第7話 野球とテニス

◆野球とテニス


 松村は相変わらず授業中ぼうっとしている。

 委員長の神城が気にするのも無理はない。その原因を知りたくて、声をかけても松村の顔はどこか遠くを見ている。

 ただの五月病だとかだったら、何も心配などすることはないのだが、あの屋敷に行ってから、というのが気になる。

 ただ、僕は声をかけた時の松村の空虚な顔が忘れられなかった。それは神城や佐々木奈々も同じだ。


 春の穏やかな日差しの中、掛け声が飛び交う。

 体育の授業の野球だ。グラウンドの一角で男子生徒は野球をしている。

 授業と呼べるものではない。担当の体育の教師、大崎先生はよくこうやってサボる。男子生徒達に野球をさせ、自分は見学をしたり、どこかに油を売りに行ったりする。いつものことだ。

 生徒達もいい点数を付けてもらえれば文句は言わない。


 運動神経のいい奴、野球の大好きな連中は喜び、僕のようなどうでもいい人間は本当に野球だろうが、ハンドボールだろうが、何でも構わない。

 そう思っていても、ボールは飛んでくる。「おい、屑木、たのむ!」と言う掛け声に僕はグラウンドを駆ける。ポンとグローブにボールが収まる。そして、投げる。それなりに運動神経はある。けれど、こんなことで体育の成績、どうやって点数を配分するんだよ、とも思う。


 守備を終えた僕はベンチでグラウンドを眺めた。

 大崎先生のサボりによる自習のような体育の授業は、グラウンドを三つに分けて行われている。

 男子は軟式ボールを使った野球、女子は二組に分かれて、ソフトボールとテニスをそれぞれ楽しんでいる。

 互いのボールが飛んでこないかどうかが気になるところだが、その辺りはちゃんと仕切られているので、男子がよほどのホームランでも飛ばさない限りボールは女子の方には飛んでこない。

 見渡しても担当の教師はどこにもいない。聞くところによると、体育倉庫で煙草を吸ったりしているらしい。誰も文句は言わない。他の教師にちくったりすると暴力の洗礼があるらしい。


 近くのテニスコートに目をやると、わがクラスの女王的存在の伊澄瑠璃子がラケットを振りコートを駆けている。

 長い髪をヘアゴムで留めた姿は初めて見る。

 前髪を綺麗に揃えた顔は小さく、切れ長の瞳が少女漫画のように映る。

 太陽の下、白いテニスウェアが眩しく映え、スコートを穿いた脚は美しい。

 彼女は見る者全てを魅了しているのだろうか、その証拠に女子たちは憧れの眼差しを向け、男子達は、性的かつ不純な欲望をたぎらせているようだ。

 ただ、伊澄瑠璃子はそんな憧れや欲望を踏みつけるように地面を蹴りコートを駆けている。そして、リズミカルに飛んでくるボールを軽やかに打ち返している。

 向かう相手は神城涼子だった。彼女も目を引く美しさは持ってはいるが、伊澄瑠璃子を前にすると見劣りし、ただの女子高生に見えてしまう。


 僕の横の男子が「神城涼子も伊澄瑠璃子の登場ですっかり人気を失ったな」と言うと、

「違いない。俺もだんとつ、伊澄の方がいいよ。神秘的だし」と別の男子の声がした。


 体育の授業では男子と女子は別れ、更に、女子はテニスとソフトボールに分かれる。

 くじ引きでテニスは8人、残りはソフトという具合に無理に別れさせられる。

 伊澄瑠璃子に無関心な委員長の神城涼子や佐々木奈々を除いてほとんどの女子がテニスを希望し見事に外れた女子はソフトボールを仕方なしにやっている。

そんなソフトをやっている女子の残念さは男子にまで伝わってくる。

 中でも特に残念がっていたのは腰巾着の黒崎みどりと白山あかねだろう。

 その二人が、ピッチャー、バッターという具合に対峙している。


 くじに外れた時、黒崎みどりはテニスが当たった女子に「ねえ、変わってよお」と交渉していた。もちろん相手の子は譲る気はない。黒崎は「ちぇっ」と舌打ちし、着替えるため更衣室に向かっていった。そんな黒崎の後を追うように白山あかねが「私も外れたよお」と更衣室に入っていくのを見た。


