サスペンス篇3、憧れ

増田朋美

第一章

憧れ

第一章

その日。

いつもより暖かい一日で、今日は過ごしやすいな、と思われる日だった。

「有希。診察の時間よ。」

と、母に言われて須藤有希は、鞄をとった。

「はい、今行きます。」

多分きっと今日も同じ日々を過ごすことになるんだろうなと思いながら、有希は、母と一緒に、自分の唯一の外出先である、影浦医院に向かうのである。

「ほら、何をしているの。早くいかないと遅刻するわよ。いくら予約制だからって、時間は守らないとね。」

「わかりました。」

有希は形式的な挨拶をして、取りあえず母が運転している車に乗った。有希は車の免許を持っていない。だから、彼女の移動は、すべて母にさせてもらうことになっている。ほかに車を運転してくれる人は、弟もいるし、父もいる。だから、車の運転については、問題ないと家族は思っている。でも、彼らがもし、一瞬で終わってしまったら?そうしたら、私はどこにも移動できなくなってしまうんだなあと、有希は思った。

とりあえず、影浦医院に到着した。本来であれば、大規模な病院に通うべきだったが、それはどうしてもいやだと、母がいったため、このクリニックに通わせてもらうことになったのだ。

とりあえず、二人は受付を済ませて、待合室に行く。この影浦医院では、別にインフルエンザの人がいるわけではないけれど、なぜか、希望すれば別室で待たせてもらえる様になっている。

「須藤さんは、通常の待合室でよろしかったんですか?」

看護師にそう聞かれて、有希は、大丈夫です、と看護師に言った。

「この前よりはだいぶ落ち着いたのね。この前はたいへんだったものね。」

有希は、看護師さんにそういわれて、以前は非常に暴れて大変だったことを示された。

「まあ、そうだったわね。でも、こういうことは忘れたいの。先週あったことは、なかったことに

してください。」

母が、そんなことをいっている。もしかしたら、それは本当の気持ちなのかもしれない。それが、もしかしたら、世間の反応ばかり気にしている、精神障碍者の母の一番の気持ちだったのかもしれなかった。

「大丈夫ですよ。ここは病院ですから、そういうことをいう親御さんは、一杯いますからね。この病院ではそういう人ばかりですから。そんなことは、何回でも言ってくれて結構ですよ。あたしたちは、そういう人のためにいるんですから。」

そういわれると、病んでいる有希よりも、その母のほうが病んでいるのかもしれなかった。精神障害というのは、そういう物かもしれない。

「須藤さん、どうぞ。」

別の看護師に言われて、それでは、と、二人は椅子から立ち上がる。立ち上がって、長い廊下を歩いて、診察室と表札が貼られている小さな部屋に入った。

「こんにちは、先生。どうぞよろしくお願いします。」

「ああどうぞ。」

影浦千代吉は、有希を、患者席に座らせた。大体の病院では、医師は立派な椅子に座り、患者席はくるくる回る小さな椅子であることが多いのだが、この影浦医院では、どちらも高級な座椅子になっている。

「こんにちは。須藤有希さん。先週に比べると、だいぶ落ち着きましたね。それでは、少しでも食欲も出てきましたか。」

影浦は、静かに言った。

「ええ、あの後、暫くはあたしも手を出せなかったんですが、おかげさまで翌日は、暴れないでいてくれました。」

母が、母らしくそんなことを言った。

「まあねえ。確かに、そういう言い方をしてしまいがちだとは思うのですが、そのような言い方はしないでもらえないでしょうか。其れでは、彼女が人間ではないという事になってしまいます。」

影浦は、そう訂正した。

「ええ。それは分かるのですけれども、この子が叫んだり、わめいたりすると、もうどうしようもなくなってしまうんです。」

「まあそうなんですけどね。こういう病気の人が暴れるのは、単なる家庭内暴力夫などとは違います。長年言いたいことがあって、それを口にできなかったばかりに、暴れるという事を覚えておいてください。学校でも、社会でも、自身を自身として認められなかったばかりに、結局暴れるという手段しかなかったという事を、しっかり自覚しておいてください。くれぐれも、彼女を怪獣だとか、そのような言い方はしないように。」

「はい、すみません。あたしたちが産んだ子ですから、そうしないように考えてはいるつもりなんですけど、どうしても、怒って大声を出したりすると、どうしても怖くて、そう見えてしまうんですよ。」

