冬原桜

 冷たい壁に身体を預ける。正確に言うと壁に身体を預ける体勢で静止している。

 窓から射し込む茜色の陽光が足元を染めていた。

 点灯していない蛍光灯をぼんやり見上げながら耳を澄ますと、柔らかい歌声が、壁の向こうから微かに聴こえてくる。

 目をつむると、小さなホールが瞼の裏に浮かぶ。

 私は舞台でグランドピアノに向かって座っている。

 客席には誰もいない。赤いイスが整然と並んでいるだけだ。

 いつかこのホールを超満員にしたいと、私たちはずっと願っていた。

 私が曲を弾き始めてしばらくすると、凛とした歌声が旋律にかぶさり、ホール内に響き渡った。

 その透き通った歌声を響かせていた人の名前は思い出せない。顔にももやがかかっていて、判別できない。声だけは劣化することなくこの耳に残っているが、低い女の声にも聞こえれば声変わり前の男の声にも聞こえるから、性別も判然としない。

 私の記憶はどんどん薄れ、曖昧になっていく。思い出せない時は歯痒く、忘れたことさえ気付いていないこともあるのだと思うと、悲しくなる。

 壁の向こうに住む彼の声は、私の記憶に残っている声に似ていて、あの凛とした歌声を彷彿ほうふつさせる。ただ、彼の声は少しだけあの声より柔い。

 彼は、隣に私が住んでいることを知らない。誰にも気兼ねすることなく一日中歌声を響かせながら過ごしているだけだ。

 私は、一日中その歌を聴いて過ごしている。

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