第16話 小清水沙希の前で透明になる
◆小清水沙希の前で透明になる
文芸サークルといっても、特に目立つような活動はないように見える。スポーツ系のように秋の全国大会を目指すとか、技術系のように何かを創造するとかもない。
一か月に一度、何かの本を選んで感想、批評を述べたりする。一年に一回、文芸集なるものを発行するらしいが、今は予算不足でそれもかなっていないらしい。
これでは、サークルの危機となっても仕方ない。
あとは、この部室で談笑したり、静かに本を読んだり、するくらいだけらしい。
・・と部長の速水さんから簡単な説明を受けた。
そんな活動だから、毎日、この旧校舎のうす暗い部屋に来る必要もない。
来るのは空いた時間だけらしい。僕は一応新入部員ということもあって最初のうちは毎日この部屋を訪れることにした。
部室での談笑は親睦を深めるためのものらしい。
本当は早く帰って、受験勉強をしたい・・
けど、僕には透明化・・速水さんに透明化についてもっと訊きたい。
そんなこともあって、この部屋に来ることを優先した。
けれど、速水さんと二人きりになることは・・ない。
もう一人の部員小清水沙希がいるからだ。かといって小清水さんが迷惑というわけでもない。影の薄い、いや、女の子に縁のない僕にとっては彼女との語らいも貴重な時間だ。
・・それよりも・・このサークル活動には大きな問題がある。
それは僕自身の問題・・僕の体の問題だ。
部員がそれぞれ、本を読む時間・・当然、僕も何らかの本を読む。
読む本によっては、眠くなる・・そして、眠気と戦うと透明化が訪れる。
おそらく、この部で透明化について知らない人間は小清水さんだけと思われる。速水さんと二人きりの時は仕方ないとしても、小清水さんには僕の透明化については知られたくない。
そんなわけで、
対処方法その1・・眠くなったら、机に突っ伏して、そのまま寝る。言い訳は昼寝。
対処方法その2・・すぐさま部室を出る・・理由は適当・・トイレとか。
対処方法その3・・カフェインを多目に飲む・・体に悪そうだな。
今のところ、考えつくのはそれくらいだ。速水さんは眠くなったら、どうしているのだろう。
速水さんが透明になった時、とても眠いから透明になったというわけでもなさそうだった。
速水さんの透明化方法について知りたい。そして、それは僕にも応用が可能なのだろうか?
そして、速水さんのあの時の表情・・透明になった時、速水さんの悲しみが伝わってきたのはどうしてなのだろう。
「鈴木くん、初日は川端康成の『雪国』を持ってきたのね」
小清水さんはそう言って仏の笑みを浮かべた。次第に彼女の笑顔に癒されている自分がいる。
僕の読んでいる本は、それほど多くもない僕の部屋の蔵書から、今朝引っ張り出して持ってきた本だ。
眠気を誤魔化すための本なら、漫画とかミステリーの方がいいのかもしれないが、僕は漫画が苦手だった。基本的に文字が好きなのだ。
でも、この静けさの中、特に小清水さんとの会話もなく、あえてする話題もない状態だ。
いくら、漫画よりこんな純文学小説の方が好きだと言っても、この状況はまずい。
今はまだ大丈夫だが、万が一眠くなったら・・
いや・・
小清水さんは速水さんのように透明化できる人間ではないとしても、透明になった人間を見ることのできる人間かもしれない。
つまり、僕の母や、速水さんのように・・透明になった僕が見えるかもしれない。
ん? もしそうだとしたら、僕がこのまま透明になったとしても、小清水さんには見えて、何でもないということになる。
「あれ・・鈴木くん?」
目の前の小清水さんが本から顔を上げ、辺りをきょろきょろし始めた。
しまった! 考え事をしていたせいで、眠気と戦っていたことを忘れていた!
カフェイン効果もとっくに切れている。
体を見るとゼリー状だ。しかも前よりはっきりとゼリー状だ! 部室の鏡には僕は映っていない。しかも前より透明化に気づくのが遅いぞ。
声が出せない。どうする、どうする。
このままじっとしているか。本から手を離すと本だけが見えるようになるから、本も手放せない。
くしゃみとか出たらどうしよう・・
「鈴木くん、いつのまに、トイレに行ったのかなあ・・」
独り言のようにそう言って、小清水さんは周囲を見るのを止め、自分の読書に戻った。
小清水さんはトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んでいる。あの本こそ眠くなりそうだ。
だが、そんなことより、問題は・・
僕が怖れるのは、このまま元の姿に戻ったりしたら、一巻の終わりだ。
その時は正直に小清水さんに言うか・・僕は透明人間です。
ダメだダメだ・・それはダメだ。いくら仏の小清水さんでも。
透明化はこれまでの経験だと、あと、20分か、そこらだ。
取り敢えず、息を凝らし、動かない・・これが今できることだ。
しばらくすると、廊下をつかつかと歩く音が聞こえた。速水さん? 足音は部室の前を通り過ぎていく。
何人かが廊下を通る音がした。速水さんの入室を待ち焦がれる。
これが恋人を待つ気持ちなのか? 違うよな。
速水さんが入ってきたから、どうと言うものでもないが、心のどこかで彼女を頼りにしている所がある。それは、僕の透明化を唯一知っている人間だからだろう。
20分ほど経った。
そして、待ち焦がれた人はやってきた。
「ごめん。遅くなったわ」
僕はそれこそ笑顔で出迎えた。声に出さずに「速水さん、待ってたよ!」と言った。
・・が、これってちょっとまずいよな。
だって、速水さんには僕が見えているんだから。
案の定、速水さんはこう言った。
「鈴木くん、初日、来てくれたのね」
眼鏡の中の瞳が輝いた。
ああっ・・速水さん、ダメだ!
僕は頭を横に左右にブンブンと振って合図をした。速水さんは分かってくれるだろうか?
一瞬、速水さんの大きい目が一際大きく見開かれ、
「ああっ・・ははっ・・はっ・・」
僕の出した合図の意味がわかったらしく、速水さんは顔を歪め、おかしな声を出した。
しばらく、僕と速水さんは顔を見合わせた。
今後の対策、打ち合わせをするわけにもいかない。無言で顔を見合わせる。
普段落ちついた雰囲気の速水沙織の顔の表面に困惑ぶりが滲み出ている。
速水さん・・どうしたらいいんだ?
「速水部長・・鈴木くんがいつのまにか消えちゃって」
小清水さんが口を開く。「私の知らない間にトイレに行ったと思うんですけど・・もうだいぶ時間が経つのですけど・・おかしいわ」
「そっ、そうなの、沙希さん・・ト、トイレなのね。鈴木くん・・ああっ・・ははっ」
速水さんはまだ落ち着きを取り戻せないようだ。
そして速水さんは意を決したように踵を返し、入ってきた部室のドアを開けた。
速水さんのその行動を見た小清水さんは「部長、今日、暑いですかあ?」と訊ねた。
「そ、そうね。少し」と速水さんは答えた。
確かにまだクーラーを点けるほどでもないにしろ5月の陽気は若干暑い。
僕は速水さんの行為に感謝しつつ忍び足で部室の外に出た。
この前と状況が逆だな。
そう思って、少し可笑しくなった。僕と速水さんのチームプレーのような気もした。
幸いにも純真無垢のイメージの小清水さんにはばれなかったようだった。
そして、わかったことがある。小清水沙希には透明化した僕は見えない。
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