「そうですか、、、。」

大体の患者は、口に出して言えれば、解決する場合が多い。そして、親が、それを素直に反省して悪かったと謝ってくれれば、それで許してしまうことが多い。でも、それは今の家族はなかなかできない事が多い。大体の親は自分のしたことを正しいと思い込んでおり、それを訂正しようという事は、非常に難しくなっているからだ。彼女、須藤有希の場合も、その代表例であった。昔の家族であれば、誰か、訂正してくれる人が一人か二人はいて、すぐに問題は解決できるはずだ。機械化されて、何でも一人でやってしまえるという現在、他人がかかわらなくてもよくなった。というより、他人がかかわるのを嫌がるようになった。それが、日本人がしてきた大きな間違いであると、影浦は考えていた。

「じゃあ、とりあえず落ち着いてくれたようですので、その時の話をしても大丈夫でしょうか。」

と、影浦は聞いた。

「はい。」

有希は静かに答える。

「じゃあ、聞きますが、あなたの神経に触った言葉を言ってみて下さい。」

影浦は、有希に聞いた。これが口に出して言えるか、も、障害の重さを決める、大事な診察だ。

「はい。あの時は、たまたま、車に乗って、家の近くにある、スーパーマーケットに向かって

いました。」

有希は静かに語りだした。影浦は、もしもの時のために、と、呼び出しベルを近くに持ってくる。

「それでは、なぜ、おかあさんに向けて、暴言を吐いたりしたんですか?」

もう一回、影浦は聞いた。

「はい。その時、ちょうど、学校の前を通りかかりました。ちょうどその時、卒業証書授与式という張り紙がしてありました。あたしは、卒業という言葉は好きではなかったので、母がうれしそうな顔をしているのを見て、ひどく怒りを感じてしまいました。でも母は、普通の話をしているのだと言いました。でも、私にはできないのだから、やめてほしかったんですが、普通の話をしたいと、いう発言でやっぱり働いていない人は、死ななければだめだと言われたことを思い出して、自分が本当に悪いことをしたのだと思い、手首を切りました。」

よかった、そうやって理屈を作って言ってくれるのなら、かなり進歩したことになる。其れさえも、いう事ができないで、大声で騒ぎだす人も少なくない。

「そうですか。それはずいぶん大変でしたね。それでは、お母さんに、学校の卒業という話をしてほしくなかった。それが、あなたの望みだったんですね。」

そう、先ず結論を声に出していうことが、大切である。

「それでは、なぜそうしてくれと、口に出して言えなかったのですか?」

「ええ、だって、働いていないから、生きていてはだめだと思ったからです。でも、あたしは、正直、我慢していられなかったし、でも、働いていないから、一生懸命自分を抑えようと思ったのですが。」

「そうですか。働いていない人間は死んでしまえと発言したのは誰なのでしょうか。」

「はい、学校の先生です。進路指導でそういわれました。」

「それは、あなたに直接言った言葉でしょうか。」

「はい。クラスのみんなに言ったので、私にも言ったのではないかと思います。」

「そうですか。それは、どのような状況だったのでしょうか。」

と、影浦は聞いた。

「はい。クラスの人が、どうしても、黙らないので、それを黙らせようとしていたんだと思います。とにかく、学校では、みな勉強する意図はなくて、其れよりも、携帯電話とか化粧に夢中になっていたんですから、それをやめさせるためには、すぐにでかい声で、騒ぐしかできなかったので。」

「だから、あなたに言ったわけではなく、ほかの生徒を動かすための暴言だったんでしょう。それは、もう過去の事ですから、それは切り離したほうがいい。それは単に、悪い生徒たちを動かすための、手段に過ぎなかったんですよ。」

影浦は、そういうのだが、人間の脳というものは、それでは、納得しないのが正直な話である。なぜか、すぐああそうかと訂正できないのが、人間だ。それは、家族も同じことが言える。

「それでは、あたしはどうしたらよかったんですか。」

有希は必ずそういうことをいう。

「ええ、今は、あなたは心が病んでいるという事を忘れてはいけません。例えばお母さんが学校関連の話をしただけで、大暴れをするということは、それは立派な病気の症状なんです。それはしっかり自覚していただいて、そうならないように、無理をしない生活をしていくことが、一番の薬なんです。多少時間はかかっても、なんとかなると思って下さい。」

