第57話 「まだ完全ではない」②
その時だった。
・・ずるっ、ずるっ・・
また、あの得体の知れないものが這う音だ。今度はどこにいる?
足元か?
音と同時に、「はあああっ・・」と大きく息を吐く音が聞こえる。
そして、べちゃっ、べちゃっ、と水分を多く含んだ足音のようなものまで混ざっている。
松村は言っていた。
「あいつが血を吸うんだ」・・と。
と、いうことは、あれがこの部屋にいるとしたら、危ない。
僕か、君島さんが血を吸われる!
僕と君島さんは半吸血鬼化しているかもしれないが、その体の中には大量の血液を内包している。
その時、
「屑木くん・・窓際に並んでいる大きなケースみたいなもの・・」
君島さんはそう言って月明りで明るい窓際を指した。
僕は「あのケースは、下にもあっただろ」と強く言った。
「違うわ・・下にあったのと違う」君島さんは断定するように言った。
「どう違うんだ?」
「形・・」
「形?」
それより、今は早く広間から出ること。それが先決だ。そして、佐々木を探すんだ。
そう思った瞬間。
ガチャッ、と何やら金具の外れる音がした。
音の方向を探ると、ケースの蓋が開いたようだ。
そして、その音に反応したのは僕たちだけではなかったようだ。
それまで、女の口と絡み合うように交合していた男が顔を上げ、
「ああ、開いたぞ」と言った。「血の匂いで我慢できなくなったようだ」
男の顔から離れた女も口元から何やら液体を垂らしながら、
「大きいのが、出てきたの?」女が男に尋ねた。
「ああ、俺たちの仲間だよ」男は嬉しそうに答えた。
確かに、ここに入る前に見た大学生の男女だ。ほっそりした男に、更に痩せた女。
そして、男は、今更気づいたかのように、僕と君島さんの姿を認め、
僕と君島さんの姿を上から下まで舐め回すように見た、
「君たちは、まだ済ませていないんだね」と笑った。
男が言っているのは、あの体の中に入れられる儀式のようなことを言っているのだろう。
君島さんさんは僕の背後に隠れ、「ねえ、屑木くん。あの人、何を言っているの?」と訊いた。「あの人、おかしいんじゃない?」
君島さんは、「あれ」について何も予備知識がない。
すると、女の方が、「あの二人、体の中にまだたくさん血が残っているわよ」と僕たちを見ながら言った。
「そうだな・・よくいる中途半端な奴だ」男がにやりと笑った。
その不気味な笑い・・イヤな予感がした。
まさか、僕や君島さんの血を吸い上げる・・あの二人はそうしようとしているのか?
あるいは、あの得体の知れないものに血を吸われる。
その予感が的中したのか、女の方がゆらりと立ち上がった。
「私、あの男の子の血が欲しい・・」
女が近づいてくる。僕と君島さんは後ずさった。
「君島さん・・あの二人の顔をよく見るんだ」
「えっ・・二人の顔を?」
「目を細めて見てみるといい」
「こう?」と君島さんは目を細めた。
「顔に穴が開いているように見えるだろ?」
「本当だわ・・顔の中が・・渦を巻いているわ」と君島さんは言った。「なんなの・・気味が悪いわ」
「ああなるの、厭だろ?」
「当たり前よ!」
女が近づいてくるのと同時に、
楽器のケースがバンッと大きな音を立て開いた。
女の関心が、僕たちから逸れた。
女と男の視線は、壁際に向けられている。
そこにあるのは、楽器のケース・・いや、大きな縦長の箱だ。つまり、西洋の棺桶。
その中から、ずるっと、何やら這い出てきた。
それまで直立状態で入っていたものが、蓋が開くことによって、その支えを失い、前につんのめって倒れ込んだようだ。
倒れると言っても、その得体の知れないものは、立っていようが倒れようが関係ないないかのように蠢いている。
・・ずるっ、べちゃっ・・巨大な山椒魚が移動しているように見える。
すると、前の部分・・顔の部分に相当する箇所が持ち上がり、
「はあああっ」
雄叫びのような、あるいは、大きな呼吸のような声が上がった。
その音質から、あの物体は、女・・又は牝であることは推察できた。
「いやあああっ」君島律子が口に両手を当て、耐えかねたような叫びを上げた。
そのまま彼女は僕の背中に貼り付くように、身を寄せた。
そんな君島さんを見て、女の方が、
「あなた、いったい何を叫んでいるの?」と呆れたような顔をし、
そして「あんな美しいものを見て、そんな破廉恥な声をあげるなんて」と言った。
美しいもの?
やはり、美意識がおかしい。
松村と同じだ。松村はこの屋敷を美しい場所と言っていたらしい。
そんな様子にお構いなく、男の方が、
「・・まだ、完全ではないみたいだな」と小さく言った。
完全ではない? するとあの得体の知れないドロドロしたものは不完全な状態ということか?
だったら、完全な姿とは、一体?
それにあの黒い物・・あれ全部が体内に・・いや、あれの一部分が、松村や、体育の大崎の中に入っているというのか。
そして、僕はそれを伊澄瑠璃子によって入れられようとしていた。
「ねえ、屑木くん。あの変なの・・さっきより大きくなっている」
君島さんが指摘する通り、「あれ」は最初見た時よりも、大きくなっている。その大きさは、人間に等しい。
人間・・
あれは、人間になろうとしているのか?
まさか・・
そして、それは、こいつばかりじゃない、下にもいたし、他に何体もいる。
すると、今度は女の方が、
「血は、あれだけの量じゃ、足りないのよ」と言った。
そして、「血が、もっと必要なのよ」と判断するように言った。
「そうみたいだな」と男が言って僕たちを凝視した。「幸いにも、ここにはたくさん、血がある。この二人の血も捧げよう」
これは、まずい状況だ。
「いくぞ、君島さん・・」そう言って僕は君島さんの腕をぎゅっと握った。
「えっ」
戸惑う君島さんを引っ張るように、
「走るんだ!」と叫んだ。
僕たちは広間を後にして、廊下を走った。
佐々木の居場所を探し当てられないのは残念だが、あの男女は本気で僕たちの血を吸おうとしていた。
逃れられない・・僕の本能はそう感じ取っていた。
催眠を使われる。そうなったら、お終いだ。体が動かせなくなり、あの二人に血を吸い尽くされる。
佐々木、ごめん・・
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