第42話 キス

◆キス


 僕は景子さんに、

「景子さん、ごめん・・嘘をついて、ごめんなさい」と言った。

 景子さんが僕を抱き、その力を込めた回数以上に繰り返し謝った。


 そして、僕は景子さんに言った。

「血が・・吸いたい」

 景子さんの近すぎる顔を見ながら、本当のことを告白した。

「女の人を見ると、血を吸いたくなる」そう言って「たとえ、それが景子さんでも」と続けた。

 そう言った瞬間、「景子さんに嫌われる・・」そう思った。絶対に嫌がられてしまう。

 嫌われても仕方ない。

 人の血を吸いたいなんて、吸血鬼みたいで、怖いし、気味悪がられる。

 しかし・・景子さんは、

「私は、和也くんを信じるわ・・」と言って、

 僕を見つめながら「詳しく話して」と続けた。


 景子さんは、僕の肩に手を置き、

「世界中の誰もが和也くんを信じなくても、私は信じる・・」と言った。

 いつか聞いたような景子さんの言葉の抑揚に僕は心を開いた。

 そして、僕は今まであったこと、お化け屋敷の探検や、学校での不可思議な事、まるで魔女のような伊澄瑠璃子の存在。

 それに加えて、僕が血を吸いたいという衝動を抑えきれないこと。

 全て吐き出すように、僕は景子さんにぶちまけた。

 

「和也くん・・そんなに人の血を吸いたいの?」

 景子さんの問いに、僕は弱く頷いた。

 すると、景子さんは「私の血も、吸いたいのね」と小さく言った。僕は重ねて頷いた。

「さっき、和也くんの息が荒くなったのは、血を吸いたくなったからなのね」

 僕は更に深く頷いた。

「ごめん・・景子さん、ごめん・・こんなの変だよね。気持ち悪いよね」

 こんな欲望・・自分でも気持ち悪いのに、他人だったら、なおさらだ。

 

 けれど、景子さんは首を振り、真顔でこう言った。

「私の血を吸いなさい」

 驚くような言葉だったけれど、そんな景子さんの言葉に、僕の意思は揺らいでしまう。

「ダメだんだ・・血を吸われたら、他の人の血が欲しくなる・・そうなってしまうんだ」

 吸血鬼と同じだ。

 景子さんを僕と同じような血の欲望に汚れさせたくない。

「かまわないわよ・・私は・・」

 そう言う景子さんのどう言葉を返せばいい?

「い、今は、治まっているんだ・・でも」

 そう言った瞬間、景子さんの香りがふわっと漂ってきた。

 それは香水などではなく、昔の景子さんを思い出させるに十分なほど懐かしい香り。

 だが、僕の欲望はそんな感慨にも耽らせてはくれない。

 匂い・・その中にも、景子さんの血が感じられた。

 さっきまで治まっていた欲望が、頭をもたげ始めた。

 ダメだ。もう我慢できない。


「け、景子さん・・血を・・」

 僕はそれだけの言葉を発して、景子さんの喉元に顔を埋めようとした。

 けれど、喉元に這わそうとした口がずれ、景子さんの胸元に顔を埋める格好になってしまった。

 恥かしさと同時に、景子さんの温もりが伝わり、更に血を吸いたい欲求が高まった。

 喉でも胸でも、どこでもいい。血を吸えるのなら・・

 ・・いや、やっぱりダメだ! こんなことをしちゃいけない。


 その時だった。

 僕の頬に、生暖かい感触が伝わった。それは血だった。しかも景子さんの血だ。

 景子さんは、唇をガリッと噛んだのだ。ポタリポタリと血が垂れてくる。

「和也くん、飲んで」

 景子さんはそう言った。「吸うのが、ためらわれるのだったら、飲んだらいいのよ」

 僕はそんな言葉よりも、景子さんがどうしてそんな痛みに耐えながら、血を流すのか、理解できなかった。自ら唇を噛む痛さなんて想像もできない。

「景子お姉ちゃん・・どうしてこんなことを・・」

 そう言った僕の声は震えていた。もしかすると、僕は泣いていたのかもしれない。

 中学の時、景子さんと箱ブランコに乗った時の記憶が蘇る。

 ・・もし、和也くんを苦しめる人がいたら、私が許さない・・この世界を敵に回しても、和也くんを守ってあげる・・


 景子さん、あなたは、いったい誰なんだ?


 そんな景子さんへの思いをかき消すように、僕の心は血の欲望に満たされていく。

 僕は頬の上を伝う景子さんの血を指ですくい・・舌の上に乗せて・・飲んだ。

 血が食道を伝って体の中に取り込まれていくのを感じた。母の指の血を飲んだ時と同じ感触だ。少量なのに満たされる。

 そんな僕の心情を読んだのか、景子さんは、

「和也くん、少しは落ちついた?」と言った。

 景子さんの唇から血が滲み、つーっと流れている。

「いいのよ・・もっと飲んでも・・」

 だめだ・・これ以上先に進むと、僕は・・

 僕は人間ではなくなる・・

 

 そう思いながらも止められなかった。

 僕は景子さんの顎から、唇に口を這わせた。

 血の強烈な匂い・・それは甘い誘惑だった。

 

 第三者が僕たちを見たら、男女がキスをしているように見えるのだろうか?