「そんなことはできません。あたしは、もうこんな年になってしまいますし。父や母も、このままの生活をさせるわけにはいかないんです。父や母には、それでは、一生ほかの子がしているような幸せにはなれないじゃないですか!」

「そうですけど、あなたは、それでは、まだ治ってはいないんですよ。そうやって、関連する用語や情景などに出くわすと、精神のバランスが崩れて暴れるという症状は、病気の症状何ですから、それは、しっかりと自覚してもらわなければ。」

医者として、そういうことはしっかり言わなければならない。それはしっかり自覚してもらわないといけない、ということは、伝えなければならなかった。

「仕方ないんですよ。風邪を引いたのとは違って、薬でどうのこうのとなる、問題ではないんですよ。病気には、すぐに薬で何とかなるものもあるけれど、そうじゃない病気だってたくさんあるんです。だから、それはどう仕様もないと割り切って、日常生活を過ごして下さい。たしかに、体は動くわけですから、ちょっと不自由なところもあるのかもしれないけど、医学関係者から見れば、あなたは十分、病人として認識できるんですよ。」

影浦は、できる限り声を荒げずに、彼女に言ったつもりだったが、彼女は涙を流して、静かになくばかりだった。ほかの患者さんにもよくあることであるが、こういう、患者さんに対して、どうやったら生きがいをもってもらえるか。其れも重大な課題だった。

とりあえず、次の患者さんもいるので、彼女には、いつも通りの薬を渡して帰ってもらったが、本当は、自分のほうが、役に立たないことをしっている。有希さんの悲しみも、苦しさも、ただ口にさせるだけで、何の解決にもならないのだ。

「ごめんなさい。」

影浦は、それではいけないと思いながら、診察室を出ていく有希を見て、思わずそうぽつりとつぶやくのだった。本当は、精神科医よりも、ファミリーコンサルタントとか、そういう資格のほうが、家族に介入して何かできるのではないかと思ったくらいだ。

有希たちが影浦医院から戻ってくると、彼女の実弟である、みんなからはブッチャーとよばれていたが、須藤聰が出迎える。

「お、お帰り姉ちゃん。」

ブッチャーは、そういって、有希たちを出迎えた。

「ただいま。どうしたのその顔。なんだか、顔色よくないわよ。」

有希は、落ち着いていれば、そうやって他人に何か言う事だってできる。

「有希、ご飯だから、そこにいて頂戴よ。」

母がそう注意して、台所に向かった。

「どうしたの聰。一体なにかあった?」

母がご飯の準備をしている間、ブッチャーと有希は、何気ない話を始めた。

「いやあ、俺、今日ひさびさに着物の販売業務の後で、製鉄所によってみたんだが、、、。」

ブッチャーはぼそぼそとそんな話を始める。

「あら。皆さん元気だったのかしら?あたしからよろしくと言って置いてよ。」

「それがな、、、。」

ブッチャーは、涙をこぼしながらそういうのである。

「たいへんな目にあったのね、、、。」

有希は、ブッチャーの話を静かに聞き始めた。

「こんにちはあ!久しぶりですが、お元気ですかあ!俺、今日も、銘仙を売り上げましたよ。ある合唱団が、和風の曲をやるといいましてね。大量注文だ!もう、同和問題なんて気にしないで、発売ができる時代だなと、思いましたよ!」

製鉄所はインターフォンがないので、そのまま製鉄所の戸を開けたが、そのような発言はとてもしてはいけなかったと、知ることになった。返答は誰もかえって来ない。

「すみません、俺ですが、入りますよ!」

ブッチャーは、そういいながら、四畳半にむかった。鴬張りの廊下が、きゅきゅ、と音を立ててなるが、四畳半に近づくにつれて、有る音が聞こえてくる。ブッチャーはそれが気になり始めた。

