワンボートに交じってピーチボートが。



 この一月の取材は、予習って大事なんだな、ということを学生時代以来久しぶりに実感する刺激的な出来事の連続でした。

 

 今回ここまでくるだけでも相当にディープな経緯を辿りましたが、次回以降、この予習が効いたがゆえにさらにさらにディープな世界へと、和ヶ原は突入してゆくことになります……!


 ということで、次回より、和ヶ原聡司 with 浅葉なつの、岡山日本刀取材の、始まり始まりでございます……。



 To be continued…


☆このブログの次回更新は、5月24日(金)予定!!!

★取材に同行した浅葉なつによるスペシャルエッセイもチェック

⇒第一話補記:浅葉なつ、もうひとつの電撃ディスカバ:Reポート

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