 順番を待つ暇な僕は、そんなことを思い出しながらテニスコート見たり、女子のソフトボールを見たりしていた。

 特に伊澄瑠璃子にはどうしても目が注がれてしまう。何度かコートに立っては消え、また今は伊澄瑠璃子がボールを追い駆けている。

 

 女性陣から男たちの野球に目を移すと、

 バッターボックスに立っているのは松村だった。

 あの日から、妙に運動神経が良くなっている松村だ。マット運動も敏捷に動いていたし、サッカーもなぜか上手くなっていた。

 その理由を訊いてもおそらく教えてはくれないだろう。

 松村はゆっくりと素振りをしながら、ピッチャーを見る。

 ピッチャーは剛速球を投げると有名な近藤だ。


 同時に女性のソフトボールのピッチャー黒崎みどりがボールを手に構えている。

バッターの白山あかねは「黒崎さん、ゆっくり投げてよ」と笑っている。

 その声に黒崎は「ゆっくり投げるけど、どこに飛ぶかわかんないよ」と大きく言った。

「私も打ったらどこに行っちゃうかわかんない」と白山あかねがけらけらと笑った。

 

 適当な女子のお遊びだな、

 投げるのもゆっくり、打つのもゆっくりだ。

 そう思っていると、黒崎の言った通りのスローな球がバッターボックスに向かって飛んだ。

 予想のつく展開をこれ以上見る必要はないな、

 と思い、僕はテニスコートに目を移した。

 神城のレシーブが伊澄瑠璃子のコートに入った瞬間、伊澄瑠璃子のスマッシュが決まった。ポンと一段と激しい音がした。神城は受けることができなかった。


 同時に女子のソフトボールの方から黒崎みどりが、

「もうッ、あかねったら、ヒットじゃないの」とヒットを出した白山あかねに怒っている。

 しかし、ヒットを打ったはずの白山あかねは走らなかった。

「きゃああっ」

 走ることなく、そんな細い叫び声を上げていたのだ。

 投手の黒崎の方が慌てて、「あかね、走らないと」と言ったが、白山あかねから帰ってきた返事は、

「みどり、あれを見て」白山あかねは男子の、男子野球のバッターボックスを指していた。


 そこにいたのは、立った今デッドボールを受けた松村だ。

 近藤の剛速球をもろに顔面で受け止めている。

 一瞬だったが、僕は見た。

 松村の頬に食い込むように当たっているボールがゆっくりと回転しているのを。

 数秒で回転を停止したボールはぽとりと地面に落ちた。

 それまで声を失っていた審判がようやく合図を出した。

 その瞬間、女子たちばかりでなく男子も騒ぎ始めた。

「きゃあっ」

「ウソだろ」

「おい、松村、大丈夫か?」

 しかし、問題は、松村がバットを持って構えたままだということだ。

 言うまでもなく、松村の頬はへこみ、顔に穴が開いているようになっていた。

 これが本当の穴なのか。

 そう思った時、松村はバッターボックス上にどっと倒れ込んでしまった。


 ベンチにいた僕らは松村に駆け寄った。

 僕は他の奴らを押しのけ、倒れている松村に呼びかけた。「しっかりしろ、松村」

 僕の声に、僅かに反応した松村を見ると僕は松村の体を抱き起こした。

 すると、松村は顔を起こすと「ああ、屑木か、悪いな」と言って弱く笑った。

 けれど、頬のへこんだ松村は顎が噛み合わないのか、口調が苦しそうに聞こえた。


「誰か、保健室に!」

 誰かの大きな声で状況は変わり、男子の野球は中止となった。

 それでも体育の教師はどこにいるのか見当もつかず、

 僕は他の連中と力を合わせて松村を保健室に運ぶ準備をした。


 その時、僕の背中にあの感触が蘇った。ぞっとするような冷気だ。

 僕はその原因を確かめるようにテニスコートの方に振り向いた。

 そこにはラケットを手に僕らを見ている伊澄瑠璃子がいた。

 遠くでもわかる。

 伊澄瑠璃子はにやりと笑っていた。


 その時の僕はこう思っていた。

 テニスコートでスマッシュを決めた伊澄瑠璃子のテニスボールの魂のようなものが、男子野球の近藤の剛速球に入り込んだのではないかと・・

 いや、そんな現象はこの世にありえない、僕は考えを打ち消した。

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