水穂さんが咳き込んでいる声がする。ブッチャーは、おどろいて、というか、またやっているのか、という感じで、四畳半のふすまを開けた。

「水穂さん、お願い、しっかりして!」

由紀子が、水穂さんの体を支えて、一生懸命体を倒さないようにしているが、もう水穂さんは頭がふらふらしていて、すぐに倒れてしまいそうだった。

「すみません。あたしが、しっかり見ていなかったばっかりに。」

隣にいた、青柳先生も厳しい顔をしている。

「ただ、調子がよさそうだったので、公園に散歩にいっただけだったんです。公園を暫く歩いて、すぐ帰るつもりでした。ただ、帰ったらお茶でも飲みたいだろうなと思って、あたしが、ジュースを買うために、自動販売機のほうまで行ったら、草むらにふらふらと倒れてしまって。」

「由紀子さん、言い訳はいりませんよ。何はともあれ、これからどうするのかを考えないと。そんな過去にあった事例を口でべらべら話したって、どうにもならないですから。」

「ごめんなさい、青柳先生。」

由紀子は、申し訳なさそうに言った。そして、引き続き、背中をさすってやったりしているが、それでは、由紀子もブッチャーも知っている、出るべきものは出ない。

「しっかりして、目を閉じないで!」

由紀子が話しかけても、出るべきものは出なかった。

「仕方ありませんね。それでは、もう之を使うしかありませんね。」

青柳先生が、枕元にあった痰取り機に手を伸ばした。

「や、やめてください、これは!」

由紀子は、思わずそれを見て、こう叫んでしまった。

「だけど、これを使うしか方法はありません。さもないと、吐瀉物が、気管をふさいで窒息死してしまいます!」

青柳先生は、そういった。ブッチャーも、そうしなければならないと確信した。

「暴れるだろうから、須藤さん、足を抑えてください。」

「わ、わかりました。」

ブッチャーは、急いで水穂さんの足を抑えた。

「それでは、由紀子さん、布団のうえに寝かせて。」

由紀子は、そのとおりにした。それでは、と、青柳先生が、水穂の口の中に、チューブを無理やり

突っ込む。それでは、と、先生は、痰取り機のスイッチを入れた。ウイーンという音と一緒に、ズブブブブと音を立てて、吐瀉物が上がっていく。と同時に、ものすごい苦しいのか、ウイーンという音に負けないくらいのうなり声も聞こえてくる。痰を取る時間なんて、ほんの少しだけだったけど、それが、ものすごい長い時間だったような気がする。

やっと、青柳先生がチューブを取ると、全員が大きなため息をついた。

「水穂さんよかったね。やっとチューブが取れて、楽になったでしょう?」

由紀子は、思わずそういったが、同時に、青柳先生が、新聞を丸めて、由紀子をバシンとたたいた。

「ちょっと、何をするんですか、青柳先生。そんな事をして、由紀子さんがかわいそうでしょう?」

ブッチャーは、急いで由紀子を擁護するが、

「いいえ、今回は彼女の誤った認識が原因なんです。それはしっかり罰しておかないといけません!たたくことは一度しかしませんが、なぜたたかれたのか、それをしっかり考えなおしてもらわないと!」

と、青柳先生はいった。由紀子は、わっと泣き出した。彼女は、水穂さんの体に突っ伏して泣いている。ブッチャーは、由紀子さんが、可哀そうで何か言ってやりたかったけれど、自分も青柳先生にたたかれるような気がして、何も言えなかった。

「そうだったのね。」

有希は、ブッチャーの話を聞いてそういった。

「それじゃあ、聰もたいへんだったんじゃないの。由紀子さんだけが、可哀そうだとは、あたし、言えないわよ。」

こういうことをいえるのは、姉ちゃんだけじゃないか、と、ブッチャーは思う。

「で、水穂さんはどうしてる?」

「ああ、寝てるよ。スイッチ切った見たいにな。青柳先生がああしてくれなかったら、たしかに、詰まらせて死んでいたかもしれなかった。まあ何とかなったから、それでいいのかなあ。とりあえず、痰取り機というものは、ものすごく、苦しいだろうからねえ、、、。」

ブッチャーは、思わずそういうと、

「あんたも、大変だったね。よく休むといいいよ。よくやっていたね。」

そういって、変なところでほめてくれるのも、有希であった。どうして、ほめられる筈がないことで、ほめてくれるんだろう。

「ほら、ご飯よ。世間話は後にして、ご飯にしなさい。」

近くから、母の声が聞こえてきた。

「行こうか。」

有希は、ブッチャーにご飯を食べに行くように促した。

それでは、と、ブッチャーも、椅子から立ち上がって、食堂にむかって歩き出した。

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