第309話 コンプレックス

◆コンプレックス


 人間、誰しもコンプレックスを抱えて生きている。

 人生に成功した大富豪でも幾つものコンプレックスがあると聞く。それは体の事だったり、環境だったり、学歴だったりする。

 僕の場合は、親が授けてくれたこの体にさほど劣等感はないし、家の環境も何ら問題もない。学歴も中の上だ。人にとやかく言われることもない。

 だが、コンプレックスは「限りない欲望」とセットになっている。

 ある程度の学歴があっても、その上の者に対しては劣等感を持つものだ。

 僕にとって県立の神戸高校がそれだ。

 中学三年生の時、どうあがいても入れなかった高校。

 同時にそれは、初恋の女の子、石山純子がすんなり入った高校でもある。石山純子にはほぼ絶望的な形で振られた。

 それ故に、僕にとっての神戸高校は、コンプレックスの対象であるのと同時に、思い出したくない女の子がいる場所だ。

 成績優秀な青山先輩も入れなかった、と言っていた特別な高校だ。

 僕はこう思う。

 コンプレックスや憎悪の対象となるもの。

 僕の場合はそれが神戸高校だ。その校舎を見たことは無いが、仮に見たとしたら、眩しく足が竦みそうになるかもしれない。ましてやそこに通う生徒となると、すごくこちらが劣った人間のように感じてしまう。

 おかしなものだ。少しの偏差値の差で進路が変わっただけのことだ。そこまで考えるのはおかしいと言われるかもしれない。

 だが、人間はそんな僅かなことでコンプレックスを抱いたり、他人を嘲ったり、憎しみを抱いたりする。

 少なくとも僕はこの数年でそんなことを学んだ。


 そんな高校の文芸部と一緒に読書会をするわけだ。まさか、石山純子が神戸高校の文芸部に所属しているはずもないが、胸の高ぶりを抑えられないでいる。

 ひょっとしたら? という心の動きだ。

 この「ひょっとしたら?」という感情は、「居て欲しい」なのか、「居てもらっては困る」なのか定かではない。

 だが今日、その不安定な気持ちを安定に変えてくれた。


「これが相手の高校の出席者リストよ」

 夕暮れの部室で、速水部長が、神戸高校文芸部の出席者リストをサークルメンバーに回示した。

 最初に、和田くんがペラペラの紙を見ながら、「別に名前なんか見ても面白くないよ」と言った。

 すると小清水さんが「和田くん、速水部長は面白いとか面白くないとか、そういう意味でリストを見せているのではないですよ」と戒めた。「これがあるということは、私たちの出席リストも相手の高校に渡っているということですよ」

「そ、そうなんだ」和田くんは仏の小清水さんに言われたことでドギマギしている。

 二人のやり取りを聞いていた青山先輩が、

「まあ、これは心構えみたいなものだよ」と言った。

 当の僕は、皆の会話は頭に入っていなかった。それよりリストの氏名が気になって仕方なかった。

 回ってきたリストの中に当然、石山純子の名前はなかった。

 僕はリストを見ながら、何故か胸を撫で下ろしていた。ホッとしたのか、少し残念なのか、複雑な心境だった。

 仮に、石山純子がいたら、今の僕の姿・・決して自慢できる姿ではないが、中学の時よりは少し影が濃くなった今の僕を見せつけることができる。そう思う気持ちも少なからずあったからだ。


「鈴木くん」速水部長が呼びかけた。

 そして、得意の眼鏡のくい上げをして、「その顔だと、思い出の女の子の名前は無かったようね」と皮肉交じりに言った。

 おそらく僕のいつもと変わらぬ表情を見てそう判断したのだろう。

「そういや、鈴木くんの初恋の相手は神戸高校だったんだね」と青山先輩が言った。


 僕の中学時代のぶざまな失恋は、文芸サークルの全員が知っている。

 夏の合宿の寄り道の須磨の海岸で、速水沙織の養父のキリヤマに出会ったからだ。

 そして、僕は過去に速水沙織とキリヤマに出会っていたことを思い出した。そして、キリヤマと争いになった。

 僕と速水沙織の関係はどこで? と他の部員たちが疑問に思った。 

 その経緯上、部員たちに話さざるを得なくなったのだ。

 僕が公衆電話で石山純子に告白をし、見事に振られた。その帰り道、キリヤマに引きずられるようにして歩いていた速水沙織に出会ったことを説明した。

 誰にも話したくないことを、速水沙織も僕も部員たちにだけは話している。


 僕は思っていた。

 古い恋と、現在進行形の恋は、同じ恋でも、全く違うものではないか、と。

 僕にとって、過去の恋も大事なのだ。

 過去の恋をぞんざいに扱うことは、昔の自分の心を否定してしまうことだ。

 と言っても、終わった恋には違いないが。


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