 ・・いや、これは紛れもなく、キスだった。

 けれど、それはキスの形をとった、別の行為だ。

 僕は景子さんの唇から滴り落ちる血を飲み続けた。丁寧に、確実に吸い上げていった。

 決して水を飲むような感覚ではない。

 相手の大事なもの奪い取っていくような感覚だ。

 景子さんは僕の行為にされるがままになっている。

 おそらく、景子さんは、僕が景子さんの血を全部吸っても黙っているだろう。そんな気さえした。


 少量の血でも気分は落ち着いた。それが景子さんの血だからなのか、誰の血でもいいのかはわからない。

 僕は景子さんの顔を見上げた。

 僕は、「景子お姉ちゃん、ごめん」と、昔の呼び名で謝った。

 それが、景子さんの血を飲んでしまったことへの謝りなのか、男女の口づけのような行為をしたことに対する謝りなのか、僕にはわからなくなっていた。

「かまわないわよ」

 そう応えた景子さんの顔が間近に感じらると、

 まさか、と僕は思い、

「景子さん・・僕の顔、おかしくない?」と確かめるように訊いた。

 松村や、白山、体育教師の大崎みたいに、顔に穴が開いているように見えていたら大変だ。それこそ不気味で気持ち悪いと思われる。


 景子さんは首を横に振って、「ううん・・和也くんの顔、ちっとも変じゃないわよ」と言った。

 ・・僕の顔には穴が開いていない?

 それが本当なのか、景子さんの優しい嘘なのかはわからない。

 更にわからないのは、僕の顔に穴が開いていないということだ。松村と僕の違いは何だ?

 二人の違い・・

 伊澄瑠璃子によって体内に「何か」を入れていないこと・・それしかない。

 何かを体内に取り込めば、血を吸いたいという欲望が抑えられるのか? その反面、顔が空虚になる。

 だったら、体育の大崎は?

 あいつは、顔に穴が開いているうえに、教室で君島さんの血を吸おうとしていた・・

 だから、保健医の吉田先生曰く、「失敗作、出来損ない・・」なのか?

 ・・そして、顔に穴が開き、更に血を吸いたくなる人間は、体育の大崎の一人だけなのか? 他にもそんな人間がいるのなら、危険極まりない。どんどん感染していく。


 そう思っていると、景子さんは僕の横から向かいの席に移り、

「穴と言えば・・町の噂を聞いたことがあるの。血を吸いたくなるのと関係ないかもしれないけど」景子さんはそう話を切り出した。

「町の噂?」

「ええ・・あくまでも噂なのだけれど、顔に穴が開いているように見える病気が流行しているらしいの」

「それって・・この町の話?」

 しかし、そんな噂はあっても、誰かが血を吸われたとかいうニュースを見たことがないし、聞いたこともない。

 その片鱗でもあるとすれば、あの屋敷に救助に来た救急車が帰りに事故にあったということだけだ。

「この町らしいの・・私の家ではよく話題になるけれど、大学ではその話は出ていないわ」

 景子さんはそう言って「和也くんの学校で、そんなことが起こっているのなら、学校に行くの危険だわね」と続けた。

「でも、行かないわけにはいかない・・それに、この異変に気づいている人間は、少ないんだ」

 僕と神城、佐々木、松村くらいか・・他の人間は信用できない。

 そして、信用のできる人間に、今日、景子さんの存在が加わった。


「和也くん・・血が吸いたくなったら、また私の血を吸ってもかまわないわ」

 僕は「そんなこと、もうできない」と弱く答えた。

 そう言った僕の声は、これまでの僕の人生の中で一番自信のない声だった。


「私、大学の帰りには、毎日この公園の前を通るのよ・・また同じ症状が出たりしたら、この公園で私を待っていて」

 景子さんの言葉に僕は返せなかった。

 こんな僕は景子さんにとっては迷惑だろうし、血が吸いたくなって、公園で景子さんを待つなんてできるわけがない。

 けれど・・

 景子さんとはまた会いたい・・

「この世界を敵に回しても、私が和也くんを守ってあげる・・」

 中学の時の景子さんの言葉を思い出す。

 そんなことを自信を持って言える・・そんな景子さん、

 ・・・景子さん、あなたは、いったい何者なんだ?


 その後、景子さんとは公園で別れ、僕は家路についた。僕の血に対する欲望は嘘のように消えていた。

 帰るなり、母には、「和也、一体何を考えていたの。お母さんの指をしゃぶるなんて」と文句を言われただけだった。

 そして、景子さんと会っていたことは、言わなかった。

 それだけは、僕と景子さん・・二人だけの秘密だ。

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